122話 昼行灯は照らさない(2)
まさかすでに、そこまでバレていたというのか。そういえばなぜ油断してしまっていたのだろう。この人はただのダラけたおじさんではないと、分かっていたはずだったのに。
「隠さずともよい。ワシはワシが平和なら、それに越したことはないのだからな。紫眼を見付けたりしたら本山から調査団が来たりして、面倒くさいではないか!」
「それでは……今後ともお目こぼしいただける、ということでしょうか……」
「ワシが常に情報を収集しておるのは、ワシ自身の身を守るためだ。ワシの身に危険が及ばんかぎり、告げ口などせぬよ。まあ早めに危険の芽を摘んでやろうかとも思ったが、もう引き返せぬところまで進んでしまっていたものでなぁ……」
ひええ、実はそんな綱渡り状態だったとは。『御しやすそう』とか言っちゃってたんだけど……政治家って怖い。
「まあ本山に介入の口実を与えるくらいなら、泳がせておいてやろうと思ったのだ。とはいえバレリオの方は現法王のマルコス派に通通であるから、今まで以上に気を付けるのだぞ。あやつは単にクソ真面目なだけの奴だが、その性格から無自覚にワシの監視役を担っておるのよ。まあこれまでの分はそれとなく誤魔化しておいたから、安心しておくがよい」
エヴァンドロ司教はいつもながら饒舌に話し終えると、ニヤリと老獪な笑みを浮かべた。うわー、思ったより司教の掌中で踊らされていたのかもしれない……。
だがそんな司教は、今は安心しろとか言ってはいるが……きっと国には家族を残して来ているだろう。いつ裏切られても、おかしくはない状況だ。
「そうおっしゃいます猊下は、母国に守りたいものはないのですか? ご家族などは」
「フン、もう三十も過ぎた息子たちを、今さら守ってやるもないわ」
「では、お孫さんは」
「……最後に会ったのはまだ物心もつかんうちよ。どうせ迷惑な祖父のことなど覚えとらんだろう。息子たちもみな、どうせ政争に敗れ自分たちの出世を不利に追い込んだ父のことなど、心配なぞしとらんわ」
「そんなことはございませんわ!」
「いや、分かっておる。ワシは諜報でここまで生き延びてきたのだぞ」
するとワイングラスの底を回しつつ、兄が苦笑して言った。
「猊下のご愛妾の方々が定期的に、里下がりを理由として関所を通過する記録がありましたが……やはり諜報員でしたか」
「クク、侯爵は気付いておったか」
そ、そうだったんだ……そりゃあちょっと違和感はあったけど、まさかビアンカ姐さんがスパイの人だとまでは思わなかった……。
目の前に座る姐さんの方へとチラリと視線を向けると、彼女はちょっとゴメンねという感じの笑みを浮かべつつ、小首を傾げた。もしかして、姐さんは私からの情報収集担当だったのだろうか? ううむ、まずいことは言ってないはずなんだけど……。
やはりエヴァンドロ司教は、かつて法王選挙を戦ったというのは伊達ではなかったのか。なんだかいっぱいくわされたなぁ……。
でもこれは、考えようによっては教会の中枢に味方を作るチャンスなのかもしれない。私は酒の勢いも手伝って、とっさに思ったことを口にした。
「しかしながら、法王選挙で破れたくらいで、なぜこんな辺境に左遷されたのですか?」
「そなた、慇懃そうに見えて、たまにズバッと物を言ってくれるのぅ……まあいい、ワシのいつもの政治的姿勢が、教会の腐敗の象徴であると弾劾されたのだ」
「なんと……政敵に陥れられてしまったのですね!」
「いや、陥れられたわけではないぞ。賂政治を行っておったのは、事実だからのぅ」
「事実なのですか!?」
「ああ、だがこれまでは皆普通にやっておったことだ。そなたも、例の結晶を持って来おったではないか」
――そうでした!
私が神妙な顔をして押し黙ると、司教は呆れたような顔で言った。
「それをマルコスの奴め、教会の腐敗を正すなどと言い出しおってからに。ワシはその腐敗とやらの象徴として、責任を取らされたというわけよ。とはいえワシは慣例を続けたのみで、法を犯した訳ではない。断罪するには罪状が足りず、扱いに困った奴らによって、この西大陸で最も忌避される教区のひとつに追放されたのだ」
最も忌避される、かぁ……まあ、魔王国との最前線だしね。私が黙って聞き続けていると、そこで司教は表情を一変させてニヤリと笑った。
「しかしマルコスは、改革を急ぎすぎたのだ。抑えつけられた者共から不平不満が噴出し、内紛一歩手前まで行っておるらしいぞ。ざまぁみろ!」
司教はご機嫌な様子で、高く笑い声を上げる。
「政治には柔軟性が必要なのだよ、柔軟性が!」
空のグラスを掲げて笑い続ける司教の方を見て、おにい様が穏やかに言った。
「白河の、清きに魚も棲みかねて、元の濁りの田沼恋しき……ってヤツですねぇ。たとえ良い政策でも急な締め付けは反発を生みやすいから、制度改革は徐々に進めていかないと」
「さすがは侯爵、まだ若いが解っておるのぅ。理想のみで政はできんのだ」
ウンウンとうなずく司教の方へ、私はガラスボトルを両手で持って差し出した。
「では猊下……再び法王の座を目指される御気はございませんか? 皆さま、元の濁りを恋しく思われている頃合いでは」
司教がこちらに向けたグラスに、私は血よりも赤いワインを注ぎ込む。
「ないない! そんな動きを見せた途端、少々不自然だろうと構わず暗殺されてしまうわい!」
「では充分な追い風を受けて、確実に法王の座に着けると思えたら……いかがでしょう?」
「そんな美味しい状況があるならば、玉座に座ってやらんこともないぞ。とはいえ、どうせ無理な話だろうがのぅ!」
「では……わたくしがこれから行うことが成功したら、全てエルゼス司教の功績として下さい。その功績をもとに、猊下にはピレネオスの総本山に戻り、復権を図っていただきたいのです。成功したらで、構いません。わたくしのことを『敬虔なる信徒の中から司教が見出し、フィリウス教として認めた』として欲しいのです」
「そんなもの、本山が撤回すれば終わりであろう?」
「先に、教会の恩恵であると民衆に宣伝してしまうのです。宣伝には、こちらで育成した吟遊詩人を動員します。先に世論を作りフィリウス教のおかげであると大いに感謝されてしまえば、なかなか否定はし難いかと存じますわ」
「フフン、まあよい。本当にワシを鳴り物入りで本山に凱旋させることが出来るなら、考えてやろうぞ」
「お任せくださいませ。そのお言葉、どうぞ酔いが覚めてもお忘れなきように」
私がじっと、その目を見つめながら言うと。ソファの肘掛けに肘をついたままで、司教はニヤリと笑って応えた。
「フロランス嬢、そちもなかなかの悪よのぅ」
「司教猊下には敵いませんわ」
「「フフフフフ」」
ワイングラス片手に含み笑いを交わす私たちを見て、兄が呆れ切ったような声を出す。
「どう見てもこっちが悪役じゃないか……」
「そうですね。さすがの私も、昨日の今日でこう何度も悪役笑いすることになろうとは思いませんでしたわ。まあ賄賂政治はもちろん良くはないんでしょうけど、貴族制なんて存在自体がそもそも不公平とコネの極みですしね」
教祖たる勇者フィリウスの率いる人類解放軍が母体となった成立過程を考えると……フィリウス教は元々が、地球の某巨大宗教とは価値観が大きく異なる存在だ。「侵略者に奪われし地を取り戻せ!」が主な行動原理であり、もともと平等や清貧こそを良しとする系の組織ではない。
それにいくら本当に正しいことを言っていたとしても、自分が正しい、自分に従えの一辺倒では、反発が起きてしまうものだ。本当に何かを変えたければ、面倒でもじわじわやるしかないだろう。
「マルコス現法王派はとにかく清廉潔白がウリ……つまり全然融通が利かないようですから。教典を否定しかねない予防薬のような存在は、頭から受け入れてくれないでしょう。存在を明かした瞬間に潰される危険を冒すくらいなら、初めから受け入れてくれる方を高く推した方が安全かと思います」
「確かに。とはいえ完全に逆戻りでは、やはり反対側から反発があるんじゃないかなぁ」
まだ納得しかねる様子で首を傾げる兄に、司教は苦笑いを浮かべた。
「まあそこは、ワシもそこそこ懲りたのでな。反発をうまん程度に、今後はほどほどにしておいてやろうぞ。……では、お手並み拝見と行こうかのぅ」
口ではそう言いながらも、司教はあまり本気にしていない様子である。恰幅の良い身体を揺らして楽しげに笑う司教に向かい、私は決意を込めて言った。
「お任せくださいませ!」




