第98話 殿下の提案
あれから数日が経ち、ようやく街の復興が進み始めた頃。私はオーヴェール城に現れたセレスタン殿下を出迎えて、いつものように応接室で一緒にお茶を飲んでいた。
「復興は順調に進んでいるようだな」
「はい。騎士団の皆様にもご助力頂きまして、本当に有難いことでございます」
「それは良かった」
そこで彼は話を切ると、言葉を探すように軽く視線を泳がせる。やがて意を決したようにお茶を飲み干すと、手にしたカップをテーブルに置いた。
「……騎士団の次の予定が決まった。十日後にはエルゼスを発つ予定だ」
「十日とは……こうしてお会いできるのも、あと僅かなのですね……。寂しくなりますが、遠くから殿下の御武運をお祈り申し上げております」
着席のまま頭を下げた私が、再び顔を上げると。何かを言いたげにこちらを見つめる殿下と、思いきり視線がぶつかった。
「その、話はそれだけではないのだ。先日そなたは……疫病対策の件でいずれ魔族と交渉したいと申していただろう?」
「……はい」
「あれから、私も色々と最善手を模索したのだ。そこでこれは、命令ではなく提案なのだが……私の妻にならないか」
驚きに目を見開く私をじっと見据えて、彼は噛み締めるように言葉を続けた。
「なにも、妻の役目を果たせとは望まない。まだこの地でやるべきことがあるのだろうから、任地へは付いて来ずとも構わない。だが形だけでも私と婚姻を結べば、そなたもロワイエル家の一員、つまりガリアの王族だ。今後フィリウス教との対立が表面化したとして、王族であれば教会といえども易々と手は出せぬ。……守ってやることができる」
本来、たとえ命令ではないとしても、王族からの提案を断るなど、許されることではない。だが私は喉の奥から絞り出すように、断りの言葉を述べた。
「この身に余る御心遣い、感謝申し上げます。ですが……お受け致しかねます」
「……何故だ」
「私が殿下と婚姻を結べば、ことはエルゼスのみの問題ではなくなってしまうからです。仮にロシニョル家がフィリウス教から破門されることとなった場合、現状ならガリア王国はエルゼス領を切り捨てるだけで難から逃れられるでしょう。しかし私が殿下の妻となれば、王家まで連座の憂き目に合いかねません」
「だから逆だ。王家が巻き添えになる状態を作ることで、教会がロシニョル家を破門し難い状況を作ろうというのだ!」
彼の好意を痛いほどに感じて、私は泣きそうになりながら微笑を浮かべた。
「殿下……私は、果報者にございます」
「そうか! では……」
「……ですが、お受けすることはできません。当家はこの国の王家を……いえ、私は貴方を。巻き込みたくは、ないのです」
教会からの破門──現代日本人には理解し難いことだが、これは社会的な死と同等である。民衆にとって、王権とはあくまで神から借り受けたものだ。教会が認めない者を民衆は王と認めず、簡単に反旗を翻すだろう。それどころか、魔族と同じく神に歯向かう者として……人類の敵に認定されてしまうのだ。
ただそれがロシニョル家だけの話なら、切り離されたトカゲの尻尾は最悪でもゲルマニアに食べてもらうことができる。だが万一ロワイエル家が破門されたら、きっと玉座を狙う諸侯によって大規模な内乱が起こってしまうだろう。それに併合の大義名分を得られたら、同じ人間の隣国だって黙ってはいない。そうして国は乱れ、多くの血が流れるのだ。
国の命運を背負えるほど、私は、強い人間では……
「フロランス……」
苦しそうな声で名を呼ばれて、胸がぎゅうっと締め付けられる。私は顔を伏せ、自分の胸元を鷲掴んで震える息を整えると……なんとか声を絞り出した。
「セレスタン様の御厚情は、一生忘れません。近いうちに必ずや斑点病に対する正しい知識と理解が拡がるよう、尽力して参ります。それが今の私にできる、精一杯のご恩返しでございます」
しばらくの沈黙のあと、殿下はぽつりと口を開いた。
「……了解した」
そのまま無言で部屋を出る広い背中が見えなくなっても──私は、頭を下げ続けた。
*****
それからしばらく、私は応接室から動けないでいた。
貴族らしく背筋を伸ばしたまま優雅にソファに腰掛けて、じっと向かいの空席を見詰めている。
もうそこにはない、人影を──。
「フロル……?」
ふいに兄の呼ぶ声がして、私ははっと我に返った。
「おにいさま……」
「殿下は?」
「お帰りになられました」
「その様子だと……辞退申し上げたんだね」
「……ご存知、だったのですか?」
「実は……殿下からは先に当主であるぼくの方へ打診があったんだ。ぼくは妹に判断を委ねると、お返事したよ。君は……殿下を巻き込みたくは、なかったんだね」
「おにい様、ごめんなさい。私の戦いに巻き込んでしまって、ごめんなさい。でも私は……お父様やお母様の命を奪った瘴気病が、どうしても許せないのです。多くの民のためなどと、どんなに綺麗事を言おうとも……ただただ私があの疫病を、許せないだけなのです!」
最後はほとんど叫ぶように言って、私は兄の顔を見た。とうとう決壊した涙が、あふれるように頬を濡らしてゆく。
「忘れないで。あの病が仇なのは、ぼくも同じだよ。大丈夫、ぼくたち兄妹はずっと一緒だ。……一緒に戦おう」
「おにい様……」
私のとめどなくあふれる涙を、兄はそっと指で拭った。そうしていつまでも、優しく背中を撫で続けてくれたのだった──。




