八郎潟
大地は雨上がりの様に泥濘が生まれ、木々に積もる雪も、松の針葉の氷も、岩々に積もった雪も溶けだし、生暖かい冬の森に大量の水滴を落としていた。
曇天の空と、木々から落ちる水滴を見ながら義経が、
「異様な・・・この時期に・・こんな事は初めてだ」と言う。
「森羅万象、色々な事が起こり得るのですな」と、さして気にもしていなさそうな弁慶が言った。
「長老、どれくらいで出発できるか?」とアチャポに聞いた。
アトゥイを介して、
「半刻ほどだ」
「なれば、急ぎ出発の準備を始めてくれ」
義経は不気味な予兆を感じずにはいられなかった。
一行は準備が整うと、先頭に義経とアトゥイが立ち、殿を弁慶が守り出発した。
アトゥイが振り返ると、アイヌの人々の向こうに巨大な弁慶の上半身が見て取れる。
弁慶はソイエを肩に乗せ、周囲を警戒している。
その姿を見ただけでアトゥイは一息つく事が出来た。
「アトゥイ、蝦夷についてどれほどの事を知っているのだ?」
歩き出してすぐ、そんなアトゥイに義経が聞いた。
「実の所、まったく解らない。が、豊かな大地にアイヌが多くいて、シサムがおらぬと聞いている」
「私とて人づてだが・・・この地より更に雪深く、寒さ厳しい所と聞き及ぶ・・では地理とて不案内であろうな?」
アトゥイは頷いた。
義経はその美しい目を遠くにやりながら、暫く考え込んでいたが、
「まぁ・・あれこれと行く先々の事を思案してみても始まらぬな・・」
義経はフッと笑うと
「不測に立ちて無有に遊ぶ・・・か」と言った。
なんの事か?アトゥイは義経の顔を見た。
「ふふふ・・私も弁慶に聞いたもので深くは理解せぬが・・・先の事は予測せず、解らない状態で今を楽しむ・・と言った意味らしい」
不思議そうな顔をしているアトゥイに義経は続けた。
「先の事が解らない状態で前に進むは勇気がいるものだ。しかしそんな中でも未来を憂えず、予測せず、段取り(計画)しない。理屈にも段取りにも頼らず、自らの直感を信じどんな変化がおきても運命と受け容れ楽しむ。何よりも”今”に没頭する事が大切だ・・という意味らしい」
アトゥイは暫く考えた後
「悪い事ばかり考えて一歩も前に進めないより、今この時に集中して直感を信じ、楽しみながら前に進む・・・それが大事だという事か」
「おぬしは・・物解りがいいな」と義経は感心した。
そんな会話をしていた二人の眼前に、大きな湖が見えてきた。
それはまるで海の様な大きさで、北上を続ける彼らの前に立ちはだかっている。
湖面には冬鳥達が羽を休め、湖岸には湿地が広がっている。
生暖かい風が、彼らの背から湖面へと吹き抜けていき、さざ波が立ち、枯れ葦をなびかせている。
それは八郎潟であった。
太古の昔、北側の米代川と南側の雄物川からそれぞれ土砂堆積により砂州が延び、離島であった羽吹風山(寒風山)に達して複式陸繋島の男鹿半島が形成された。
両砂州の間に残った海跡湖が八郎潟である。
この当時面積220k㎡と、琵琶湖につぎ日本で二番目の広さだったが、21世紀の現在では大部分の水域が干拓、陸地化され、日本の湖沼において19位の面積となっている。
南西部の馬場目川(船越水道)が唯一の流出河川で、海との高低差が最大でも1.26mと極めて小さい事から、海水が逆流し汽水湖となっている。
汽水湖とは潮の満ち引きにより海水と淡水がまじりあう湖の事で、シジミ、シラウオ、カレイ、ボラ、コイ、ワカサギ、ハゼ、フナ、ウナギなどが水揚げされる豊かな漁場であった。
しかし、1961年(昭和36年)に完成した八郎潟防潮水門によって船越水道は締め切られて以降は淡水湖となっている。
それ以前に、第二次世界大戦後、食糧増産を目的として干拓工事が行われ、オランダの技術協力を受け、20年の歳月と約852億円の費用を投じ、約17,000ヘクタールの干拓地が造成された。
1967年(昭和42年)から入植を開始し、全国から公募された入植者が移住した。
全体の事業は1977年(昭和52年)に竣工した。
しかし1970年(昭和45年)、政府が米の生産調整(減反政策)を開始し、大潟村への入植者公募は同年を最後に打ち切られた。
このため、最終的に米の増産を目指していた干拓事業は失敗した計画とする見解もある。
環境面でも、魚介類の水生植物が豊かだった湖の面積を大幅に狭め、沿岸の湿地が失われた事を嘆く向きもある。
日本各地の人間の手による自然破壊。
それにより失われてきた生物の多様性。
人類は自然と真摯に向き合わねばならない。
義経は湖に目をやったまま話し出した。
「八郎潟には三湖伝説という伝説があるそうだ。それは出羽と陸奥にまたがる伝説で、八郎太郎という名の龍に姿を変えた若者の伝説だが、十和田湖で暮らしていた八郎太郎が、南祖坊という諸国で修行した男と戦い、その戦いの後、敗れた八郎が逃げ往く際に八郎潟が生まれたという・・・」
アトゥイに目をやった義経が続ける。
「そして、仙北郡の神成村の辰子と言う名の面姿姝妙しい(容貌が美しい)娘が、自らの美貌に執着し、その美貌を長らえようと観音菩薩に百夜の願掛けをしたところ、龍に変化し報いを悟った辰子が泉を広げて湖とし、そこで暮らす様になったというのが辰子潟(田沢湖)であるという・・・その辰子に八郎は惹かれ、辰子潟へ毎冬通う様になり、その湖で再度南祖坊と戦い、今度は勝利したという」義経が語ったその伝説は、地方により詳細は違っているものの、その伝説には実際におきた自然災害との関わり合いが考えられている。
西暦915年、このときより三百年程前に十和田湖でおきた大噴火は、各地に噴火降下物を堆積し、広範囲に渡り農作物への被害を出し、山間にいくつか自然のダムを造った。
南祖坊と八郎太郎の七日七晩の戦いは、稲妻を投げ合い、法力を駆使した壮絶なものであったとする表現があるが、巨大な噴煙を上げ、火山雷(火山が噴き上げる水蒸気、火山灰、火山岩などの摩擦電気により噴煙の中に発生する雷)を轟かせ、溶岩をはきだす火山の凄まじさを見た人々がその様な伝説を創り、その時の十和田湖の噴火の様子を語っているのではないか、と言われている。
さらに七座山の伝説に残る「白鼠」は、火山降下物が堆積し流れるシラス洪水なのではないかと考えられている。
また八郎太郎はいろいろな伝承があるが、いずれにせよ蝦夷系の仕事をする若者とされる。
辰子姫はアイヌ語語源の「タプコプ」(平野の中の小高い丘・たんこぶ山)が元のなっているので、これもまた蝦夷系である。
対する南祖坊は9世紀、南の方からこの地区にきた天台宗の坊主を象徴している。
物語は恐ろしい自然災害を法力で鎮めてくれた南祖坊を描きつつ、なにやら八郎太郎に同情的な所が、何かを揶揄している様に感じられる。
湖のほとりで足を止めた義経に皆が集まって来た。
義経はアチャポに、
「長老、これより先どの道を選ぶか決めねばならぬ」
アトゥイがそれをアチャポに伝える。
「俺に任せてくれると言っている」とアトゥイが義経に言った。
「さようか・・なればアトゥイ。おぬしの判断に任せよう」
「この大湖を右回りでゆくか、左回りでゆくか、いかにせん?」
「オンゾウシはいかに思われる?」
「私ならば・・・右回りとするだろう」
「先ほどの話か・・直感・・か・・・」
遠くの湖の彼方に目をやるアトゥイはしばし考えた後、
「左回りとしたい・・・理由はない・・・なれど・・なにか解る様な気がする」
「解った。ではそういたそう」
屈託なく義経はそう言うと歩き出した。
皆も歩き出す。
どんよりとした雲は何処までも続き、生暖かい気味の悪い風が彼らの背を押している。
しかし、アトゥイは何の心配もしてはいなかった。
心のどこかに・・・義経と弁慶がいてくれれば大丈夫だ。という事もあっただろうが、彼らがいて駄目であればもうどうしようもない。
といった、諦めの境地に立っていたのかもしれない。
すると、なぜか楽しい気分になってくるのがアトゥイは不思議だった。




