123話 チョコレート効果
「お前達……また手が止まっておるぞ」
ハッとして顔を上げると……テーブルの向かいで夕食のスプーンを握っているおじい様が、呆れたような顔をしていた。
「「す、すみません!」」
横から全く同じセリフが聞こえてきて、私は兄と顔を見合わせる。そんな兄の目の下には、私とそっくりな隈ができていた。
兄が寝不足な理由は分かっている。領主の業務が終った後に、ゴムの加硫と岩塩の分析に時間を掛けてくれているためだ。
一方の私は、キナ皮の配布管理や報告データの整理が終った後、ペーストにしたカカオからココアバターを分離する方法に頭を悩ませる日々が続いていた。
カカオは現地で種を発酵させた上で、乾燥した状態で輸入している。そこからカラを取り除いて煎り、挽いてペースト状にしたところに数種の香辛料を練り込んで、固めた状態で保存する。それを湯に溶かしたものが、ショコラトルである。
だがそのペーストにしたカカオを固めただけでは、あの『チョコレート』にはならなかった。
確か一旦油分であるココアバターを分離させてから、残りを乾燥させて細かな粉末に挽いた物がココアパウダーになる。それから改めてバターとパウダーの比率を調整しつつ混ぜ合わせると、あの程よい口溶けのチョコレートができるはず。なのだが――
「お前たち、このところ何をそれほど根を詰めておるのだ」
「それが、おじい様にも先日飲んで頂いたショコラトルなのですけれど……原料となる種を挽いた物から油分を抜きたいのですが、良い方法が見つからないのです」
「種から油分を抜くのか? ならば葡萄種子油のように、圧搾すればよいではないか」
「圧搾機は試してみたのですが……しっかり絞るため細かく挽くと、ムニュっと横からあふれてしまって上手く絞れないのですわ……」
「ならば搾油袋に入れるなど、やりようはあるだろう」
「搾油袋……ですか?」
「圧搾機のない時分には、種子の油を搾るのに確か袋を使っておったはずだ。エルヴェが知っておるから、訪ねてみると良い」
*****
翌朝、早速モルコ村に向かった私は、エルヴェ卿の手解きを受けてカカオペーストを目の細かい袋に詰めた。
「微妙に油が染みてる気がする……けど、これで搾れるのかしら……」
「はっはっは、姫様、何ごとも忍耐が大事ですぞ。気長に待たれませ」
「そうね……」
いつになったら食べられるのかしらと思いつつ、同様にいくつか袋を作る。それらを倉庫の一角を借りどんどん吊り下げて、それぞれの下に油を受けるための器を置いた。
*****
あれからひと月余りが経過した、ある日。年の暮れを迎えたエルゼス地方は、数年ぶりの大雪に見舞われた。
北国だが通常はそれほど降雪のないエルゼスにとって、慣れないレベルの積雪はあっという間に交通を麻痺させた。孤立する村や遭難者が続出し、各地から行政府に救援要請が次々と届く事態となっていたのである。
今夜は行政府に詰めっきりになるという兄が準備のため城に戻ってきたのは、午後もまだ早い時間帯だった。しかしその空はまるで夜のように暗く、馬なら片道四半刻もかからないとはいえ、山は慣れない雪道である。
「領主がこんな二十四時間営業のブラック労働職だとは思わなかったよ……じゃあ、行ってくるね」
休む間もなく再び城を出ようとする兄を追いかけると、私は蝋引きの小さな袋を差し出した。
「お疲れさまです。よかったらこれ、アマンドショコラができたんです。おひとつ摘んで行きませんか?」
中に入っているのは、今朝完成したばかりのアーモンドチョコレートである。袋の口を開けて中身を見せると、兄は歓声を上げながら一粒つまみ上げた。
「うわ、とうとう完成したんだね!」
完成とは言ってもまだ板チョコのように綺麗に形を作るのは難しかったので、まずはチョコがけにしてみたものである。
油分が充分に絞り取れたカカオペーストを、しっかりと乾燥させてから粉に挽く。それを絞られた油分、つまりココアバターと適度に練り合わせたら、ようやくあのチョコっぽいものの完成である。
よく煎ったアーモンドの表面をカリッカリにカラメリゼしてから、チョコをたっぷり纏わせる。仕上げにココアパウダーをまぶして冷やせば、アマンドショコラの完成だ。
「チョコは別にそんな好きってわけじゃなかったけど、こうして食べるとすごく癒されるなぁ……残り、もらって行っていい?」
「もちろんですわ! 実はたくさん作って別に包んでありますから、よければ騎士の皆さんにも配って差し上げてください。雪山で遭難した人が、チョコ持ってて助かったという話もありますし!」
「ははは、そうだね。みんなきっと喜ぶよ! じゃあ他の人のぶんはまとめて従卒の誰かに渡しておいて」
「了解です」
私は兄にチョコ入りの小袋を手渡しながら、だんだん心配になってきて眉尻を下げた。
「おにい様、ここのところ寝不足でしたよね……本当に、道中気を付けてくださいね。そういえばゴムもカリウムもそんなに急ぎではありませんから、あまりご無理はなさらないで下さい」
「いや、これはぼくの趣味だから。それにゴムについては、実はちょうど良い配合が見つかったところなんだ。加硫は最後の加熱の前に形成しておく必要があるから、今度の休みに一緒に作ろうね」
そう笑いながら言い置くと、兄は再び雪の降る山道へと出て行った。
*****
領内を大混乱に陥れた大雪だったが、何とか人的被害や農作物への被害は最小限に抑えられた。さらに、怪我の功名な一面もあった。それはヴェルジュ山脈に潜んでいた複数の破落戸集団が、ことごとく遭難。自ら救援を要請し、投降してきたことである。
騎士達の携行食にオマケで付けたアマンドショコラは、たった一粒で元気が出ると大好評だった。原産地では士気高揚に使われるという話は、あながち誇張ではないのだろう。
ならばカカオは高価なものだけど、この災害時に使わずしてどうするんだ! と、カカオの在庫を全部放出し次々と作ってはお届けを続けていたのだが――救援に行った騎士たちから遭難した山賊たちにショコラがいくつか渡ると、「兵士はこんなにウマいもんが食えるのか!」と、彼らの間に衝撃が走ったらしい。
それは、投降した計約三百名のならず者たちが一斉に領兵に志願するという、よく分からない事態を引き起こした。なぜか食べていない人まで噂話だけで大漁に釣れているのは、どういう理由だろうか。正直言うと正規騎士以外に稀少なショコラが渡ったのは想定外だったけど、衰弱してるのを見かねて食べさせたと言われてしまったら、仕方ない。
そんなわけで、たった数十粒のショコラがもたらしたのが、この結果である。チョロいにも程があるとは思うけど、元傭兵も、元農奴も、そもそも彼らは『ならず者』に、なりたくてなった訳ではないのだろう。
かつてあれほど向こうの世界を震撼させたソマリア沖の海賊が、一気に消え去った理由――漁師に戻った元海賊達と某寿司店社長のエピソードを思い出せば、何ら不思議ではないのかも知れない。
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しばらく混乱した日が続き、ようやく兄が久々の一日休みを取れたのは、半月近くが経ってからのことだった。昼過ぎに起きてきた兄と居間で遅めの昼食を取りつつ話を聞いていると、結局三百近い志願者を全員雇うことにしたらしい。
「そんなに一気に常備兵を増やして、予算は大丈夫なのですか?」
「領民に仕事を用意するのも、領主の仕事だからね。なんて、ちょうどしばらく充分な公共事業があるんだよ」
「公共事業?」
「ほら、治水工事。ちょうど人手をどう集めるか思案していただろう? 当面は土木専門の工兵部隊として運用するつもりだよ。まだウォルターたち自由石工組合の技師がエルゼスにいるうちに、技術を吸収してもらおうかなって」
「なるほど……良いタイミングでしたね」
「フロルが放出してくれたショコラのおかげだよ、ありがとう。しかしすごいね、チョコレート効果」
「本当に、まさかこんな効果は予想してませんでしたけど……お役に立てた様でなによりです」
「じゃあお礼と言ってはなんだけど、午後の予定が空いてたらゴムの加硫やってみない?」
「わたくしの予定ならいくらでも都合しますけど……おにい様の方は、もっと休まなくて大丈夫なのですか?」
「半日もゆっくり寝たら、すっかり全快だよ。いやぁ、若いっていいね!」
まだ二十二歳なはずの兄はそんなオッサンめいたことを口にすると、ひとつ伸びをした。
「こっちは趣味だし、むしろ息抜きだよ! じゃあ準備ができ次第、工作室に集合ね」
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私達が工作室に到着すると、そこではセルジュが素練りから硫黄粉末の練り込みまでを終えたゴム樹液を用意してくれていた。
あれからセルジュは、一応書類上は侯爵の侍従長に昇格している。ところがあまり上品な仕事は性に合わないということで、何だかんだ地元で兄の私用をこなす、信頼できる雑用係……もとい、腹心ポジションにおさまっていた。
私は用意しておいた木型を取り出すと、早速ゴムを塗りつけるようにして形成し始めた。最初は衣服のようにシートをパーツ毎にカットして繋ぎ合わせようかと考えていたのだが、その方法ではどうしても繋ぎ目の部分が弱くなってしまう。そこで木型に塗りつけて形成する方法にしたのだ。
ミヤコがクイズ番組で見たゴム手袋工場で使われていた方法に近いものなのだが、いちいち型紙通りに切り抜き繋ぎ合わせる方法よりも、手早く済んで量産にも向いているだろう。
全ての用意を終えると、兄はゴムの木型をくっつかないように円筒形の大きな缶の中に入れた。同時に入れた水を点火で沸騰させ、発生した水蒸気でゴムに熱を加えてゆく。
しばらくして缶から木型を取り出し、粗熱を取ってからベロンと剥がせば……ホッカホカのゴム製品の出来上がりである。
こうして血圧計のマンシェットを手に入れた私は、とうとうバイタルチェック三種の神器を揃えることに成功したのだった。




