104話 デトックス?いえ、中毒です
数日後。私はおにい様と一緒に王都のアントワーヌ伯爵邸を訪れていた。玄関先まで出迎えに来てくれたのは、オディール嬢と、そして一昨年の記憶より少し背が伸びたリシャール卿である。そんな彼は兄の顔を見るなり、興奮したかのように声を上げた。
「エルゼス侯爵アルベール閣下! お会いできて光栄です!」
「アントワーヌ伯爵リシャール卿、こちらこそ会えて嬉しいよ。あの顕微鏡の微小レンズは、本当に素晴らしい出来だった」
「そんな……お褒めいただき恐縮です!」
記憶にある印象とのあまりのテンションの違いに私は思わずポカンとしたが、そういえば一番最初に現れた時もこんな感じだったっけ。
「落ち着きなさい、恥ずかしい!」
眉をひそめてツッコむ姉に目もくれず、次にリシャール卿は顔をこちらに向けた。
「フロランス嬢も……その、ようこそいらっしゃいました。先日は素晴らしい贈り物をありがとうございます」
そう挨拶の言葉を口にすると、眼鏡を押さえてすっとわずかに視線を外す。……ちょっと兄の時と温度差がありすぎません?
私は型通りの淑女の礼をとってから、にっこり笑って聞いてみた。
「型合わせ、お楽しみ頂けましたでしょうか」
「実は解けていない設問が二つあり、まだ食べることができておらず恥じ入るばかりです。解いているうちに溶けかけてしまったので、ひとまず凍結して保管しているのですが」
そう言って伯爵はわずかに顔を赤らめると、困ったように頭を掻いた。
「えっ、ダメですよ! 後ほど新しいのを贈りますから、すぐに廃棄してください!」
「わ、わかりました」
私が詰め寄ると、リシャール卿は慌てたようにのけ反った。しまった、時間かけて設問全クリアしようとするパターンを考えてなかったかも。食べ物をオモチャにするのはよくなかったね……。
これはもし商品化するなら、おとなしく木製にしとくべきかなぁ……って、え、凍結保管!?
「術者から離れても、凍らせたまま保管ができるのですか!?」
さらに詰め寄る私にリシャール卿は顔を真っ赤にすると、少しだけ慌てたように答えた。
「は、はい。アルベール卿が先日発表なさった遠隔発動の術式を、水術に応用してみたのです」
「それって、冷凍庫……大発明ではありませんか!」
私は思わず声を上げたが、しかし兄はのんびりと言った。
「冷凍庫といっても周りから冷やして固めるんじゃなくて、水分子の振動を止めて中から固める感じかな。電子レンジの逆パターンってとこかなぁ……水術って面白いよね」
「分子の振動を……止める!?」
「うん。どうやら水術って、水分子を操作できる能力みたいなんだよね。何もないところから水を出してるように見えるのは、空気中にある分子を集めてるみたいなんだ。だから分子の動きを止めれば氷になるし、逆に振動させれば電子レンジ的な使い方で物を温めることもできるんじゃないかな」
「ええー……、それエグ……いえ、便利すぎじゃないですか……」
「ただし操れるのは液体の側面を持つ間だけで、完全な気体になったら風術師の領域に、完全な個体になったら地術師の領域に移る……というのがぼくの仮説なんだけど、どうかな?」
「いや、温める方は試した事がなくお恥ずかしいのですが……確かに完全に凍結してしまうと、水術師の支配領域から外れることが確認されております。火術師でありながら他属性の仕組みまで把握していらっしゃるとは……さすがアルベール卿です!!」
「いや、リシャール卿こそさすがで驚いたよ。あの術式は書き写しただけのものでも発動させるのは難しいのに、君は属性を読み替えて応用したんだよね?」
「恐縮です!! 各属性の特性について更なる考察があれば、ぜひお聞かせ願えましたら、と……」
お互いをしきりに讃え合いながら、まだ立ち話をやめそうにない男子たちに向かって……オディール嬢が呆れかえった声音で言った。
「あのう、お話大変興味深いのですけれど……続きは座ってからにいたしません?」
*****
あれから結局、応接室に移動したものの男子グループと女子グループに分かれて話し込むこと、小一時間。ようやく話が一段落したらしい兄が、こちらを向いて言った。
「で、今日は何をお願いしに来たんだっけ?」
「あっ、忘れてました! 体温計ですわ!」
私は慌てて用意していた資料を従者から受け取ると、テーブルに広げた。今回頼みたい体温計とは、昔懐かし水銀体温計である。
水銀体温計とは、金属水銀をガラス管の中に封入して作った体温計のことだ。温度変化に従い水銀が熱膨張する仕組みを利用して、その膨張度合いで温度を測るという、ごく単純な仕組みである。
ガラス加工なら火術師の領域ではと思われるかもしれないが、ビアス家はガラス加工や金属加工を得意とする火術師の家臣も抱えているのだ。素人の私が自分で加工するより、よほど確実なのである。
それに温度計に関しては、水術師だからこそ体感しやすそうな値があるのだ。それは……。
「……このように、氷水の温度のところに零度の目盛りを、沸騰しきったお湯の温度のところに百度の目盛りを打ちます。あとは単純にその間を百分割し、等間隔に目盛りを刻むだけです」
「なるほど、加温で物質が膨張する仕組みを使うとは面白いですね。しかしこの仕組みでは、測り終えて温度が変わると、すぐに逆流を起こしてしまいそうですが」
「そこは、液溜まりの入り口に細いくびれを作っておけばいいかと」
「なるほど」
測定値をリセットしたいときは本体を振って、遠心力によって水銀を液溜まりに戻すのだ。
「くびれの細さは、どれくらいにすべきでしょう?」
リシャール卿に問われて、私は申し訳なく思いながら首をすくめた。
「すみません、ちょっと分からなくて……」
見た目の記憶だけでオーダーするとか、ちょっと無謀だったかな……。
「分かりました、大丈夫です。色々と変えてやってみましょう」
「すみません……」
「いえ。そこが開発の醍醐味ですから」
そう言ってリシャール卿は、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。だが今は、そのマッドな笑顔が頼もしい。
ちなみに材料となる水銀は入手が難しい物質に思えるが、実はこの国でも古来から使われている、意外とポピュラーな素材だ。その流通の名目は、まさかの『薬』である。万能薬だということになっていて、お金持ちが喜んで飲んでいるのだ。
水銀中毒をおこして唾液がダラッダラ出るのが毒素の排出になるのだと、本気で信じられているらしい。どう見てもその症状は毒にやられてるとしか思えないんだけど……思い込みってコワイ。
そんな訳で扱いには注意が必要だけど、他に良さそうなものもないから、しばらくはよく気を付けて使うしかないだろう。
私はあらかじめ羊皮紙に書いてきた水銀を扱う作業時のガイドラインをリシャール卿に手渡すと、ぐっとその手を握って言った。
「重ねて言いますけど、水銀は本当は猛毒ですから! ここに書いてある注意点、絶対に守ってくださいね。特に気化した水銀は、絶対に吸い込まないよう気を付けて!!」
「は、はい! わかりましたから、その、手を!!」
「あ、すみません」
私がパッと手を離すと、リシャール卿はずり落ちかけた眼鏡を直しながら言った。
「で、では試作品ができましたら、またご連絡いたします」
「よろしくお願いいたしますわ!」
聴診器、体温計、血圧計。その三種の神器が揃ったら、最低限のバイタルサイン測定が可能になる。
まず聴診器については、原始的な構造の『トラウベ型聴診器』をすでに活用中だ。昔使われていたものが大学に資料として収蔵されていたので、構造を覚えていたのである。
なんて、複雑でもなんでもない、ただの小さいラッパ型の筒なんだけどね。それでも、あるとないとでは大違いだ。
これで体温計の開発が成功したら、あとは同じく水銀で血圧計を作るだけだ。ミヤコが学生の頃は拍動が分かりやすいからまずは水銀で慣れろという時代だったから、仕組みはよく分かっている。
でも、血圧計に必要なカフを作るためにはゴム系素材が必要だ。代わりになるもの何かないかなぁ……。
「ゴムみたいな風船状に伸び縮みできるもので、何か手に入りやすそうな素材ってないでしょうか……」
帰りの馬車に揺られながら呟くと、向かいに座る兄から答えが返ってきた。
「今手に入りそうな高弾性の材料って言ったら……やっぱり、簡単なのは天然ゴムじゃないかなぁ……」
「やはりそうですか……どうしたら手に入りますかね……」
「ゴムノキなら、インドか……南米とか?」
「これも、南米……」
だが一言で南米とは言っても、大陸はそうとう広いのだ。とはいえ全く手がかりがないよりは、断然ありがたい。
私は最近ほとんど驚かなくなった、兄のあちらの知識に感謝すると……脳内の南米でやることリストの末尾に、一行『ゴムノキを探す』と書き加えた。




