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鬼の眷属  作者: 上泉護
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曇天

イカエラとアトゥイは北上を続け、ニセイヌプリの麓まで来ていた。

どんよりとした空は時を忘れさせ、枯葉を踏む音が時を刻んでいるような肌寒さが増した森の中を二人が黙々と歩いていると、時折野鳥の声が寂しく聞こえた。

シサム(和人)の集落を遠く見られたが、あえて近づく事をしなかった。

彼らがアイヌの事をどう思っているのか知っていたからである。

だから街道を避け獣道を往くのだ。

「もう暫くしたら休もう。もうひと踏ん張りだ」イカエラがアトゥイに言った。

「まだまだ大丈夫だよ、ミチ」

「よいか、重い荷物を背負いポンコタンの皆が歩いている事を想うのだ。皆が安全に休める場所を心当てておくのだ」

「分かった」

枯葉の斜面を登りきると、少し開けた大きな岩が所々転がっている場所に出た。

「ここは良い……」とイカエラ

岩の蔭に小川がチョロチョロと流れている。

そこで二人は喉を潤すと、その場を見て周った。

「その岩陰にチプ(簡易住居)を建てよう」とイカエラ

チプとは、円錐形構造で鹿の皮を張り合わせた天幕を被せ、十数本の杭で留める物である。

頭頂部が開口され排気口になっているので、中で火を熾し煮炊きができる。

開口された頭頂部を襟のように折り返して棒で支え、雨や強い風などに風上の襟を折り返して蓋いこれを防ぐ。

撤去は天幕を外して折り畳むだけで済み、その天幕は背嚢(はいのう)(背負う鞄)と体の間に入れられ嵩張る事はない。

設置も撤去も簡単に行え、来たるべき時にポンコタンの人々の臨時のチセ(家)となるものだ。

イカエラとアトゥイは地面に穴を開ける許しを精霊に請い、清めの儀式を行った。

柱を挿す穴を円形に掘り、切り出してきた木を束ね、その一端を鹿の腱で結ぶ。

それを広げながら、柱を穴に差し込み円錐形に立てた。

鹿のなめし革の天幕をそれに被せ杭で留め、中に入り焚火を熾し暖をとる。

チプの中はチセほどではないが、暖かく過ごし易くなった。

レラ(風)が出てきて天幕を揺るがし、遠く雷がゴロゴロと鳴っている。

「一雨来るかもしれんな」イカエラが言った。


少しレラが出てきた沢で落ち葉が舞っている。

イカエラとアトゥイが通りすぎてから半刻ほど経った獣道で……彼らの足跡を嗅いでいる物がいる。

漆黒の毛で覆われた獣の一歩踏み出した脚は、イカエラの足跡ほどもある巨大な物だった。


日が暮れ辺りは暗くなり、少し前から降り出した雨は強さを増し雷鳴が轟いている。

二人はチプの中で起こした焚火に、狩りで獲ったモユク(たぬき)を捌き炙っていた。

肉が焼ける音といい匂いがチプに充満する。

なるべく保存食は食べないようにしていたため、獲物があり今日は御馳走だ。

すこし筋張っていたが、特有の獣臭さもまた旨かった。

強い雨が天幕を叩き、会話するのも大きく声を出さなければならないが、チプの中には水が入り込まないよう、あらかじめ盛土をしていたので安心していた。

「疲れたかアトゥイ?」

「全然平気だよ」

長年の経験から、

「この雨は長引くかもしれん……」とイカエラは言った。

「カムイ(神)は我々に残れと言ってるのかな?」

アイヌにとって神は身近な存在である。

まるで足止めをするようなこの雨は、カムイが今の地に留まるように言っているのかもしれないとアトゥイは思った。

イカエラはカムイの声を聞くのは、あくまでも人間の感性であり意志であると、

「案外、一度決めた事を覆すのは難しいのが人間だ。カムイの言葉に気付けるか……ましてやエカシ達は優れているが老いている。一度決めた事は覆らないだろう」

「人は歳を重ねる毎に優れていくのではないの?」

「優れてはいくが、盲目になっていくのが人間の(さが)だ。臨機応変は若者の優れた一面でもある」

思考の柔軟さは若い者にこそ備わっているものであり、保身やしがらみは老いるほど強くなる。

それが間違いとは言わないが、正しい道を選ぶ判断を阻害するものだ。

決してエカシ達は愚かではない。

若者が道理を説けば気付く筈だ。

また若者が間違えた時は、適切な助言が出来るのもエカシ達である。

経験に裏打ちされた正しい知識と、若者が持つ熱情という熱量が合わさった時……正しい道が開かれる。そうイカエラは信じている。

「お前も正しいと思った事は、曲げぬ覚悟が必要だ」

「そんな……分からないよ。正しい事なんて……」

「それでよいのだ。いずれ分かる時が来る。己が本当に正しいと思う道を、誠実に模索するだけだ」

「正しいと思う道……」

「そうだ。私心を捨て皆のために生きろ。さすればおのずと見えてくるだろう」

「私心を捨てる……」

「さぁもう寝ろ。雨がやめば明日の朝は早い」


眠りについてすぐ、アトゥイは揺り起された。

「なに? ミチ」

「静かに……何かいる」と小声でイカエラは言った。

「お前はチプから出るな、火を強くしておけ」

アトゥイは急いで木をくべると火に向って吹いた。

弱かった火が強さを増していくと、心強さを感じたものだ。

雷が鳴り響く中、何にミチは気付いたのだろうか?

いつの間にか雨は豪雨になっている。

外に出たイカエラの体はあっという間にずぶ濡れになった。

おかしい……どんな獣でもこんな雨の日に狩りはしない……。

それは雨が獲物の匂いを消し狩りが難しくなる事を本能的に知っているからだ。

そんな日にあえて狩りをするという事は……よほど飢えているか、気が狂っているかのどちらかである。

雨に打たれながら稲光りを頼りに周囲を警戒する。

何度目かの稲光りの後、

いた!

イカエラは暗闇に光る双眸を見つけた。

それはこちらをじっと見ている。

イカエラは今まで数多くの狩りをしてきた。

その中には命の危険を強く感じる事も多々あった。

しかし今、イカエラを睨んでいる双眸の光はそのいずれとも違う。

異質なのだ。

イカエラは背筋に冷たい汗が流れる錯覚を覚えた。

こいつはやばい……。

己の本能がそう告げている。

瞬きもしない双眸はじっとこちらを見ている。

この距離であの双眸、

でかい……。

イカエラは羆かと思った。

しかし、それとも違う「何か」だ。


”カッ”と稲光りに一瞬照らし出された姿を、イカエラの鍛え上げられた目は捉えた。

それは巨大な狼だった……。


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