101話 もったいないオバケが出ますよ
公爵邸から帰宅するなり、私はさっそく王弟殿下に使いを送った。これ以上話が進んでしまう前に、時間との勝負である。なんか気まずい……とか、言っている場合ではないのだ。
上級貴族の邸宅のあるエリアは王宮からほど近い場所にあるとはいえ、夕刻に出した使いが戻ってきたのは、まだ太陽が沈みきらないうちである。
あまりの素早い回答に宛先本人が不在だったのかなと心配したが、その内容は明日にでもということだった。明後日からはしばらく仕事で忙しくなるということらしい。
翌日の午後。馬車でパリシオルム宮殿の正門に到着すると、すぐに待機していたらしい出迎えの衛兵が現れた。馬車のまま広大な敷地の内部をすすみ、正殿とは異なる車寄せでようやく馬車が止められる。
衛兵の話によると、ここは殿下の私邸にあたる棟らしい。そのまま案内された応接室には、装飾は落ち着いているが良い職人の仕事を思わせる調度品の数々が置かれている。
歴代ベルガエ大公は世襲ではなく王族籍にある成年男性の名誉職で、王家直轄領であるベルガエ地方の実質的な領主というわけではない。なので遠征に出ていないときは基本的にここが自宅になるはずなのだが……噂ではめったに居ないらしいので、すぐに捕まえられたのは幸運だったようだ。
公式の場でご挨拶する機会は二度ほどあったが、こうしてプライベートで顔を合わせるのはあれ以来のことだ。だが久しぶりに見たその顔が仮面に覆われていないことに気がついて、私は少しだけ安堵した。
今日は前髪もラフに下ろされているが、そのちょっとした違いでいつもの威厳が和らいでいるものだから、髪型の印象って不思議である。
型通りの挨拶を済ませてからソファに座ると、私は再び頭を下げた。
「先日は私を信じ任せてくださいまして、本当に有り難く存じます。淑女の行いではないと、驚かれたことでしょうに……」
「ああ、もちろん驚いた。だがそなたの行動には、全て意味があることも知っている」
「それは……ありがとう、ございます」
よかった、以前とそれほど対応が変わった感じじゃない。だが……まるで何事もなかったかの様子に少しの寂しさを感じて、私は内心で頭を振った。
――気まずくないに越したことはないはずだ。
「今日の要件は……シャルルとの婚約の件か?」
「はい。どうか……辞退いたしたく、殿下よりお口添え頂けませんでしょうか」
「本当に、それで良いのか?」
「はい。先日申し上げた通り……私は王族には加わってはならない人間です」
「だが同じ王族といえど、ただの大公妃と、この国の女性の頂点に立つ王妃とでは……振るえる権限が違うだろう。そなたの想定する道筋とは変わるかもしれないが、最終的な目的としては、王妃となった方が果たしやすくなるのではないか?」
低く問いかける声に、私ははっきりと首を振って答えた。
「王妃とは、気楽な仕事ではございません。大きな責任を伴い、中途半端な覚悟で片手間にできるものではありません。いえ、するべきではないのです」
「……了解した。私は近々、次の任務のために王都を発つ。それまでに陛下に奏上しておこう」
「あ……ありがとうございます!」
思わず喜びの表情を浮かべると、殿下はわずかに口角を上げ、言った。
「そなたがそれを望むなら、私は何だって力を貸そう。兄上は必ず説得するから、安心しておいてくれ」
「こちらからお願いしておいて畏れながら、なぜ、これほどまでに目を掛けて下さるのですか?」
「この醜い瘢痕に、そなたが何の躊躇いもなく触れたとき……私自身ですら信じていた呪いの存在を、そなたは事も無げに否定してくれた。死地を求めて彷徨う亡霊のようだった私を、人に戻してくれたのだ。私はそなたに、救われたのだよ」
そう言って自らの左目のあたりを撫でると、殿下はその深い黄玉色の瞳をわずかに細めた。
完治から十数年が経過した殿下の瘢痕は、もうとっくに周囲の肌との色味の違いはなくなっている。僅かな皮膚の凹凸も、意識して観察しなければ気付かないレベルのものだ。――だが痕が薄くなったからといって、記憶も薄まっているとは限らない。
あまりにも真っ直ぐな視線にいたたまれなくなって、私は目の前のローテーブルに目線を落とした。
「殿下は……私のことを買い被りすぎておられます。私はただ、それが呪いでも何でもないということを、知っていたにすぎません。もし知らなかったなら……同じ行動をとることができていたとは、思えないのです」
「それでも、私がそなたの行動に救われたのだという事実は変わらない」
「殿下……」
「今回は頼ってくれて嬉しかった。また何かあれば、いつでも連絡をくれ。出来うる限り力となろう。どうか私に……そなたの征く道を守らせてはくれないか」
……赤の他人にここまで言ってもらえるなんて、とても稀有なことだろう。それを私は「この人私のこと好きなんじゃない?」なんて……思春期にはよくある勘違いとはいえ、一瞬でもなんて失礼なことを考えてしまったんだろうか。
……買いかぶりではなく、その信頼に胸を張って応えられる人間になりたい。
「ありがとうございます。その代わり、殿下はわたくしがお守りいたしますわ!」
背筋を伸ばして意気込む私に、だが彼はあからさまに困ったような顔をした。
「いや、別にこちらを守ってもらう必要はないのだが」
「あ、今こんな弱っちいやつが何言ってるんだって思いましたね!?」
「いや、そういう訳では」
わずかに慌てた様子の殿下に向かい、私は右手で拳を握ると……自らの左胸をドンっと強く叩いて言った。
「なにも守るとは、腕力や権力とは限りませんわ。他にもいろいろと方法はあるのです!」
「方法?」
「はい! ええと……あれ、陰謀とか? まあ、いろいろと……」
思いのほか良い例が思いつかなくて、私は口ごもる。そのまま勢いが削がれた私を見て、殿下は低く喉を震わせて笑い始めた。
「いえあの……本当にあるんですよ? まだちょっと、正式なご報告は完成してからになりますけれど……」
実はもう、斑点病の予防薬は完成目前である。本命である種痘を作るには馬痘の入手がまだなのだが、まずは古典的な代替法から治験を進めているのだ。
「そうか……それは期待しておこう」
殿下はあまり期待していなさそうな声音で答えると、まだ少しだけ笑いを含んだ目をして言った。
「ところで、今日はまだ時間はあるか?」
「はい、ございます」
「では、菓子を用意させたから……食べていかないか?」
「はい、ぜひ!」
――数分後。
私はテーブルに所狭しと並べられたお菓子の山を目の前に、フリーズしていた。
「こ、これは……」
「そなたは以前、各貴族家に伝わる秘伝の菓子を、研究のため食べてまわってみたいと言っていただろう? なのでいくつか用意させておいたのだ」
昨日の今日の訪問でこれほどの種類を集められるなんて、社交的なタイプじゃないっぽいのにさすがは王族。コネが強すぎる……のはともかく、さすがにこの人数で食べるぶんには、量がおかしいのではないだろうか。
「あの……ちょっと食べきれそうにないのですが……」
私がおずおずと言うと、殿下は目を細めてうなずいた。
「ああ、気にせず好きなものを好きなだけ食べるといい」
この国には昔の中国みたいな、貴人がわざと食べ残しをして使用人に下げ渡す的な文化はない。つまり、食べ残したら基本的には廃棄になってしまうのだ。
こんなに甘く良い香りを漂わせているお菓子を残すなんて、もったいないにもほどがある!
「もったいないオバケがでますよ!?」
貧乏性が炸裂して思わずそう力説すると、殿下はキョトンとした顔で言った。
「お化け……?」
……やらかしたー!
私は慌てて身を引くと、誤魔化すように笑みを浮かべた。
「せっかくのご好意に水を差してしまい申し訳ございません。ただ、先に切り分けていただいてよろしいですか?」
「ああ、構わないが」
まだ面食らった様子の殿下が、それでも小さく頷いたのを確認すると。私は給仕のお姉さんにお願いして、大きめのお菓子を全部ひと口サイズに切り分けてもらう。そもそも基本は手食だから、ひと口サイズの方が食べやすいのだ。
そして大きな平皿に全種類ひとつずつ取り分けてもらうと、満足してようやく殿下の方を向いた。
「殿下は、どれをどのくらい召し上がります?」
「ああ、では……そなたと同じように」
「かしこまりました!」
私は同様に一口ずつ全種類取り分けてもらって、彼の前に置く。
「残りは後で邸の皆さんで分けて頂けましたらと」
「なるほど、そういうことか。了解した」
うなずく殿下の前には、私と同じ盛りだくさんなお菓子の山が置かれている。ひと口ずつとはいえ、甘党以外の男性はまず注文しなさそうな量だ。
「もしかして、甘い物お好きですか?」
「ああ。あ、いや」
殿下は一瞬慌てたような顔をしてから、わずかに目線を逸らして言った。
「まあ……それなりに」
もしかして、スイーツ好きを指摘されて恥ずかしかったのだろうか。厳つい系の外見なのにちょっと可愛い……とか不敬なことを考えながら、私は笑顔で手首を合わせた。
「では、いただきます!」
食前の祈りを最短バージョンで終わらせて、私は早速目についたお菓子を摘まみ上げた。
百貨店のお菓子コーナーから始まったブームを受けて、近ごろは巷のお菓子も彩りやデザインが進化している。後発に負けないためにも、こうして様々なサンプルを一度に比較検証できる機会はありがたい。
食べるうち気になったものをその都度質問すると、殿下はひとつひとつの来歴を丁寧に教えてくれた。――実はものすごい甘党なんじゃない? この人。
そのわりに全然ムダなお肉はなさそうなのが羨ましすぎるけど、まあ、そもそもの普段の運動量が違うのかもしれない。だから、ほとんど運動しない私にとっては……
「いろんなものをひと口ずつ食べられるって、いいですね!」
「そういうものなのか」
「はい!」
私は次のひと口を美味しく頂きがら、考えをめぐらせた。そういえば、ちょっとずつ色々食べられるのは日本でも女子に大人気だったっけ?
そうだ……喫茶室の来期の企画は、デザートワゴンにしようかな! ワゴンに一口サイズの小さなお菓子を装飾と共に可愛くディスプレイして、客席をまわって好きなものを好きなだけ選んでもらうのだ。
ワゴンの上に飾られた引き出しを開けたら、小さなマカロンが。その横の宝石箱を開けたら、カラフルな琥珀糖がキラキラと――。
「ふふふ、いい案がわいてきました。ありがとうございます!」
フランボワーズで赤く色づけられた焼き菓子をつまみ上げながら言うと、殿下は再び苦笑した。
「いや、役に立てたようなら何よりだ」
その後も雑談を続けつつ、この頃すっかり普及した紅茶を添えて残りのお菓子を頂きながら……私は内心胸を撫でおろしていた。気まずいままさようならでは何だか嫌だったから、楽しく過ごせてよかったな――。