失われる筈の記憶「ルナ」
そういえば以前、彩乃に凛堂の調査をお願いした時に言っていた気がする。
『起床は六時半ちょうど。三十分ほどベッドの上でぼうっとしてから、――』
ベッドの上でぼうっと……ね。
目の前の寝起きの凛堂を見る限り、霜平の言うこともあながち嘘ではなさそうだ。
ということは!?
そういうこと!?
何をしても覚えてないって?
こんなに無防備な少女を目の前にして、何をしても良いって? (そうは言ってない)
俺は自身の唾を嚥下してから一歩、二歩と凛堂に近づく。
一間程の距離まで来て、俺を見上げる凛堂を見つめながら、俺は一人笑いが込み上げてきた。
自分への嘲笑だ。
こんな俺が、何かできるわけがない。
「触っていいよ?」と生徒会長である西海に許可されても触れなかった俺だぞ?
であれば、相手の認知し得ないところで何かをするなどできるわけがない。
俺の理性も大したもんだろ? 今にも動き出しそうな右手を辛うじて押さえつけるくらいの崖っぷちの理性だけど。
「だーれ?」
俺の葛藤など関係なしに、凛堂はポワンとした半目の表情で訊いてくる。
「分からないのか?」
「だれ?」
どうやら本当に寝起きはひどいみたいである。何この意外な弱点。ゾクゾクする。 (えっ)
「俺は、マスターだ」
「増田?」
「違う違う。凛堂、お前のマスターだ」
顔の傾きを逆にして、凛堂はまるで虫歯で痛む歯を押さえるように小さな手を頬に当てた。
「マスター……」
お? 思い出すか? 覚醒するか?
「……ぷっ! 変なの! いししししッ」
笑うなよ! お前がいつもそう呼んでいるんだろうが!
それに「いししし」って……どんな笑い方だよ。
いやまあ、無邪気な笑顔は普段とのギャップも相まって破壊力抜群だけども。
凛堂はニッコリした半目の顔のまま、言葉を継ぐ。
「お名前は?」
「冬根、だ」
「フユネくん? へぇ」
ちょっと待て。
俺、凛堂と出会って一年近くになるが、名前を呼ばれたのは初めてかもしれない。
その証拠に、呼ばれた瞬間頭の中で何かの液体がジョワッと噴き出したような感覚があった。
「なんで私の部屋にいるの?」
「なんでって……凛堂が呼んだんだろ」
「リンドウって誰?」
おいおい。
もしかして毎度寝起きの度にこんな感じなのか? まさか就寝中に火事とかになっても「火って何?」みたいな感じで逃げ遅れるんじゃないの、コイツ。
「凛堂はお前の名前だ。凛堂月」
「月……私の名前だ」
俺も、凛堂の前で下の名前を口にしたのは初めてかもしれない。
その証拠に、眩暈が起こりそうな程顔に血が上ったからだ。
名前を呼んでいた記憶がぼんやりとある幼稚園の頃は『月ちゃん』だったしな。
俺は赤くなっているであろう顔を曖昧な右手で隠しながら深呼吸を一つ。というか、名前呼んだくらいで照れるなよ、俺。まるでさくらんぼだ。
「と、とにかく! こんなところで寝たら風邪ひくから、自分のベッドなり布団なりで寝ろよ。まだ夜中だから、朝までしばらく寝れるぞ」
「冬根君はどうするの?」
「まあ、そうだな……電車もないし走って帰るかな」
「ふうん」
凛堂は未だ半開きの目をゆっくりと閉じていく。
「…………すう」
「や、すう、じゃなくてさ! だから寝るなら自分の寝室に行ってからだって!」
俺のツッコミに若干嫌な顔をする凛堂。
どうせ覚えてないならお姫様抱っこで連れて行くか? できるかな、非力な俺に。
「それじゃさ、冬根君も一緒に寝よう?」
「はッ!?」
首の隙間辺りから漏れたような高音を出してしまった。
お前何言ってんだよ。身勝手の極意でも習得したの?
「いやそういうわけにはいかないだろ」
俺としてはそういうわけにいきたいけどさ。理性、マジ脆弱。
「なんで?」
不思議そうに首を傾げるんじゃない。自分が何を言ってるか分かってるのか?
ってこれも明日には覚えてないのか。随分無責任な誘惑である。無自覚な悪女は手に負えない。
「俺は男でお前は女で、だな」
「それで?」
「だから、普通はそういうのは――」
――数十分は何も覚えていないのよぉ。
頭の中に受話器越しの霜平の声がリフレインする。
ちょっとだけ、ただほんのちょっとだけ。
何もない、ただ一緒に横になるだけなら。
そう望んでしまった俺を誰が責められようか。うん、みんな責めそう。
「ん……まあ、そうだな。とりあえず行くだけ行こうか。寝室はどこだ?」
「あっち」
凛堂はキッチンがあると思われる方向とは逆にあるシンプルな白い扉を指差した。
ほほう。そこが秘密の花園へと繋がる神秘のドアですか。
「それじゃ行こう」
「うん」
凛堂は相変わらずの半目のまま立ち上がる。同時に肩に掛かっていた俺のピーコートがポフッと床に落ちた。
俺は立ち入り禁止区域に忍び込む悪ガキのような心持ちでふらふら歩く凛堂の後に続いた。
◆ ◆ ◆
凛堂の寝室は力が抜ける程良い匂いがした。
いつも凛堂からほんのりと香る良い匂いと同じ匂いである。変態っぽい発言だが、事実だから仕方がない。
想像通りというか、家具や家財はシンプルなものが多いが、ふかふかのベッドだけが真っピンクで異彩を放っている。
そのちょっぴりアレな雰囲気のあるベッドにバフッと倒れ込む凛堂。
制服のままですけど良いんですかね。いや、着替えられても困るんだけど。
凛堂は一頻り顔を布団にスリスリすると、もぞりと掛布団の中に入っていった。
そして潜水を終えた海女さんのように顔だけを出したかと思うと、俺が立ち尽くす側の布団を少し捲り上げて、
「どうぞ」
と言った。
息が荒くなる程脈が激しくなっている。
「……いいのか」
「うーん。多分?」
今にも寝そうな顔で凛堂が言う。
時刻はきっと丑三つ時に突入している頃だろう。
俺はたかだか十八年の短い人生で間違いなく一番の岐路に立たされている。
一歩踏み出せば未知なる世界、ここで引けば紳士の称号を守り抜ける。
――まあ氷花ちゃんチキ……紳士だからそんなことはしないと思うけどぉ。
違うぞ霜平。俺はチキンではない。紳士なチキンだ。同じやんけ。
変な汗が全身から噴き出しながら、俺は忍者よりも静かに足を一歩踏み出す。
きっと明日になれば凛堂は、俺との会話も、俺がコートをかけてやったことも、俺が月と呼んだことも、俺のことを冬根と呼んだことも覚えていないのだろう。
寝起きが悪い凛堂は、寝起き数十分のことを全て忘却するのだ。
そう――――な・に・を・し・て・も♪
……。
……ええい!! もう知らん!!
ちょっとだけだ! 五分くらいなら良いはずだ!! 五分したら俺はこの家を出る! それで凛堂は綺麗サッパリ何も覚えていない筈だ!
脳内の理性に怒鳴り散らしてから、俺はグイッと勢いよく捲られた掛け布団に入った。
あーあ、入っちゃった。
……めちゃくちゃあったかい。
同じベッドに、凛堂がいる。何それどうしよう? 知らんがな自己責任だ。
俺が仰向けに鮪になっていると、凛堂が布団の中でモゾっと動いて身体を近づけてきて、俺は心臓が天高く発射されるかと思った。
「冬根君、あったかい」
「……ソ、ソウダネ」
ただ俺はリビドーと混乱の狭間で揺れ動くどうにかなりそうな頭で、必死に冷静さを探して呼吸だけに集中する。
凛堂の姿を見てしまえばもう駄目な気がして、俺は視覚以外の四感に集中すべく目を閉じた。いや、味覚は流石に要らないから三感か。
耳元で大人しく鳴る凛堂の呼吸音。
優しく鼻に届く良い匂い。
左半身に感じる凛堂の温もり。
左腕が凛堂の何処かよく分からない部分に触れていて、全神経がそこに集まっていく。
そして……。
目を閉じたまま自分自身に『落ち着け』と連呼をしていた俺は、人生最大の失態を演じてしまった。
何が失態か何となく想像つくよね。
そうなのである。
そのまま眠ってしまったのだ。マジでやべぇぞこれ。
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おい冬根。ちょっと表に出ろ(憤慨)
でも寝ちゃってやんの。ざまあないね!
とはいえ、一夜を同じベッドで過ごしてしまった冬根君。
やっちゃいましたね。次の日の凛堂ちゃんの反応やいかに!?




