風雪
どんよりとした雲が水平線まで天を埋めつくし、荒波が岩に打ちつけている。
射す様に冷たい風が、飛沫を巻き上げ吹き荒ぶ。
時折ちらつく雪がそれに混ざり、より寒さをきついものとした。
日本海の冬は、この様な日がこれでもかと続く。
岩の隙間から生え出した松の木の針葉に氷が垂れ、凍りつく世界と非対称の荒々しく激しい波がうねっていた。
ここは出羽国沿岸中部の由利地方(現秋田県由利本荘市)北部の海岸線にあたる。
吹きつける寒風も、さして寒そうにするでもなく左肩に米俵を担ぎ、右手に大きな酒壺や干魚、熨斗鮑などをぶら下げて歩く、巨大な法師を見出す事が出来る。
市で仕入れた大量の食糧を担いで、白と黒の濃淡に飾られる山に向っているのは、武蔵坊弁慶その人である。
義経の供をして、何度か十三湊に足を運んだ事のある彼であったが、この道は初めてで、なにもかもが新鮮で目新しい物ばかりだった。
この男、一見すると強面のいかつい恐ろしげな顔だが、どこか愛嬌を残している。
笑うとその愛嬌がこぼれだし、なんとも言えない魅力的な笑顔になるのだ。
ひとたび彼のその笑顔に接してしまうと、誰もがその魅力に惹きつけられてしまう。
身の丈七尺、強力無双の巨体に、何物をも恐れぬ気骨と溢れ出す優しさで、いかつい恐ろしげな顔の彼の周りには、いつも人が集まってきた。
そんな彼の挙動は、その巨体から考えられないほど機敏に動く。
彼が何気なく振り向いた手にぶつかれば、普通の人なら弾き飛ばされて怪我してしまうだろう。
そんな事が間違っても起きない様に、細心の注意を払って体を動かしている。
そんな風に感じさせる男だった。
この人気のない山の中では、その心配がないから伸び伸びと体を動かしている。
そんな弁慶は目印にしていた大きな岩を見つけると、獣道に入り込んだ。
林の中に入ると風雪も和らぎ、少しだけ過ごし易くなった。
寒々と林立する松の木々の中、雪の小山を登り、下る。
誰もいない筈の山の中に、微かな煙の臭いが漂っていた。
弁慶は肩の米俵を軽々と担ぎながら、念のため周囲を警戒する。
怪しい気配は感じられない。彼は歩を進めた。
暫く歩くと、森閑とした森の中に、肩を寄せ合う様にチプが五棟立っていた。
外でチプの補修をしていたオマンレが、弁慶に気付き笑顔で声を掛ける。
「これはまた、大漁だったな」
弁慶も破顔して
「今日はこれで皆存分に呑めるぞ」と酒壺を持ち上げて見せた。
チプの中からハエプトやショルラ、シイヒラやヌマテが顔を見せる。
すっかりなついてしまったソイエは、弁慶の法衣の裾を持って笑顔で彼を見上げた。
弁慶が手に持つ熨斗鮑に興味がある様で、手を伸ばしている。
「これか?これはな、鮑の肉を薄く切って伸ばし干したものだ。うまいぞ」
と笑顔でその中の一本をソイエに与えた。
弁慶は手に持っていた干魚や熨斗鮑を女達に手渡し
「米もいっぱいあるぞ、今日はたらふく食えるわぇ!」
と、空いた右手で米俵をお手玉の様にもちあげる。
もちろん弁慶の言葉はアイヌの人達には解らないが、雰囲気でなにを言っているのか解る。
弁慶の鳩尾ほどしかない彼女達が笑顔でそれらを受け取ると、夕餉の支度をする為チプに戻っていく。
それとすれ違う様に義経が歩いて来た。
「なにか情報が入ったか?」
「これと言った物はなにも、なれど気にかかる話を耳にしましたわぇ」
「ほう・・・」
「これより向う先、十三湊の途中の山間の村で、村人が忽然と姿を消したそうで・・」
「鬼の仕業と・・」
アトゥイも弁慶の元に現れた。
「なにか心配ごとか?」
「なに、少々気になるだけの事よ、今日はゆるりとするがよかろう」
義経がアトゥイに聞いた。
「おぬしは鬼の熱を感じると言っていたな」
「感じる。恐らくあいつらも俺の中の鬼の熱を感じ取る筈だ」
「して、この周りに鬼のそういった物を感じるか?」
「いや、まったく感じない。大丈夫だ」
夕餉の支度をする女達の横を三人は並んで歩きぬける。
と、弁慶が足を止めた。
「ほう、それは未醤(味噌)か?」弁慶が驚いたのも無理はなく、この頃の”味噌”は高級品で、貴族や一部の上流階級の口にしか入らない物だったのだ。
米や麦の粒立ちがそのまま残りポロポロとし、そのまま甞めて「おかず」にしたり、豆腐や野菜に塗る「なめ味噌」として主に食べられた。
「延喜式」には京都東市の醤店と西市の未醤店が記載されている。
その公設市場には米屋、塩屋、油屋、絹屋、櫛屋など生活必需品の店が多く有り、高級品とはいえ味噌も同等に扱われる様になっていったのである。
平安後期になると、稲作が広まり米麹を使った味噌が造られ始め、全国に普及していった。
米が取れにくい地方では麦を使用し麦味噌も生まれていく。
もう暫く経つと、中国から日本にやってきた僧の影響で、粒味噌をすりつぶし味噌汁として利用される様になり、「一汁一菜」(主食、汁物、おかず、香の物)という鎌倉武士の食事の基本が確立されていく。
大きな弁慶が屈み込み、ハエプトの手元を見た。
雑炊を作ろうとしているそのかたわらには、朴の葉で包まれてあった味噌がある。
それはアイヌの人々が作る、いわゆる”縄文味噌”で、どんぐりなどから作られる。
「こんな所で未醤が食えるとは、これは楽しみだわぇ」
我々の身の回りには、歴史と年月、人の情熱により磨かれ育まれた数多くの食物が存在する。
その様な物を味わいながら呑む酒は、また格別なものだ。
弁慶は舌なめずりした。
「おぬしも三郎の事ばかり言えぬな」と義経。
「これはまた心外な、それがしのは純粋に味を楽しむ物であれば、三郎の様にただ酒の肴になればいいという物でござらんわぇ」
「はっはっはは、怒るな弁慶」
アトゥイも笑いながら見ていた。
チプに戻った義経はアトゥイに
「どれ、おぬしの舞草刀を見せてみよ」と言った。
アトゥイが差し出すと義経は鞘から抜いた。
「随分と激しい戦いだった様だな・・・」
それは、太刀全面に刃こぼれと白錆びがうかび、凄惨な程妖しく光る刀身は生き物の様であった。
「研ぎ直しに出さねばならぬな・・・」
アトゥイの舞草刀には、斬られた者達の怨み、怒りや悲しみといった怨念がこびりついているかの様だ。
人の命を奪った怖さと迫力が、その舞草刀にはあった。
「私の持つどんな太刀より、この太刀は血を吸っている」
義経が何を云わんとしているのか・・アトゥイは次の言葉を待った。
「嘘か真か解らぬが、太刀に惹かれるという事があるそうだ。太刀の持つ妖しげな力が人心に及ぼし、人を狂わせる」
”パチッ”と火が爆ぜた。
「まるで太刀に操られるかの様に、刀身に血を吸わせる為、夜な夜な犠牲者を探すというのだ」
アトゥイは真剣に聞いている。
「今おぬしは、やむにやまれず人を斬っている。それに相違あるまい。しかし、己の欲望で人を斬りたくなる時が来るやもしれぬ・・・そうならない様、強く心を持たねばならぬ」
刀身からアトゥイに視線を移した美しい義経の瞳には、焚火の炎が揺らめいている。
暫くアトゥイの瞳の奥を覗いていた義経は
「太刀に惹かれるのか、己自身の問題なのか・・双方が呼び合うのか、それは解らぬ。しかし、斬った人の数ほどその欲望が強くなるという・・・・なれど、おぬしは大丈夫だろう。安心するがよい」
アトゥイは不思議そうに義経を見ていた。
「が、心に留め置いておけ」
アトゥイは義経の云わんとしている事が、今はまだ理解できずにいる。
しかし、そのような事もあり得るのかと頷いた。
「解った。心しよう・・・それは鬼となにか繋がりがあるのか?」
「鬼は人の心の奥底に必ずいる・・・鬼の眷属・・・海竣はそう言っていたが、その眷属とやらは人の心の奥底に潜む鬼の一面を呼び起こし、その心を喰い潰してしまうという。嫉み、そねみ、うらみ、怒り、哀しみ・・・それらに執着すれば、憑りつかれた鬼に勝事は出来ぬ」
”パチッ”と火が爆ぜ、火の粉がチプの中を上っていく。
「私もその境地に到ってはおらぬが、人生を喜び、楽しむ・・・執着無く人生を楽しみ、執着なく死ぬ。それが大事な事ではないのか・・・」
アトゥイはミチも同じ様な事を言っていた事を思いだしていた。
「何事も小さき事とかかずらわず、己のやりたい事を一心不乱にやる。さすれば、豊饒な人生を歩めよう・・・なれど、そう出来ないから人は嘆き悲しみ、心に執着の鬼を宿らせるのだ・・・」
アトゥイはまるで神託を受けるかの様に、義経の言葉を聞いていた。
暫くして・・
ショルラが酒と未醤(味噌)を持って現れた。
「おぉ、すまぬのぅ」と笑顔で弁慶。
ショルラも嬉しそうに弁慶を見上げた。
義経の木のかわらけ(酒杯)に酒を満たす。
義経の無駄のない優雅な所作がそれを受けた。
酒を一口やると、朴の葉に乗せた味噌を枝の箸でつまんで口に入れる。
弁慶も同じように食べる。
若干のえぐみが残るものの、粒が立った旨い味噌だ。
「これはまた野趣溢れる旨さだわぇ」と弁慶がショルラに言うと、ショルラはポーとした顔でアトゥイの横顔を見ていた。
それに気が付いた弁慶が
「はてさて、アトゥイもこれでなかなか隅に置けぬ奴だ、はっはっはっはっはは」
「なんだ?」と不思議そうにアトゥイは聞いた。
「これは相当先が思いやられるわぇ、のぅ?」
と最後の方は大きな体を屈ませてショルラに言った。
ショルラは顔を赤らめて急いで出て行く。
そんな彼女を、微笑ましく義経と弁慶は見送った。




