胎堕
早朝、夜も明けぬ内に三人はチプを撤収し巌鷲山山頂へ出発した。
夜明けの空が山々の稜線が青く浮かび上がらせていき、朝焼けが地平線の空を黄金に染め始める。
ゴツゴツとした岩場に注意しながら、一歩一歩無言で登って行くアトゥイの息は白い。
歳をとれば身に堪える寒さも、若いアトゥイには心地良かった。
暫くすると山頂を目指す三人の背中から朝日が射し、自らの白い息と影を見ながらの登頂となった。
奥羽山脈北部に位置する巌鷲山は二つの外輪山からなり、山体の半分以上を占める西岩手火山に、寄生火山として覆い被さった東岩手山により、雄大な稜線をなす標高二千メートルの成層火山である。
岩手山と西に位置する黒倉山(標高千五百メートル)の間に、西岩手火山の浸食カルデラがあり、東西に長い楕円形をしていた。
アトゥイは振り返ると、陽の眩しさに目を細めながら岩手郡の原野を見下した。
シサムの集落から生活の煙が上がっているのが遠くに見える。
まだ下界の高さでは陽が出ていない筈だ。
早朝から起きだして、何かの仕事だろうか?
この高さから下界を見下ろしていると、アイヌだシサムだなどと言っている事が馬鹿らしく思えてくるが、シサム側からの傍若は一方的に降りかかって来るものだ。
どうしてつまらぬ差別意識で人を虐げるのか? アトゥイには分からなかった。
「どうした? 行くぞ」イカエラが声をかけた。
身の軽いアトゥイは飛び跳ねるように登り、イカエラに追いつくと言った。
「まだ下は陽が出ていないのに、もう煙が上がってるよ」
「そうだな……我々同様、生活が苦しい者もシサムの中にはいるのだろう」
「シサムでも貧しい人達となら、上手くやっていけないのかな?」
「おそらく無理だろう……」
大抵の場合、被抑圧者同士でいがみ合うのが世の常である。
手と手を取り合い協力して抑圧者と対峙する事は現状の生活を壊す事になる。
人は革命や革新を夢見ながら、安寧に安堵する生き物であり、安堵しながらも不満や怒りを抱え、そのはけ口を探している。
それは己の被害の及ばない、弱者へと向けられるものなのだとイカエラは考えている。
「最も我らを憎み蔑むのは、そういった人達であろう」
アトゥイはそういう人達と出会った事が無いため分からなかった。
すると海竣が二人の会話を推察して言った。
「あれは恐らく鍛冶屋の煙だ。下人が主の起きだす前に火を熾し用意しているのだろう」
「シサムの中には主人と下人がいるのか?」とアトゥイ
「あぁ、いろいろな階級が人を差別している。つまらぬ事だがな……」
先頭を行く海竣が二人を見下ろしながら言った。
巳の刻(午前十時頃)には東巌鷲山山頂近くまで来ていた。
半刻程前(1時間程前)から雲行きが怪しくなり、雲の中の薄暗く悪い視界をここまで登って来た。
出発して暫くはいい天気だったのが、頂上に近づくにつれどんどん雲行きが怪しくなる。
「山が我らの来た事に気付いておる……我らを拒んでいるというのか?」
山に籠り修行する山伏である海竣は、山の発する靈氣を感じ取る事が出来る。
その海竣が感じる違和感とは何なのであったものか……。
「何者かに見られているような……この感じは……」
海竣は暫く立ち止まり、感覚を研ぎ澄ますように辺りの気配を窺っている。
イカエラとアトゥイは静かに待った。
「気のせいか……いや急ごう。完全に気付かれる前に」
三人が頂上へ急いでいるとポツポツと雨が降りだし、雷がゴロゴロ言い始めた。
「まずい! 気取られた! 急ぐぞ!」
海竣は強靭な体力で山を駆け登る。
それにイカエラとアトゥイが続く。
崩れ落ちそうな岩を踏み越え、頂上に登りつくと眼下を見下ろした。
三十間下(約五十メートル)の火口に、ぐつぐつと溶岩が煮え滾っている。
空気に触れ、瞬間的に黒く変色し消えてはまた現れるそれは……。
巨大な人の顔のようにも見える無機質な目や鼻や口だった。
三十間下の熱気が三人の皮膚を焦がすかのように吹き上げる。
「これは……」海竣がうめいた時……。
煮えたぎる溶岩の中から、大木ほどもある太さの柱が立ち上がって来た。
それは枝分かれし、巨大な二丈もある腕らしき物になる。
大気にふれ、煙を吹き出し黒く変色しながら、どんどん三人の方へ伸びて来る。
「退散だ! 山を駆け下れ!」海竣が叫んだ。
頂上の岩から飛び降りた三人に、巨大な影が上空から襲いかかった。
それは翼を広げれば十尺にはなろうかという巨大なカラスだった。
巨大なカラスは鋭い爪と嘴で海竣に襲いかかる。
不安定な場所で振り返った海竣はもんどりうって倒れ込んだ。
カラスが翼を広げ、バサバサと羽ばたかせ突っ込んでくる。
カラスの嘴が海竣の体を突き刺す瞬間!
アトゥイが高みから飛び掛かり、カラスの背中に組み付きアイ(矢)を首筋に打ち込んだ。
嫌がるカラスは再び飛び上がろうとしたが、駆け寄ったイカエラが小刀を首に突き刺し一気に首を掻っ捌く。
カラスの首から血が飛沫き、もんどり打って勢いよく倒れ込むと、アトゥイは飛ばされ岩に左肩を強打した。
カラスは斜面を転がり落ち藻掻いている。
すかさず海竣が駆け寄り、真言を唱えながら錫杖をかざした。
「ノウマク サンマンダ バザラ ダン センダ マカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン!」
「ノウマク サンマンダ バザラ ダン センダ マカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン!」
すると藻掻いていたカラスの胸元の血がスーっと立ち上がったかと思うと、血が霧散し青白い燐光が現れる。
海竣は真言を繰り返し唱えた。
「ノウマク サンマンダ バザラ ダン センダ マカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン!」
青白い燐光は錫杖頭部の遊環が通してある、輪形の中央にある不動明王が彫刻された珠に吸い込まれた。
緊張を解いた海竣は振り返ると言った。
「助かったアトゥイ、イカエラ、感謝する」
その時!
ゴゴゴゴゴゴッと背後から地鳴りがし、三人は振り返り見上げた。
巨大な燃え滾る右手が頂上からぬっと現れる。
「逃げるぞ!」
三人は一目散に巌鷲山を駆け下りて行く!
無我夢中で山を降っていた三人は、いつの間にか巌鷲山山頂の腕が姿を消しているのに気が付いた。
安堵しながら海竣が、左肩を押さえているアトゥイに聞いた。
「大丈夫か?」
「問題ない」
「我は急ぎ高野山へ戻らねばならぬ……あそこまで胎堕が進んでいようとは……」
三人は中腹まで降りてきて少し落ち着き、岩手郡の原野を見下ろした。
冷たい風が吹き抜け、斜面を雲が滑っていく……。
三人の緊張が少し解けた時、そいつはいきなり襲いかかって来た。