102話 コーヒー
食堂で盗み食いを働いていた結野こころを発見した後、寺都は自身の研究室へと戻った。
音の正体が岡谷であると思っていた彼女からすれば、期待を裏切られた気分である。
「それで? どうして貴女まで」
そして、どういうわけか、研究室には寺都だけでなく、検査着を身にまとう結野こころがソファーで足をパタつかせて座っていた。
「? お姉ちゃんがこっちに来たから」
「いや、なんで付いて来たのかって話……」
これ以上この少女に問うても無駄だと直感で悟る。
寺都はパソコンへ向き直り、そのキーボードを叩き始めた。
「ねえねえ、なにしてるの?」
声色から、いかにも興味津々といった様子で結野こころが歩み寄り、横合いからのぞき込んで来る。
「貴女には関係ない」
逃げるように手を止めて、寺都はコーヒーを一口。
「なに飲んでるの?」
さっきから、あれこれ質問ばかり。子供は手間がかかる。時間の無駄だ。
「貴女には関係ない」
「あ、コーヒーだ」
「ちょ、なんで飲んで……」
いつの間にやら、結野こころはコップを手に持ち、中のコーヒーを飲んでいた。
「でもまずいね」
「…………」
「お姉ちゃんがいれたの?」
「……悪い?」
そういえば、昔にこんなやり取りを岡谷としたことがある。
寺都がコーヒーを飲むようになったのは、岡谷がコーヒー好きであったからだ。最初は彼の真似で飲み始め、嫌いだったコーヒーだが、気がつけば毎日のように飲んでいる。
あの頃からコーヒーを淹れるのは苦手だった。そして、いつも岡谷から不味いと不評をいただいていた。
「わたしがいれようか?」
「貴女が? 淹れれるの?」
「任せて。よく、お兄ちゃんにコーヒーいれてたから」
お兄ちゃん? 一体誰のことなのか。彼女には兄でもいるのだろうか。
「お姉ちゃん、ちょっと待っててね」
コーヒー用具の置かれた部屋の一角へ向かう結野こころ。
あまり期待はしていない。誰かに作っていたというのならば、それは寺都も同じ。その結果は、自身が一番よく知っている。
寺都は再びパソコンへと向き直った。
それから少しして、結野こころがやって来て、コーヒーの入ったコップを寺都のそばに置いた。
「どうぞ、お姉ちゃん」
匂いはコーヒー。見た目も同じ。
そもそも、淹れる人で味が変わるのかという話。
どうせ味だって同じであろう。
「——おいしい」
「えっへん。どう? 見直した?」
思わず、素直な感想が口から漏れた。
豆は寺都が使っていた物を使用しているはずだ。豆だけでない。その他の道具も寺都が使った物のはず。
違うのは、淹れたのが自分でなく結野こころであるというだけ。
「調子に乗らないで」
「えー、ほめてくれないの? お兄ちゃんなら頭なでてくれるのに」
——————
【お。美味しくなったんじゃないか】
【本当に?】
【それでも、『美味しくなった』だけどな】
【……あ、そう。どうせ私が淹れるコーヒーは不味いですよ】
【冗談だ、冗談。美味いよ】
【今さら遅いって】
【——芽久実、ちょっとこっち来てみろ】
【なに?】
【ほら頭撫でてやる】
【い、いいって】
【なに恥ずかしがってんだよ】
【うるさい!太一の馬鹿!】
「……お姉ちゃん?」
「? なに?」
「ぼーっとしてたから。なにか考えごと?」
「……なんでもない」
あの時の日々を取り戻すためにも、一刻を早く岡谷を見つけ出さなければ。
そんな再決意をぶち壊すように、どこからか盛大な音が聞こえてきた。それが、結野こころの腹の虫であることは言うまでもない。
「お腹すいたよ」
「さっき食べたのを忘れた?」
「あれだけじゃ足りないよ」
冷蔵庫の中身を空にしておいて、よく言えたものだ。
「あの食べ物、お姉ちゃんのだった?」
「私のだけじゃない。貴女と、もう一人の分」
「ほかにもだれかいるの?」
「今はいない。けどここで暮らしてる」
食材の買い出しを門番遥に連絡しておこう。きちんと訳も説明して。
「そういえば、ここって?」
「ここは少女館」
「しょうじょかん?」
「貴女のような子たちが暮らす場所」
「?」
意味は理解しなくていい。どうせできなくともこれから先
——ぐうぅぅ……。
「がまんできないよ?」
パソコン画面の時刻を見やれば、すでに昼を過ぎていた。
「ねえねえ、お姉ちゃんがくわえてるあめちゃん、わたしも欲しいな」
「これでお腹満たされる?」
「ううん。お昼連れてってくれるまでの間」
「待って。お昼食べに連れて行くなんて言ってない」
「でもなにか食べないと倒れちゃうよ?」
今もなお結野こころの腹の虫は鳴り止みそうにない。むしろ、活発化してきているようにも思える。
「——んっ」
白衣のポケットから棒付きキャンディを取り出して、それを結野こころの口へと突っ込んだ。
「……分かったから、店に着くまで、それで我慢して」
「うん!」
これはコーヒーのお返し。ただそれだけ。