岩鬼山
雪が舞う幻想的な森の遥か先に、美しい稜線をひく大きな山がある。
霞んで見えるその山容は山頂の峰が三つにわかれていて、後の文豪、太宰治が「十二単を拡げたようで、透き通るくらいに嬋娟たる美女」と喩えた。
それは標高1,625m、円錐形の成層火山。岩鬼山(岩木山)である。
その雄大な稜線を眺めながら、義経、弁慶、瀬璃をはじめ、アイヌの一行は北上している。
瀬璃は十三湊から平泉に引き返す義経、弁慶と共に、その途中にある巌鷲山へ向かい、真言の者達と合流するつもりである事を明かした。
それを横で聞いていたショルラは、
”この女性は同朋も従者も全て失いながら尚、たった一人でも戦おうとしている・・・”と思った。
その決意は横顔を見つめるショルラには、美しく神々しくも、はかなくも見えた。
鹿の毛皮を裏打ちした藍色の大きな布を、肩から膝まで体に巻きつける様に纏っている瀬璃が足を止めた・・・岩鬼山をじっと見ている。
一行は邪魔をしない様に静かに待っている。
瀬璃の美しい唇がひらいた。
「ここにも・・わずかですが胎動を感じます・・・」
「鬼の産地があると申すか?」と義経。
「いえ・・・ここにはない筈です・・・」
「巌鷲山には鬼の神とやらが復活しつつあり、羽吹風山には鬼の精が生まれ出る場所があった。ここはなにがあると言うのだ?」
「わかりません・・・すべてが解っている訳ではないのです・・・」
彼等を、舞う雪と風が隔てている。
「以前・・・」そう言いだしたアトゥイ自身、遠い昔の様に感じていた。
「カイシュンが確認したいと登った巌鷲山で、巨大な手を見た・・・」
「巨大な手と?・・・」
「燃えたぎる二丈(約6m)にもなろうかという右手が、火口から伸びてきた・・・」
「奥島なる結界を張ろうと、真言の者達がしているところか・・・」
「同じような空気を感じる・・・」
「あの山でも”鬼の神”とやらが復活しようとしているというのか?」
「そこまでは解らぬ・・・」
瀬璃は厳しい美しい顔で岩鬼山を見つめ、弁慶は立ち止まり巨躯を微動だにせず山を睨みつけている。
全員が立ち止まり、どうしてよいか解らず不安になっている。
と、義経が力強く言った。
「羽吹風山はそれほど高い山でもなく、十三湊までの道すがらとも言える位置にあった。だが、あの山は高く、わざわざ迂回せねばならぬ。
皆で行く、手分けして探りに行く・・などとすべきではない。
今できる事を一つ一つ、確実にこなしていくのだ。我らはまず十三湊へ行き、アトゥイたちを蝦夷へと見送る。
そして、なんとか真言の者達に連絡をつけて、どうするか協議する。
最悪なのは、よく解らぬ様々な事に手をだし、収拾がつかなくなる事だ」
巨大な胆力を緩ませて弁慶が言った。
「さようですな。まずは十三湊。それに相違ありますまい」
人は困難に突き当たった時、立ち止まり途方に暮れる。
その時、間髪入れず正しい道筋を示す事が出来るのも、指導者の条件と言えるだろう。
義経と言う人物は、その資質をあますことなく持ち合わせていたと言えよう。
岩鬼山山頂には、不気味な暗雲が立ち込めている。
一行はそれに近寄らない道を選択した。
そんな彼等を時折、不気味な地揺れが襲った。
岩鬼山を右手に見ながら、一行は更に北上する。
曇天の空からは、いつしか雪が深々と降りだしていた。
荒々しく打ち寄せる激しい波を見ながら、一行は尚も歩み続け、十三湊まであと一日と言った所まで来ていた。
深々と降り続ける雪の中、チプを寄せあう様に設営し夕餉の支度をする。
義経は話を聞く為に、弁慶、アトゥイの巨躯がぎゅうぎゅうに詰め込まれているチプに瀬璃を呼んだ。
四人が入ると、肩を寄せ合いながら顔を突き合わせての話し合いとなった。
が、瀬璃はなんとも言えない安心感に包まれていた。
今どこを探しても、ここほど安全な場所などなさそうだと思えるほどだ。
義経が早速切り出した。
「瀬璃殿、改めて聞いておきたい事がある」
「はい?・・・」
「おぬしは荒脛巾の卜者と申しておったな・・・」
「はい」
「我らは荒脛巾の神を良く知らぬ。いやまったく知らぬ・・・謎と言ってよい・・その神の素性を教えてもらえぬか?」
「荒脛巾の神は、大和朝廷の神々があまねく日の本に広まる前に、もともとこの地におわした神です」
「太古の神であると・・・」
「はい・・・アイヌの人々も御存知のはずです・・・」
瀬璃はアトゥイの顔を見た。
「もともとアイヌの人々は、もっと西の地まで、この日の本の国に広く住まわれていました・・・それを我ら和人が追い立て・・・とうとう蝦夷にまで追いやろうとしています・・・時に暴力で・・時に搾取で・・・いろいろな迫害で彼等を差別してきました・・・」
”パチッ”と火が爆ぜ、火の粉がチプの中を舞い上がって行く。
「荒脛巾の神は、みなさんが良く御存知の神々より、遥か前からこの日の本にあり、アイヌ同様追われた神なのです」
「しかしおぬしは武蔵国より来たと申しておったな?」
「はい・・・今、荒脛巾神は客人の神として、細々と祀られております。私の一族は、代々荒脛巾神を祀る神職の家系にありますが・・・朝廷より許されてはおらず、邪教徒扱いされながらも、かくれて荒脛巾神を信奉してまいりました・・・」
瀬璃は手元に目を落とした。
「ひっそりと・・隠れながら・・でもそれも私の代で終わりとなります・・・」
ふせた彼女は寂しそうに言う。
「今回、真言の座主様の御依頼を受けこの地へ来て・・私が最後の荒脛巾の卜者となりました・・・」
顔を上げた彼女は何かを決意している様だった。
「我ら荒脛巾神を奉ずる者達は、大和朝廷の神を信奉するか・・追放される運命だったのです・・・」
駆逐される異端の民、それは我らだけではなかったのか?・・・とアトゥイは驚いた。
「おぬしは巌鷲山で死ぬつもりだな?」と義経
瀬璃は答えず、寂しそうに微笑んだ。
「ならぬわ!」とそこまで黙っていた弁慶が口を挟んだ。
「生きていてこそ、その生に意味がある!死ぬことに何の意味があろうか?!」目をむいて怒り出した弁慶に瀬璃は驚いている。
「おぬしはまだ若く、そして美しい。子をなし家を継がせる道もあろうに!」
「お許しください・・・異教徒の生活は堪えがたい屈辱の日々・・・信仰や信念・・誇りを捨てて生きる事に、なんの意味がありましょうや?」
「それでも生きるのだ。負けるとは、心がまず負ける事だ。アトゥイ達を見てみよ、誇りを捨てず、必死に生きようとしている。まだ見ぬ地へ、なにものをも恐れず旅立とうとしているのだ。」
「・・・・」瀬璃はすがる様な目で弁慶を見た。
「ソイエを見よ、まだあのように小さい身でありながら必死に生きようとしている」
彼女はその美しい面をふせた。
「我らは死んで誇りを持ち続けると・・・一族が決めたのです・・・」
そして心の奥底から絞り出す様に言った。
「我らは疲れ果ててしまったんです・・・」
「誇りを持ち続けるとは、死んで楽になろうというものではないわぇ!」
「誇りとは、強いとは、ただ単に力やその技が優れているという事ではない!どのような辛き目に遭おうと、たじろがず、一歩も退かぬ不屈の精神力を言うのだ!」
「良い見本が目の前におるではないか!」とアトゥイを指差した。
「本当に強い人間とはこの様な男の事を言うのだ」アトゥイは目を白黒させている。
瀬璃はうるんだ眼差しでアトゥイを見た。
突然話をふられたアトゥイは慌てた。
「いや・・俺は・・強くなどない・・・ただ皆のために生きたいと願うだけだ・・・」
「皆のために・・・」瀬璃は呟く様に言う。
「死に行く奴は皆申すわ、”もう疲れた”とな、人生の土壇場で安易にあきらめ、疲れた、楽になりたいなどと申す!」
弁慶にしても、彼女の苦境や悲しみ、疲労感はよく解っていた。
しかしその悲しみに一緒に沈む事は、彼女にとってよくない事だとも承知している。
ゆっくりと勇気づけ、こんこんと諭す様な真似が出来ない彼は、自然と言葉が強くなってしまう。
「人はその人生の土壇場で真価が問われるのだ。お前はどの様な人間か?とな、だくだくと己の不運や悲運を嘆き悲しみ、その運命とやらにどっぷり浸りこむ奴にかぎって、”もう疲れた”などとほざくのだ!」
ふせた瀬璃の美しい横顔に艶やかな髪がぱらりと落ち、揃えた手を握りしめる。
アトゥイは静かに口を開いた。
「俺は思う・・その時々の人の心のありよう・・精神の形だと・・・朝から晩まで、起きてから寝るまでの間・・・延々と考え続ける・・・己の身に降りかかる理不尽や不条理を・・・そんな事をしていれば・・誰しも心が疲れ果ててしまうのは当然の事だ・・・時間を置き、しばらくたてば、なぜあの時あのように苦しんだのかさえ解らなくなる時がある・・・あまり難しく考えず、良く寝て・・・楽しい事を見つけ・・嫌な事を忘れる・・・そして時を置く・・・そうすればなにか道が見つかるかもしれない」
瀬璃がアトゥイを見上げた。
「焦る必要はない・・・じっくりと答えを探す人生という旅にでればいい・・・」
瀬璃の華奢な肩が小刻みに震えている。
「逃げてもいい・・助けを求めてもいい・・人は一人ではない・・・」
アトゥイの顔を見つめていた瀬璃の、美しく見開かれた目からポロリと涙が落ちた。
「必ずそれに応えてくれる人がいる筈だ・・・」
己の中で澱んでいた想いが、嗚咽となって体の外に出てくる。
アトゥイを見つめながら、涙が止まらなくなってしまった彼女は・・・ふいにつっぷし声を殺して肩を震わせ泣きだした。
その背を、アトゥイの大きな手が優しくさする。
弁慶が優しく言った。
「そうだ、みんな吐き出してしまえ。そして共に考えようぞ。行く末を」
アトゥイは泣き続ける瀬璃に、彼女の心の闇が見えた様な気がした。
どの様な苦しき思いをしてきたのか・・・
弁慶は義経と二人っきりになると聞いた。
「殿は瀬璃の死の覚悟を知って、我らにいさめさせようとなされたな」
「私には人の心は動かせぬ。私は理で出来ている・・・理屈で人の心は動かぬものだ・・・幸いおぬしもおればアトゥイもいたのでな、調度良いと思うたのだ」
弁慶は主の気働きに感心しながらも、己の性分をよく弁えていなさる・・・とも思っていた。
その義経は、厳しい顔で言う。
「おそらく・・一命を賭してなす強力な術があるのであろう・・・己の命をそれに使い果たすつもりだったのだ・・・」
死に憑りつかれた様な瀬璃は、アトゥイの言葉で変わった・・・
まるで生があらためて宿り、雪の下で耐え忍んだ華の息吹が芽生えたかの様だった。
しかし・・・必要とあらば、ためらいなくその術を瀬璃はくりだすだろう・・・
その覚悟が、彼女の中でとうの昔にできあがっている様に感じる。
そのような事に、万が一にもならねばよいが・・・
弁慶は難しい顔で天を見上げた。




