106話 不公平な才能(2)
「これは……ティボー子爵様ではありませんか! お恥ずかしいところを見られてしまいましたわ……」
そこに居たのは、あのベルガエ騎士団で治療師隊長をしていたティボー子爵フェルナン卿である。ガチギレしてるところを別の微妙な知り合いに見られるというのは結構恥ずかしいもので、私のテンションはすっかり急落していた。
冷静に考えたらお酒も入っている相手にあんな煽り方をしたら、流石に呪文をぶっ放されていたかもしれない――私の扱える火術に防御呪文なんてないのに、ちょっと頭に血が上り過ぎていたようである。
「フフン、何を仰る。全くお変わりないようで、安心いたしましたぞ!」
「まあ、そんな……」
って、ええー……私って、そんな普通にキレてる感じの印象だったの!? うわー、なんか冷静になったらすっごく恥ずかしくなってきた! 今回ばかりは、さすがに言いすぎた気がする。
「その……先ほどは礼を欠いた発言をしてしまいました。お詫び申し上げます」
私が神妙に頭を下げると。こちらも頭が冷えたらしいイヴォン卿が、まだ薄赤い顔でボソりと言った。
「アルベール卿は、妹御にまで恵まれているのだな」
「いいえ、それは違いますわ。兄が兄であるからこそ、わたくしは兄を慕っているのです」
私はイヴォン卿の目を真っ直ぐに見詰めながら、静かに、だがはっきりと答えを返す。するとイヴォン卿は、自らを嘲るように片頬を上げた。
「なるほどな……その、こちらも……令嬢への失礼を、お許しいただきたい」
ただそれだけを、言い置くと。イヴォン卿はどこかとぼとぼとした足取りで、部屋の外へと消えて行った。……彼も、ままならない現実を抱えているのかもしれない。
「これはあしらいお見事。それでこそ我らが戦場の天使様というものですな!」
その後ろ姿を見ながら面白そうに笑っているのは、フェルナン卿である。だがその様子は、私の記憶にあるあの子爵とは違いすぎるものだった。
……先生、こんなキャラでしたっけ。
「あの、ベルガエ騎士団は次の任地へ向かわれたのでは?」
「ああ、私もそろそろ年中従軍しておるのは辛い年齢でしてな。功を焦る歳でもなし、よほどの戦局でなくば交代で休暇を頂いておるのです」
「そうだったのですね」
やっぱりエルゼスは、よほどの戦局だったのかなぁ……。そう、私がしみじみ噛み締めていると、フェルナン卿は話を続けた。
「今回の遠征は魔族やどこぞの正規軍ではなく、山賊が相手、それもイスパーニアとの交渉が主題となりますからな」
「山賊相手なのに、イスパーニアと交渉するのですか?」
「うむ。イスパーニア側から国境のピレネオス山脈を越えてきた山賊共が、ガリア側の村を荒らしておるのだが……どうもイスパーニア王が裏で糸を引いておるようなのだ。そこで我らが殿下が牽制するに適任であるというわけですな。殿下も気苦労が絶えられぬよ」
そう言って、フェルナン卿はため息をついた。
現イスパーニア王は代替わりしたばかりで、領土拡大に興味津々なお年頃だ。血筋的にセレスタン殿下の従兄にあたるから、殿下が交渉役に引っ張り出されたのだろう。
そんなことを大真面目に考えていると。ワイングラスを片手にどうやらこちらもすっかり出来上がっていたらしいフェルナン卿が、突然、酔っぱらい特有の大声で言った。
「ところで、なぜウチの殿下の求婚を断ったのです? ご令嬢を妃殿下と呼ぶのを楽しみにしておりましたのに!」
「ちょ、どうかお声を抑えて!」
私は慌ててフェルナン卿の長上衣の袖をつかむと、壁際へと引っ張りながら扇子を寄せて小声で聞いた。
「なぜそれを! どれだけの方がご存知なのですか!?」
「私と副長のセヴラン卿だけですが?」
「ならばお声をもう少し小さくして下さい!」
だが酔っぱらいには効かなかったようで、フェルナン卿の声音は変わらない。
「で。なぜウチの殿下の求婚を断ったのだ? 少々呪われていようが、あんなに良い男はめったにおらんぞ!」
野戦病棟で見たあのどんな惨状でも冷静な医師は、一体どこへ行ってしまったのか。今日も黙っていれば外見は素敵な紳士なのに……お酒って怖い。
「フェルナン様は酔っておいでですわ。さあ、お水でも……」
私はどうにかなだめようと穏やかに声をかけたが、どうやら彼に聞く気はないようである。
「私は殿下がまだ十代の頃から戦場にて付き従っておるが、鬼神のごとき戦いぶりだけではなく、配下の者をごく自然に庇うこともできる御方だ。お心の優しいお方なのだ。君はそれを……」
なーんて言うけど、実は大伯母さまから聞いちゃってるんだけどね。昔の殿下はその出自と容姿と武才に恵まれ過ぎて、なかなかの俺様王子様だったらしいということを! ……だからこそ、周囲に手のひら返された時のショックも大きかったんだろうけど。とはいえ――
「――殿下が本質的にお優しい方だということは、重々承知しておりますわ。わたくしの父の恩人でもいらっしゃいますから。だからなのです。……貴卿は、殿下にご提案頂いた理由をご存知ですか?」
「そんなもの、そなたを気に入ったからだろう? 女共はすぐ呪いだのなんだの噂に踊らされおって、そなたのように殿下と真っ直ぐに向き合う度胸のあるご令嬢など稀に見る逸材だからな!」
「逸材って……そういう意味では確かにそうではありますが……」
私は内心ため息をつくと、話題の角度を変えることにした。
「フェルナン様は、斑点病の呪いを信じておられますか?」
「小鬼になるというものか。殿下はその実力で呪いを跳ね除けられたのだ、と言いたいところであるが……信じるも何も、そのような呪いなど初めから存在しない。そう言う君は? 信じておるのかね?」
「いいえ」
「ほほう……。私も治療術師のはしくれ、疫病については日頃から情報収集を怠ってはおらんが……フィリウス教の教典に、確かに疫病は魔族のもたらすものとの記載はある。だがその後魔物と化すという話は民間のただの伝承、つまり迷信だ」
疫病の話題になったとたんに、どうやら急に酔いから醒めた様子で……フェルナン卿は、声のトーンを落として言った。
「だが一度根付いた偏見とは、恐ろしいものだ。君は、どう思う?」
「わたくしは、疫病が魔族由来ということから信じておりませんわ」
「ほう……何故だね?」
子爵は驚きの表情を浮かべたが、だがすぐに否定が返ってくることもない。そんな子爵を連れて、私は一瞬場所を移そうかと考えたが……このまま扇子を広げて、小声で話を続けることにした。
ひそひそ話なんて、よくある光景だ。こんなざわつく会場では、すぐ近くで聞き耳をたてなきゃ聞こえない。ならば木の葉を隠すなら森の中だろう。
「わたくしは、疫病の原因が呪いではないということを特定し、研究を進めています。それを疫病に打ち勝つことで証明できれば、かの御方を苦しめる偏見という呪いも解けることでしょう。ゆえにご後援くださろうと、殿下は婚姻をご提案下さったのですわ」
そう、実際それだけの話だったのだ。それなのに私は、なんか勘違いしちゃってたとか……今思い出しても恥ずかしすぎる。
「しかしわたくしは、そんなあの方を巻き込みたくはないのです。道半ばで教会に露見したならば、殿下、ひいては王家のお立場が悪くなってしまいますから」
「本当にそれだけが理由だと思っておるのか? ……まあ、殿下も往生際悪く言い訳しておられたから、自業自得であらせられるが」
殿下、言い方は気をつけないと、どうやらここにも勘違いしてる人がいるようです。
私は内心で本日何回目かのため息をついてから、話を戻すことにした。
「フェルナン様は、疫病の真の原因を知りたいとは思いませんか?」
「疫病の真の原因か……当然興味はあるぞ。本当に魔族がもたらす呪いだというならば、魔族も同じ疫病で苦しむはずがなかろう。もっとも、王都で偉ぶっておるだけの連中は、教会を無邪気に信じておるようだがな」
そうか、殿下が知っていたのだから、その配下にある子爵が知っているのも道理である。
「では……」
後日また詳しい情報交換の機会を、と提案しようとしたところで。
「おや、エルゼス侯爵令嬢ではないか! 本日の主役がこんな片隅で、今度は一体何を画策しておるのかね?」
今日の夜会は、一体何なのだろう。千客万来にしても、バリエーションがあるにもほどがある。そんなお次は、あまり聞き慣れない男性の声だったのだが。どうやらいきなりディスられているようで、私は渋々そちらに顔を向けた。