110話 怖くないと言えば嘘になる(1)
温泉会談の翌日。女王陛下を始めとした魔族の要人たちが立ち並ぶ前で、私はワクチン実演販売の準備をしていた。
――というか、いつの間にか観客がすごく増えてるんですけど!?
先ほど一通り挨拶を済ませたところ、皆さま立派な肩書を持つ方々だった。それぞれが数多の従者を連れてきているご身分だろうし、この城の一体どこに、そんな人数が滞在していたのだろうか。本当に、湧き出てきたとしか思えないのだが……急に来られると緊張するから勘弁してほしい。
「お嬢様、小休止なさいますか?」
準備を手伝ってくれているリゼットに小声で話しかけられて、私は慌てて首を左右に振った。
「だだだ、大丈夫!」
こんなに多くのギャラリーが集まるとは思っていなかった私の手は、さっきからずっと小刻みに震えている。ガラス類を取り落とさないよう気を付けなきゃ……と思うと、よりアワアワとして焦ってしまうのだ。
今回用意した斑点病の予防薬は、種痘ほど完璧なものではない。毒性の弱い変異株に感染している人を確保して、そこから採取したウイルスの種を別の人へと人工的に植え付け、感染をリレーする――人痘接種法と呼ばれるごく古典的な手法に、近いものである。
毒性の弱いものを選んでわざと罹患することによって、免疫を付けるという方法なのだが。この斑点病は免疫がとにかく強力で、一度罹って治ればもう二度と他の強力な株にも罹らなくなるのである。
そんな斑点病とほぼ同じ特性を持つ地球の天然痘は、一九八〇年に世界根絶宣言が出された。つまり予防薬を地道に普及していけば、斑点病はいつか必ず駆逐可能な疫病なのである。
とはいえ、これは現代日本で接種されていたような、安全性が確立されたワクチンとは大違いの代物だ。弱毒化してると言っても本物のウイルスに感染させるから、現状では二パーセントの割合で斑点病の重篤な症状が出てしまう。つまり、五十発に一発当たるロシアンルーレット状態だ。
ただ、発症しても治療が成功すれば生還するため、死者数は今のところエルゼスで行った約四千例の接種で、因果関係が明らかなのは二名である。とはいえあちらの世界では絶対に認可が下りないレベルだが、こちらの疫病による被害状況から考えると、御の字ではないだろうか。
なお接種は主に、斑点病に感染した家族を持つ未発症の人々からスタートしていた。この予防薬には、曝露、つまりウイルスが体内に入ってから四日後くらいまでであれば、感染後でも有効という特徴がある。つまり感染初期であれば薬の代わりにもなることから、感染に心当たりのある人々が積極的に受けてくれるというわけだ。
ちなみに発症してしまった場合の治療法については、現代日本にはない有効な手段があった。それは自己治癒力を高める治療呪文と、体内の異物排出を助ける解毒呪文の存在である。
このごろ斑点病の既往歴を持つ二名の治療術師の雇い入れに成功したため、発症したらつきっきりで治療に専念できるペースでのみ、接種を行っているのだ。
だがそのワクチン接種、私は未だにやっていない。他人でさんざん治験しておいて、自分は逃げているのか? と、言われそうだが……普通に感染してしまうリスクを放置しておいてまで、この機会をとっておいた理由はちゃんとある。
そう、今日ここで、魔人の皆さんの前で接種を実演して見せるためだ。
記録上、世界で初めて全身麻酔下での手術を成功させた江戸期の医師、華岡青洲――その母は、息子の開発する麻酔薬の被験者を買って出て、命を失った。同じく妻は、視力を失った。そして黄熱病の研究で有名な野口英世もまた、黄熱病で亡くなっている。
正直言って、怖くないと言えばウソになる。『厚労省が承認しました!』という大きな権威を信頼するのは簡単だけど、自分が作ったものを信用するのは、意外と難しいことだったようだ。
でも、この斑点病の予防薬が有効なものだと身をもってアピールできる機会は、ただ一度なのだ。そしてその切り札を切るべき時は、まさに今だろう。
もちろん、たった一件のサンプルだけでその確実性が高まるわけがない。この『根性を見せる』というパフォーマンスが、人族にはなかなか有効だが……魔族相手にはどこまで通じるだろうか。
準備を終えた私は聴衆に向かい、簡単な仕組みをプレゼンすると。保管用のガラスチューブから『種』を付けた二股の針を抜き取って、自らの腕に近づけた。
*****
「うそ……」
あれから一週間。私は体温計の目盛りで自らの発熱を確認すると……愕然とした。
「まさかここで、大当たりを引いちゃうなんて……」
もともと念のため結果が出るまでほとんど人に会わない状態にしてもらっていたが……私はすぐに連絡して、さらに厳重に隔離してもらうことにした。リゼットも私のそばから離し、既往歴のある魔人の侍女さんに世話をしてもらえるよう、手配する。
そこから急激な全身の痛みに襲われ、そして翌日には、発熱が四十度を超えた。
――まさかまた、疫病で高熱を出すハメになるなんて……。
対処法……というか魔人の皆さんへの上手な言い訳を考えなくてはならないのに、熱で頭がもうろうとして、考えがちっともまとまらない。
使っているのはそもそも弱い株なんだし、念のためもし発症したら既往歴のある方に、治療呪文をかけてもらえるよう、お願いしては、おいたけ……ど……
熱と痛みにぼんやりとしたまま、浅い眠りを繰り返していると……かすんだ視界の端に、母の姿が見えた。
「うそ……おかあさま……」
母は波打つ髪を掻き上げながらベッドサイドに腰を下ろすと、その手を私の額にあてる。手のひらからひんやりとしたものが流れ込み、それは身体の奥に澱んでいた熱をすうっと押し流していった。
「ほんっと、無茶よねぇ……こんなになるまで、どうして頑張るの?」
優しいけれど、その声音はわずかな呆れを含んでいる。
「だって薬が……薬さえあれば……おかあさま……」
小さな子供の姿に返った私が、母の影を追いかける。しかしその影は、父の影に手を取られ……光に溶けて、消えてしまった。
「いかないで……」
「大丈夫よ、アタシはここにいるから。今はゆっくり、おやすみなさい」
瞼を覆うようにそっと額を撫でられて、私は再び、深い眠りへと沈んでいった。
※このワクチンは作中オリジナルのものです。
実在のものとは効能効果が異なります。