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3.お父様に打たれました…

「セシリア、万が一の時は君の母親から頼まれていたことでもあり、私たち夫婦も望んでいることだがーー君は私の養女になる気はないか?」

 セントクレアの伯父様は、そう切り出しました。


「正直に言って、この家で君を守れる人間はいない。だから殿下との成婚までの間、誰の庇護もなしにこの家にいるよりも、私の家に来てはどうだろうか? 養女と言っても外聞の悪い話では決してない。侯爵の娘よりは、宰相である公爵家の娘という方が体裁もいいし、家から皇太子妃を出すというのはセントクレアにとっても益のある話なのだから。君は何も負い目に思う必要はないんだよ。ただ君の父親にこの話を告げる前に、君の意思を確認しておきたかった」


 本来であれば喜ぶべき話を聞きながら、体がどんどん冷たくなって行くのを感じました。

 昨日までの私であれば、否応なく喜んで受け入れていたはずのお話です。仲のいい伯父夫婦の家は、私の憧れでした。

 ですが、今は状況が違います。


 私は、膝に置いた手を震えるほど固く握りしめていました。


 伯父が私を家に迎えてくれようというのは、私が未来の皇太子妃になる人間からです。

 

 では、婚約者でなくなった私は、セントクレアに何の益ももたらさない私は、成婚までという期限もなしに、伯父の家で庇護される理由を持たないのです。


 再び、目に涙がにじむのを感じていました。


「……伯父様、お気持ちはありがたいけれど……ごめんなさい……」


「どうして?」


「私……皇太子妃にはなれません」


「セシリア、何があった?」

 いぶかしむようにセントクレア公爵は、レオン殿下と私を見比べました。


「それは私が聞きたい」

 殿下は眉を顰めて、疑惑の視線に対して言い返します。


「今、殿下には婚約を破棄してくださるようお願いしていたところです」


「どうして急にーー?」

 伯父は表情を険しいものに変えて、言いました。「誰かに何かされたのかね?」


「いいえ」

 何のことか分からず、あっさりと首を横に振ります。

 ですが私の回答に、男性二人はあからさまな安堵の表情を浮かべました。

 

「ですが……強いて言うなら、殿下です……」

 私は続けました。

「何かされた」というのであれば、べサニー嬢を連れてきたレオン殿下の行動です。


「貴方、私の姪に何をしたんですか!?」

 伯父様が殿下に詰め寄りました。


「誓って言うが、何もしていない!!」

 殿下は慌てて釈明されます。


 その通りです。何もしてくださらなかったことが、私にとっての問題なのですが、うまく説明できませんでした。

 

「私はもう耐えられません。どうか婚約を解消してください」

 俯いて涙にくれていた私は、いつの間にか部屋に他の人間が入ってきたことに気づくのが遅れました。その人物に話を聞かれていたことも。ノックなしに客間に入室できる人間といえば限られています。


「コソコソ何かしていると思ったらーーお前は何が不満なんだ!」


 バシッという音が耳の近くで響きました。

 それから体験したことのない衝撃と痛みを自覚しました。


 お父様に、頰を打たれたのです。


 言葉の暴力は日常でした。

 ですが、それまで受けたことのない突然の暴力に、私は呆然としてしまいました。


 伯父様と殿下が抗議の声を上げて立ち上がるのも、遠い世界のことのように感じていました。


「皇太子の婚約者でないお前に何の価値がある!」

 吐き捨てるようにお父様は言いました。「百歩譲って、殿下から破談を言い渡されるならよしとしよう。それでもお前のような娘を飼い続ける理由にはならん。何が不満だ? 愛人がいようと選ばれただけでもありがたくいと我慢するのがお前の務めだろう。不祥事も不満もなく、殿下の顔に泥を塗るような真似をするような我が家の人間ではない。今すぐ出て行け!!」


 思っていた以上の激しい反応でした。


 確かに、貴族の間では愛人がいるくらいのことは、不祥事でもなければ不満を抱くべきことでもないのでしょう。事実、お父様だってそうなのですから。


「まだ解消していない以上セシリアは私の婚約者だ。また解消するつもりもない。今は母親を亡くした悲しみで混乱しているし、何らかの誤解と行き違いがあるようだが、私の婚約者に手を上げたことの釈明を聞こうかーー説明できないなら贖罪を果たしてもらおう」

 いつの間にかレオン殿下はお父様の前に立ちはだかっていました。

 未だかつて私が聞いたことのない、底冷えのするような冷たい声音でした。


 私はまだ呆然としたまま、何が起こっているのか理解できないままでした。


「セシリアの許可は必要ない。セントクレア公、私の命においてセシリアを養女とするように」

 殿下は伯父様にそうお命じになられました。

 

「承知いたしました。出て行けと言われずとも、到底この家に置いておけるとは思えません。このまま私の屋敷にお連れしてもよろしいでしょうか?」


「それがいいーーいや、母親の面影がある環境ではセシリアの気が晴れないだろう。しばらくは皇宮に連れて行く」


 抵抗する気力も残っていませんでした。呆然としたまま、私の意思など関係なく決められて行く話が、聞くとはなしに耳に入ってくるのでした。本意ではないはずなのに、どこか安心しながら聞いていました。


 赤くなったり青くなったりしているお父様の対処はこちらに任せ、すぐに荷物をまとめるように伯父様に命じられました。残りはすぐにまとめて送るよう手配するから、取り急ぎ大事な物と今日明日分の衣類などをーーと。こんな状況下でもテキパキと采配できる伯父様の有能さを思い知らされます。


 私は自室に戻って、トランクに最低限の服や化粧品を詰めました。一番面積を占めていたのは、お母様との思い出の品々でした。伯父様のお仕事は早いでしょうが、残しておいては誰の手に渡るか分かりません。


「これが、君の部屋か?」

 いつの間にかついてきていたレオン殿下が、珍しいものを見るように室内を見回していました。

 

「ででで殿下!? いつからそこに!!??」

 恥ずかしさに私は耳まで赤く染まりそうでした。

 つい先ほどまで、下着や夜着まで手にとってカバンに詰めていたのですから。

 

 そうでなくても日当たりが悪く、調度もみすぼらしい狭い部屋です。

 使用人の部屋で暮らしていた女と婚約していたことを恥に思われたでしょうか。


「終わったなら行こうか」

「この服のままで皇宮に上がるのは憚られます。着替えてからでもよろしいでしょうか?」

「勿論」

 しかし言葉とは裏腹に、殿下は微動だにして動く気配がありません。


「あの……殿下……?」


「着替えるのだろう? 夫婦になるのに何か問題が?」

 平然と、目の前で着替えるように促されました。


「夫婦にはなりませんし、出て言ってください!!


 殿下は片眉を上げたものの、おとなしく出ていってくださいました。

 力では敵うはずもない相手なので、言うことを聞いてくださって安心しました。


 着替えながら私は、ほんの少しだけ殿下のおかげで悲しみを忘れていたことに気づいたのです。

 

 

 着替えを終えると、レオン殿下が荷物を持ってくださいました。

 残りの手で私の手を取り、ご自身の馬車に導き入れてくださいました。


「大丈夫か?」

 先に座らせた私の隣に滑り込みながら、殿下は痛みの残る私の頰に、そっと指を這わせました。白い手袋のひんやりとした感覚が伝わります。


 羞恥や混乱で紛れることができましたが、散々な一日でした。婚約者には破棄を申し出たいほど心をボロボロにされ、愛されていないことは知っていたけれど生まれて初めて父親に打たれ、破談を申し出た婚約者に守られる。


 私は混乱していました。


 名ばかりでも婚約者が虐げられ体面が傷つけられたことへの怒りだとしても、どうしてレオン殿下は今更私に情をかけてくださるのでしょう。


 自分から婚約破棄を申し出ておいて、殿下の力に頼るしかなかった自分の不甲斐なさにも、悲しくなりました。

 

「セシリア、泣くな」

 耳の上で、困惑するようなレオン殿下の声が響きました。

 それで私は、再び自分が泣いていたことに気づいたのです。


 気づけば、私はレオン殿下に抱きしめられ、その胸の中にいました。


 婚約者でしたから、このようにハグをされることはよくありました。

 そうでなくてもダンスの時はこのくらいの距離で近くのですから、親愛の情がなくても可能な、殿下にとってはあまり意味のない行為なのでしょう。


 ですが今の私には、とても必要な温もりでした。

 

 許されたのをいいことに皇宮に着くまで、私は殿下の腕の中で声を殺して泣きました。


 お母様が亡くなるのではないか、一人で心細かった時、望んでいたのはこの温もりだったのです。


 お母様が亡くなる前にこの温かな手が差し伸べられていれば、「あれが未来の皇太子妃か」と色眼鏡で見られ批判にさられる生活も乗り越えられると、そう思っていました。


「セシリア……」

 殿下が背中に回した腕に力を込めながら、困ったように何度も私の名前を呼びました。

 その度に、寂しさと、必要な時に向けられなかった情が今になってかけられる悲しさが募って涙が止まりませんでした。


 温情はありがたいですが、皇宮に連れて行かれ、伯父の養女になるーー。

 ますます婚約破棄しにくくなる状況が、私にとってはただただ不安で仕方がありませんでした。

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