巌鷲山
彼等は陽が暮れる前に、巌鷲山の見晴らしの良い中腹にチプを設営した。
(後の寄生火山噴火により焼走り溶岩流が形成されるにいたる地)
視界が通るこの地で野営するのは狼の襲来に備えての事で、森の中で襲われる事は明らかに不利だからだ。
陽が暮れ準備も整い、チプの焚火で海竣は玄米粥をイカエラとアトゥイに振舞った。
一宿の恩義を一飯で返そうとの想いからだろう。
「しかしこれは良い物だな。チプと言ったか?」と海竣
「そうだ」とアトゥイ
「実に合理的で快適だ。まぁ我らの修行からは離れてしまうがの。はっはっはっっはっはっは」
修験道とは山へ籠り厳しい修行により悟りを得んとする山岳信仰が、仏教に取り込まれた日本独自の宗教で、大峯山(奈良県)や大山(鳥取県)、羽黒山(山形県)や恐山(青森県)など日本各地の霊山を踏破し厳しい艱難苦行を行い、山岳という自然の霊力を身に付けんとするものである。
山岳信仰における山岳とは、日常生活から乖離した「他界」であり、山伏達はその他界に起居し、山岳の霊力を得、他界と現界を繋ぎ、会得した霊力を一般の人々に授ける霊験あらたかな存在とされていた。
「アトゥイと言ったな、差支えなければおぬし等の目的を聞かせてもらえまいか?」
どこまで言ってよいものか……とアトゥイが考えていると、
「おぬし等は何故ここにいて、どこに向っておる?」と屈託なく聞く海竣を見て、
アイヌのチプの中で寛いでいるこのシサムには言っても問題なかろう……。
とイカエラが頷いた。
「北の大地に移り住む。道を調べに来た」
「ほう蝦夷へ……するとおぬし等の一族はまだこの辺りにいるのか?」
「いる。シサムの傍若がひどく我らは飢えている」
「何人ほどいる?」
「五十一人」
「なるほど……それで十三湊に興味を持ったのだな……これもなにかの縁だ。十三氏に紹介状を書いてしんぜよう」
「つてがあるのか?」
「これでも高野山の僧だ。門前払いにはされぬだろう」
「ご厚情いたみいる。大変ありがたい」
「どうでもいいが、その大仰な物言い何とかならんのか?」
「おかしいか?」
「はっはっはっは、まぁ良い。それはそれで面白いわ」
笈から矢立(携帯用の硯と筆)を取り出し、紙に恐ろしく達筆な字をつづった。
その意味はアトゥイにも分からなかったが、およそ次のように書かれた物だった。
「自分は高野山の僧で安房の坊海竣と申す者である。
旅の奇縁で同道する事になったこの者達は、大層人品が立派で信用が出来る。
かくゆう拙僧も大変世話になり申した。
是非、この者達に与力、御助力願いたい。
さすれば愚僧も十三氏の繁栄を願い祈祷いたす所存である……」
くるくると紙を巻いて棒状にし、紐で縛りアトゥイに渡した。
「それはそうと、おぬし等に頼みがある」
アトゥイは海竣の顔を見た。
「巌鷲山山頂に登り確認したい事がある。途中で狼が襲って来るやもしれぬが、ここは曲げて付き合ってもらいたい」
「確認したい事?」
「この我々の世界には精という力が存在する。それはまさに混沌の濁流。何者にも制御あたわぬ奔流のようなものだ。それが洗練され森羅万象、太陽や月、この大地などの秩序だった運行の力になった状態。それを氣という。全ての命は氣の力で生まれ出るものなのだ。我ら人間も例外ではない。
アトゥイは不思議そうに聞いている。
「我ら人間はその氣という流れを純化し、神という更に洗練された力に出来る。それは五蘊によってなされるのだが……まぁ今は良いだろう。おぬし等を襲った狼は知らぬうちに鬼に寄生され、恐らく人を襲いその肉を喰らったのだ。人が持つ神をその身に取り込む事により巨大化し、内に巣食う鬼の成長を助長して、気付かぬうちに鬼に取り込まれていってしまったものなのだ……いや、取り込まれつつある状態なのかもしれぬ」
「その狼の内なる鬼を祓う事は出来ないのか?」
「一度取り込まれてしまうと、二度と元に戻る事はない。その憑代が死ねば鬼はまた別の憑代を探すだけだ」火に枝をくべながら海竣は続けた。
「話を戻すが……この大地の下にはまだ荒々しい精の濁流が存在する。我々は鬼とは精の濁流の中より生まれ、独立した自我を持つと考えている。この巌鷲山の山頂には、渾沌とした精の濁流が見られる場所がある。太古の昔、大山に現れたという怪物、八岐大蛇も精の濁流から生まれ出たものである。との事だ。伝説では素戔嗚尊が退治した。という事になっているが、その実は大勢の呪術者であったと考えられている。その強大な精の力は草薙剣に封印されていたが、三年前の壇ノ浦の合戦で海に消えてしまったのだ。それ以後、何者かの仕業で日本各地の封印の結界が破られ続けている。霊山という精の濁流が現れる場所、巌鷲山の山頂に行けば、今どのような状態になっているのか確かめる事ができるのだ……理解できたか?」
「この大地の下に偉大な荒ぶる神がいて、それはアイヌも和人も全ての人を滅ぼそうとしている。その魁たる神の使いの鬼が、我らを襲い力を蓄え、彼等の神を復活させようとしている。と言うのだな」とアトゥイ。
海竣はアトゥイの理解力の高さに驚きながらも、
「まぁそういう事だ。奴らの神が復活すると使いの鬼達の力も強大な物になってしまう……そうなると、もう手の打ちようが無くなるのだ」
海竣の言葉をアトゥイはイカエラに通訳している。
アトゥイも言葉を探しながら、苦労して通訳しているようだ。
「カムイがアイヌを滅ぼそうとしているのか?」とイカエラ
「どうも違うみたい……カムイに近い別の存在であると思うよ」
「そんなものが存在するのか?」
「分からない……シサムの言葉の意味は半分も理解出来ないから」
「……しかし、この地に何かが起こっている事は疑いようもない」
「それを確認してポンコタンの皆を危険から遠ざける道を探さないと……」
「よかろう、避けては通れぬ道らしい」
長い話を終え、アトゥイは海竣に向き直った。
「いいだろう。同道する」
パチッと焚火の火が爆ぜ、小さな火の粉が上っていった。