2.殿下が分かってくれない…
「婚約を破棄するに足るだけの理由を説明をしてもらおう。話はそれからだ」
「殿下……」
私は名ばかりの婚約者でした。お願いを聞いていただいたことは一度もありません。だからといって、まさか婚約破棄すら受け入れていただけないとは……。レオン殿下を恨めしく思いました。
「破棄することは簡単だ。だがその後君はどうする気だ? この国の皇太子との婚約を破棄したのち、貰ってくれるという豪胆な男のあてがあるのであれば話は別だが」
レオン殿下は表情一つ変えず言い放ちました。
「そんなことは、決してありえません……!!」
異性の影があるのは自分だというのに。不貞を疑うかのような皮肉なセリフに、怒りに体が震えました。
しかし、その後の生活のことを考えていなかったことは確かです。
お母様は重い病気だったけれど、まさかこんなに早く亡くなるとは思っていなかったのです。重々考えてのことではありませんでした。
「セシリア」
殿下が私の名前を呼びました。
それだけで、絞られるような胸の痛みを感じました。
「婚約者なのだからレオンでいい」そう言われたところで呼び捨てになどできるはずもなく、それでも時々「レオン様」とお呼びしてきました。ですが、先ほど思い知らされたばかりなのです。自分が特別な存在なのだと思える微かな証は、私一人のものではなかったのだとーー。
「母上のことで気持ちが動転しているのは分かる。だが一時の感情の行き違いで、婚約者を捨てる理由にはならない。こんな状況なら尚更だ。不安定になるのも当然だがーーそれとも君は私を、母親を亡くして傷心の婚約者を正当な由なく突き放した不誠実な男だと国内中に喧伝して回りたいのか?」
レオン殿下の冷徹さが、これほど憎らしかったことはありません。
今更、どういうつもりで名前を呼ばれるのでしょう。
どういうつもりで私を引きとめられるのでしょう。
お母様が危ない時に、側にいてくださらなかったのに。
どうしようもなく不安な時に、一目でも顔を見せてくださらなかったのに。
「殿下には、私の気持ちなんて分かりません!」
優等生の仮面を脱ぎ捨て、私は叫びました。
咎められても、気分を害されても、もう関係ありません。
今の私は、婚約破棄を怯えて暮らしているのではなく、むしろ自ら望んでいるのですから。
態度が気に入らないからと婚約解消を言い渡されても好都合です。
「セシリア……理由を教えてほしい」
根気強く殿下は仰いました。
ですが私にはそうすることができませんでした。
理由を言おうとしても、口から出るのは嗚咽の声だけでした。自分が惨めすぎて悲しすぎて、積み重なった感情を言葉にすることは困難だったのです。
「どうかお許しください」
私が言うことができたのは、かろうじてそれだけでした。
「説明できないのなら、君は私に納得できる理由を述べ、次の身の振り方が決まるまで、私の婚約者でいるしかない」
その言葉は私を絶望に突き落としました。
私一人であれば、もう一日だってレオン殿下の婚約者の立場に固執する必要も、努力する必要もないのです。
お后教育も、未来の皇太子妃として向けられる目も、重圧でしかありませんでした。
お母様が亡くなった今、名ばかりの婚約者の座は、もはや重すぎる足枷にしか思えませんでした。
「……では……では……殿下が納得できるような、皇太子妃にふさわしくない振る舞いをすれば、解消していただけるんでしょうか?」
微かな期待を込めて見上げると、殿下はギョッとしたような顔を浮かべていました。
「帝室の品位を落とすことも。その思いつきを他言することも許さない」
厳しい表情で、殿下はそうお命じになられました。
その言い方に、私はまた気持ちが沈んでいくのを感じました。
私たちの間に愛情があれば、何かは違っていたのかもしれません。
レオン殿下は、誰もが羨む素敵な貴公子です。見栄えのしない私と違って。
決められた日時に、定期的にお会いできるだけでも光栄でした。
関心を買うために、私は必死に殿下の会話や好きなものを覚えようと努力しました。
ですが私の話はつまらないのか、殿下はおざなりに相槌を打つだけ。
いつしか、聞かれない限り、自分のことを話すことはなくなっていました。
まして愛情をかけられず邪険にされているなど、恥ずかしい個人的事情など、殿下の耳に入れるような話題でもありません。
今が悲しすぎて、感情が高ぶっているからだけではありません。
私は、殿下に対してどう話をしていいのか分からない。
どうしたら、思いが伝わるようにお話できるのか。話を聞いていただけるのか。
何も、分からないのです。
13歳で婚約が決まってから4年。
4年かけて積み上げてきたものは、何もないのだと思い知らされました。
どうすればいいのか分からないまま、沈黙が重くのしかかります。
その時ノックの音がしました。
私は救われたように返事をしました。
現れたのは、伯父のセントクレア公爵でした。
伯父といっても私と血の繋がりはない、母の姉アイリーンのご夫君です。
同じ姉妹を妻にしている高位貴族でも、お父様と伯父様は世間の評価は、容姿から器量から雲泥の差でした。
現在は宰相を務めてらっしゃる伯父様は、私にとって残された数少ない優しい親族です。
「お話中失礼致します、殿下」
伯父様はレオン殿下に許可を求めました。「父親のいない場所で、セシリアに話があったものですから。よろしいでしょうか?」
「構わない。私も外したほうがいい話か?」
「いいえ、いてくださった方が好都合です」
勝手知ったる伯父様は、自然な動作で空いた椅子に腰をかけました。
泣きはらした顔がなるべく伯父様の目に入らないよう、避けるようにして顔を伏せました。
目ざとい方です。きっと気づいていても、触れずにいてくれているに違いないのですが。
私は伯父様の話を待ちました。