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意の中の助手「リンドウ ルナ」

 人間の身体(からだ)は六割から七割、水でできている。


 六割や七割という割合は、言葉に置き換えれば『だいたい』とか『概ね』とかである。

 つまりは人間は大体が水でできているということである。


 そこで俺は一つ、素晴らしいことを思いついた。


 まずは意中の人にこう訊いてみよう。


「あなたは水が好きですか」


 特殊なパターンを除き、水が嫌いな人間はあまりいないだろう。

 泳げない等の理由で『水が怖い』というパターンはあるかもしれないが、ここでは飲料水という意味で理解してもらうために、質問の際には是非飲む仕草をしながらをお勧めする。


 すると、相手は大抵「好き」と答えるだろう。


 ここで最初の命題に戻っていただく。


 人間、つまり質問をした側の人間も、概ねが水なのである。

 ということは、こういうことだ。


『あなたが水を好きならば、つまりあなたは私のことを概ね好きなのである』


 天才的発想だとは思わないかい?

 自然と、ばれることなく相手に「好き」と言わせることができるんだぜ?


 ……。


 テーブルの上に置いてあるミネラルウォーターのペットボトルを見ながら、そんなしょうもないことをさっきからぐるぐると考えてしまっているくらいには、俺は今現在混乱と動揺のハーモニーを奏でていた。


 何故なら――。


 沈黙が気まず過ぎてどうにかなりそうだからである。


 事故とはいえ生まれて初めて女の子と抱擁をかましてしまった後、割れたグラスや絨毯の染みを必死に取り除き、軽く掃除機をかけてから早一時間。


 無言で冷蔵庫からミネラルウォーターを持ってきた凛堂に対して「ありがとう」と言った以外に、俺も凛堂も言葉を発していない。


 ただ無言で、何をすることもなく座っているだけだ。

 気まずさから凛堂の方をまともに見ることもできないので、凛堂がどんな顔をしているかも分からない。


 せめて小説でも読むことができるなら、この沈黙も針の筵にならずに済むのだが……。


 ミネラルウォーターの原材料名を心の中で読み上げる行為が十回目くらいに達した頃合いで、俺は大きく深呼吸をしてから、勇気を振り絞って声を出した。


「俺、そろそろ帰るね」


 案の定、返答は無かった。

 頷いたかどうかも良く分からない。


 右脚から立ててゆっくりとその場で立ち上がり、玄関側にハンガーでかけてある俺のピーコートを目指す。

 それを手に取るくらいで、チラリと凛堂に目を遣って俺は少し驚いた。


 金髪おさげが良く似合う制服姿の凛堂は、閉眼していた。


 その閉眼顔を見るのは久しぶりで懐かしさが広がったが、同時にザラつく嫌な予感も沸いてきた。


 凛堂が目を閉じていた理由を、俺は忘れていない。

 自惚れにも聞こえるかもしれないが、その綺麗な青い目を開けてあげたのは俺なのだ。


「凛堂?」


 絨毯の上に真っ直ぐ正座をする凛堂に声を掛けるが微動だにしない。

 何か取り返しのつかないことをしてしまった気がして、俺は焦りが広がる。


 そんなに、俺と抱き合うの嫌でした?


「あの、凛……」


 ん? 待てよ?


 俺はピーコートを床に落として、ゆっくりと凛堂に近づいた。

 しゃがんで凛堂の顔を覗きこんで、俺の中の嫌な予感は煙のように消えて行った。


 凛堂は、ただ眠っていただけだった。


 器用に正座のまま、静かな寝息とともにゆっくりと淑やかなトルソーが上下している

 ほんのわずかに開いた唇に俺は顔が綻んだ。


 って、おい! 眠るなよ!

 仮にも男と一つ屋根の下二人きりだぞ!?


 もし俺が享楽的な動物だったらどうするんだよ。

 少し付き合いが長いからって、この人だけは大丈夫だ――なんて、うっかり信じたらだめよ? 乙女のピンチよ? SOSよ?


 ……ちょっと事故って抱きしめちゃったくらいで一時間は黙りこくってしまう俺が、そんなことできるわけがないけどな。


 こんな時に毛布でも掛けてやるのが紳士というものだが、生憎目に付くところに布地の類はなく、かといって家の中を漁りまわるのも最低な気がしたので、仕方なく俺は着てきたピーコートを凛堂にかけてやった。


 外気温は冷蔵庫並みだが、走っていれば暖かくなるだろう。たまには琴美(ピノコ)式移動術ってのも悪くないかもしれない。


 すうすう寝息の凛堂をしばらく見てから小声で「またな」を言い、振りかえって帰ろうとしたところで、俺は後ろから誰かに掴まれた。

 仄暗い水の底からの手でも、井戸からの白い手でもなく、俺のスラックスを掴んでいたのは凛堂だった。


 しかしながら凛堂は目を閉じたままだった。眠りながら腕を伸ばしている。


 何と寝相の悪いこと。や、棗には負けるか。


 少し屈んで凛堂の指を一本ずつ広げ、掴む手を引き離したところで、


「行かないで」


 凛堂が掠れた声でそう言った。

 えーと…………えーと?


「え?」


 俺は驚いて凛堂の顔に目をやって、更に驚いた。


 凛堂の目から、一筋つうっと涙が伝っていたのだ。


「凛堂?」

「……」


 しかし俺の言葉には無反応だった。

 どうやら寝言を言い、寝ながら涙を流したらしい。何だそれ。


 どうしたらいいか分からず、一人その場で踊るように動いてから、俺は大きく溜め息を吐いた。


 これを放置して帰るほど俺は非情な男ではない。

 それに泣きながら頼まれちゃ、断れないしな。


 ほら、『泣く女』には十億の価値があるしね。

 それは絵だって? ピカソもきっと、この状況なら帰らないって。


 ですよね? パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・マリーア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンディシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソさん。なんで全部覚えてるの俺。きもっ。


 ◆ ◆ ◆


 時刻は午前零時過ぎ。日付が変わった。


 俺はというと――変わらず凛堂の家に居た。

 こたつの前で胡坐をかき、浮ついた気持ちを必死に読みかけの小説にぶつけている。


 すぐ右隣には完全無防備な凛堂が正座のまますうすうと寝息を立てて寝ている。


 手を伸ばせばすぐに触れられる距離だ。

 ここ数時間、何度も何度も触れたい欲求を沸騰させては、必死に堪えるのを繰り返している。


 いや別に変なところに触れようとかは思ってませんよ? 本当ですよ?

 ただ、頬っぺたを突いたり、金色の髪に触れたり、そんなささやかな感性欲求があるだけだ。

 ……うん、充分キモチワルイね、俺。


 右手を伸ばしかけては、かぶりを振って小説の世界に戻る。

 そんなもどかしい反復運動をしている俺を我に返らせたのは、スマートフォンの振動だった。


 マナーモードにしておいてよかったと思いながら取り出すと、画面には見たことのある数字が表示されていた。

 何となく連絡帳に登録したくないのでしていないが、数字で誰か分かるのでもうしなくてもいいだろう。今日からお前の名前は数字十一桁だ、霜平。


「はい」


 音を立てずに立ち上がり、玄関の近くまで摺り足で行ってから極小の声で俺は応答した。


『お楽しみ中のところごめんねぇ? 私でーす』

「誰だよ」


 お楽しみ中? 俺は絶賛葛藤中だったぞ。

 葛藤を楽しめる程まだ俺は上級者ではない。


『えぇ、ひどぉい。そろそろ声で誰か分かるくせにぃ。ぷぅ』


 声以前に番号で分かりましたよ。まあ何かムカつくから言ってやらないけど。


「とにかく用件をどうぞ。あまり長く電話できそうにないんで」

『ほほぅ? ということは、氷花ちゃん本当にお楽しみ中?』

「切りますよ」

『あはは、冗談冗談。まだ凛ちゃんの家に居るってことでしょぉ?』

「……まあ、成り行きで」


 靴箱の上に置いてある小さな猫の置物を見ながら、俺は察しの良い霜平に小声で話す。


『凛ちゃんに誘われて部屋にあがったんでしょぉ?』

「なっ」


 何故わかる? あの凛堂がここまで積極的だと予想できたというのか?

 それとも――


「先生の仕業ですか?」

『えぇ? 何がぁ?』

「俺が凛堂宅(ここ)にいること自体、ですよ」

『えぇ? うーん、ええとねぇ』


 ……。

 男心を玩びやがって! 霜平、許さん、キライ。


『あはは! なんて、そんなわけないでしょ! 凛ちゃんの行動には、私は干渉できないものぉ』


 俺は霜平のこの言葉に鈍い違和感を覚えた。

 俺の中にも何か無自覚な嗅覚が備わってきているらしい。


「じゃどうして分かったんですか? 俺が帰らないで凛堂の家に来ているって」

『それはまたいずれ、ね? とにかく氷花ちゃん、高校生らしい節度を持ってね?』

「節度、ですか」


 スマホを耳に当てたまま、俺は自分の右掌を見つめる。


『そのウィスパーボイスからして、凛ちゃん寝ちゃってるんでしょ? 寝込みを襲うのはだめだよぉ?』

「襲いませんよ! あっ」


 大きな声で突っ込んでしまった。凛堂が起きないか心配だ。

 確認の為、俺は物音を立てないように居間に向かって歩く。


『ふふ。まあ氷花ちゃんチキ……紳士だからそんなことはしないと思うけどぉ』

「……」

『そうそう、氷花ちゃんに伝えることが二つあって電話したのよぉ』

「なんですか」

『まず一つ目は、明日は勉強休みだからぁ。先生明日忙しくて、続きはあさってねぇ。明日、というかもう今日だけどぉ』

「そうですか、それは助かりま……」


 居間に辿り着いた俺は、二つの綺麗な青い瞳と目があった。

 正確に言うと、起きたての凛堂の半開きの目だ。やはり起こしてしまったようである。


『二つ目はぁ』


 寝起きの凛堂は戻ってきた俺を虚ろな目で見てから、やけに色っぽい声で「誰?」と言った。

 正座が崩れ女の子座りになっており、スカートも中途半端に捲れて際どい部分が見えている。


『凛ちゃん、寝起きすごく悪いの。きっと数十分はぼんやりとして、その間の記憶も綺麗に覚えてないと思うけど、やっぱり変な事しちゃ駄目よぉ?』


 霜平の言葉にバクンと俺の身体の血流が跳ねた。

 俺のピーコートを羽織ったまま俺を見上げる助手は、凛堂らしくなくとろんとした表情で小首を傾げている。


 俺が絶句し固まっていると、電話先の霜平はこう追撃した。


『繰り返すけど、凛ちゃんは寝起き数十分のことは何をしても全く覚えてないけど、何も変な事しちゃだめよぉ? なーんにも覚えてないけどね。な・に・を・し・て・も♪』


 スマホを持つ手が震え、背筋に汗が走る。

 凛堂は薄い目で俺を見つめたまま傾げる方向を変えた。


 え、なに、霜平さんそれフリなの? 押すなよ! 的な?


お読みいただき誠にありがとうございます。


もしも、「続きが気になる!」「面白い!」と感じて頂けましたら、

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評価は【★★★★★】ボタンをタップしますとできます。


~・~・~・~・~・~


起きて数十分記憶ないとか、寝起きが悪いってレベルじゃないですね。普通にマジでいろいろと支障でそう。

そんな意外な弱点を持つ凛堂ちゃんに、果たして冬根君は何を……!?

あんなことやこんなことも!? ヘタレチキンにできるのか? 次回お楽しみに!

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