5.レオン殿下と朝食を…
泣きながら眠りについたせいか、目覚めても体は重く、このままいくらでも泣き続けられるような悲しい気持ちが続いていました。
しかし、このままベッドの中にいるわけには行きません。なぜならこの後のメイドの方々の仕事に差し障りが出るからです。お食事作り洗濯など、手順に基づいてお仕事をされているのですから、客の分際でその流れを変えさせるわけにはいきません。
私はのろのろと起き上がると、昨日持参した服を身につけました。鏡に映るのは、みすぼらしく血色の悪い、冴えない娘です。
唇からは完璧に血の気が引いていました。健康的な女性よりも、最後に見たお母様の唇の色に近く、このままお母様のところに行けたらいいのに、と思いました。
少しでもよく見えるよう頬と唇に紅を差す気力も湧きませんでした。
私の起きた気配を察してか、頃合いを見計らったようにノックの音がしました。
「おはようございます、妃殿下。朝の準備のお手伝いに参りました」
昨夜から私の世話をしてくれたのは皇宮勤めが長くお妃教育に上がる際何度も顔を合わせたことのある見知りの女官メアリーでした。小さな頃からレオン殿下をお育てし、一緒に育った従兄のエリアスも頭の上がらない重鎮です。
メイドやお手伝いしてくれる人なしの生活に慣れすぎていましたが、本来貴族の子女は、ドレスを着るにも髪を梳るにも自分の手を煩わせることはありません。
メアリーは、鏡台の前に置かれていたブラシで、私の髪をとかし始めました。
慣れないことをされるだけではない理由で、私は困って固まってしまいました。
破談の意思についてはレオン殿下から口止めされたような気がします。
その範囲はどこまで有効なのでしょう。
「ごめんなさい。まだ正式には結婚していないし、恐れ多くて恐縮してしまいます。どうかセシリアと呼んでください」
皇宮のことはメアリーの方が詳しく、客人というだけで私が居丈高に振る舞っていい理由は何一つありません。
「そんな、私が殿下に叱られてしまいます」
「殿下がそう呼ぶように仰ったのですか?」
「そうです」
「決して怒られることはないように殿下には私からお伝えしますから……どうか妃殿下とは呼ばないでください」
「分かりました。ですが、確認が取れるまで、殿下の耳に入りかねない場所では妃殿下と呼ばせていただきます、セシリア様」
「ありがとう、メアリー」
私は安堵のため息を漏らしました。「私はこの後どうしたらいいでしょう?」
「殿下が朝食を一緒に希望されています。具合が悪いようであれば部屋に運ばせるようにと」
「……あまり気分が良くないの。ほんの少しだけでいいのだけれど、ここで何か軽いものをいただきたいわ」
「はい。ではそのようにお伝えしてきます」
間も無く、軽いと伝えたはずなのに、私の目の前には夕食かと見まごうばかりの量が運ばれてきたのです。
皇宮の常識は非常識なのでしょうか。
カットされたフルーツ、ヨーグルトにスープ、卵料理にパン……。
それらのが整えられるとほぼ同時に、レオン殿下も入ってこられました。そして「終わるまで後はいいから」とメアリーを下がらせました。行かないでーーという私の願いも虚しく、部屋には二人だけが残されたのです。
心構えもしていない突然のことに
「あの……具合が良くないと申し上げたつもりでしたが」
私はおずおずと申し上げました。
「具合が悪ければ部屋に運ばせると言っただけで、一人で食べろとは言っていない」
この人はこんなに詭弁家だったろうか、と私は途方にくれました。
殿下は座るように私の椅子を引かれました。そうやって待たれては座らざるを得ません。
その後自ら席に着くと、殿下は優美な仕草で朝食を口にし始めました。
所作は美しいですが、召し上がる量が多いあたり、男性らしいと感心します。
「今日は夕食までついていてやれない。様子を見がてら一緒に朝食を摂ろうという話のつもりだった」
ついていてほしいとお願いした覚えはないのですが、頭痛と混乱でそこまで追及できる余裕はありませんでした。
泣きすぎたせいか頭が痛く、私は全く空腹を感じていませんでした。
せめて温かいものをーーと形ばかりスープを口にしていますが、手が止まっている時間の方が多い有様です。
「あの……殿下、しばらくお世話になってよいとのことですが、私はここで何をすればよろしいでしょう?」
「何もしなくていい。今日ももっとゆっくりしていてよかったのに。喪に服したばかりなのだから、妃教育もしばらく中断させよう。セシリアの好きなように過ごすといい」
「ありがとうございます」
それはせめてもの救いの言葉でした。
何の希望もなしに、課せられた義務に向き合う気力は、今の私には残されていなかったのですから。
「では、しばらく皆さんのお仕事を見せていただきながら、今後の身の振り方を考えさせたいただきたいです」
「仕事?」
怪訝そうに殿下は聞き返されました。
「いつまでもお世話になるわけにはいきませんし。伯父様の家に行くにも働かなくてはーー」
「この皇宮内で、君に与える仕事ないし、私の目の届く範囲で働くことを許すつもりはない」
即座に、レオン殿下は私の言葉を退けられました。
「殿下は意地悪です」
婚約破棄どころか、仕事を探すことすら許されないなんて。
私は俯いて、震えていました。
「私は婚約破棄などという戯言を受け入れた事実はない。君は今後の身の振り方を考えたり、働く必要などないということを忘れている」
「ですが……」
何か言おうにも言葉が続かず、私は言葉をのみ込みました。
代わりに先ほどのメアリーとの会話を思い出したのです。
「あの……メアリーに私のことを妃殿下と呼ぶように命じられたと伺いました。せめて、セシリアと呼ぶようにお許しをいただけないでしょうか? どうなるにせよ、私には僭越すぎます」
パンに手をかけながら、気にくわない、というように殿下は片眉を上げられました。
「セシリア。私はそのつもりはないが、君は婚約を破棄したいという。ではなぜ私は婚約者でもない君の願いを聞かなくてはいけないのかな?」
「それは……」
「君がそうやって馬鹿げた婚約破棄ごっこがしたい間は、罰として頼み事には交換条件を要求することにしよう」
「ですが……私には何もできません」
これ以上食事も喉を通らず、私はスプーンを置きました。
「全然食べられなくて、ごめんなさい。とても美味しかったです。ですが本当に食欲がなくて申し訳ないから、次からはもっと減らしていただきたいのです。これもお願いに入るでしょうか?」
「いやーーそれは伝達事項として伝えさせよう」
レオン殿下は眉を顰めました。「全く食べていないじゃないか」
「これくらいは食べなさい」
レオン殿下はご自身のフォークでメロンを刺すと、私の口の前に差し出されました。
受け入れていいものか戸惑いましたが、殿下がされることを無下に拒否することもできません。
おずおずと口を開き、甘い果実を受け入れました。
「おいしい?」
「はい」
「ではもう一つ」
同じ動作が繰り返されました。同じフォークを共有する行為が恥ずかしくて、俯いてしまいます。
「あの……もう十分ですから……」
「そうか」
レオン殿下は不服そうでしたが、ご自身で残りのメロンを召し上がられました。「さっきの話だがーーそうだな、交換条件として昼食はもっと食べるように。そうするならメアリーの件は許す」
「はい、ありがとうございます」
「ただ、そんなことでは体に良くない。君がきちんと食べているか今後はなるべく見張ることにする」
「そんな……!」
私は途方にくれてしまいました。
どうしたら婚約破棄していただけるのか、という以前に、どうしたらレオン殿下から離れることができるのでしょう。