異変
気持ちの良い朝日が射しこむチプの中で、ミチと旅支度をしながらアトゥイは昨夜の地震について考えていた。
薄い月明りの中チセの柱は軋み、吊るしてあった干し鮭は暴れ、外の木々はざわざわと暫くの間続いた。
上手くは言えないが、常の地震とは何か違う違和感があった。
揺れは暫くして収まったが、何とも言えない不気味な空気が夜の闇に残ったものだ。
アトゥイはミチと共に先人として旅立つ事になっていたため、二人は支度を整えるとチセを出た。
朝日が彼らを包む中、ハポ(母)とヌマテとフチ(祖母)が見送る。
「では行ってくる」とイカエラ
「気を付けて、メトトゥシカムイ(山の神)の加護あらん事を」とハエプト
「アトゥイ、あたし達の分まで頑張ってくるんだよ」とヌマテ
「うん」
その三人に別れを告げ歩き出すと、ポンコタンの外へと向かってコタンコロクルとエカシ達、全ての村人が見送りに出ていた。
「頼んだぞ」
「体に気を付けるんだぞ」
「早く帰ってきて」次々と声をかけられる。
このポンコタンの住人は全て家族のようなもので、何歳でどんな病気や怪我をしてきたかまで分っている間柄だった。
アトゥイの幼馴染の少年達が駆け寄って来て口々に言う。
「気を付けてねアトゥイ、待ってるよ」
「ミチと一緒だから大丈夫だよ、エバロ、オリリ、エモレエ」にこっとアトゥイは笑う。
イカエラと同世代のオマンレが、一言も交わさずイカエラと握手している。
アトゥイと同い歳の少女が心配そうにアトゥイに近寄って来た。
「本当に気をつけてね……」
「大丈夫だよ、ショルラも達者で」
生まれつき口をきく事が出来ない幼女のソイエも出てきてくれた。
アトゥイの腰にしがみつく。
「ソイエ、元気でね。寒くなるから風邪をひかないように気を付けるんだよ」
アトゥイは優しくソイエに微笑んだ。
ポンコタンの外れでアチャポがイカエラに言う。
「頼んだぞ、我らの行く末を託す」
頷くイカエラに迷いはなかった。
暫くし振り返るとポンコタンが小さく見え、皆はまだ見送ってくれていた。
イカエラは振り返りもせず、大きな背中が黙々と歩を進めている。
頼もしいミチと共にある限り心細さは感じなかったが、勘の強いアトゥイは、この地に得体の知れない「何か」が生じた事を感じずにはいられなかった。
エバロ、オリリ、エモレエ、ショルラが大きく手を振っている。
アトゥイもまた大きく振り返した。
鷲塚三郎は朝の挨拶に仮屋にあてた倉庫にまかり出ると、母屋が倒壊し家族を失った盛春に弔辞を述べた。
「この度は真に残念な事で、お慰めする言葉も見つかりません……これよりは御冥福をお祈りい致しますと共に、舘平家の更なる御興隆が何よりの御供養と存じまする」
頭を下げている鷲塚は強い視線を背中に感じ、返事の無い主に恐る恐る顔をあげると、エラの張った四角い顔の盛春が下人に運ばせた朝餉を食べている。
強飯を口に入れ、汁物を流し込み長々と咀嚼するいつもの主であったが、身体が大きくなった事以外にも、どこか以前の盛春とは違う気がしてならなかった。
どこがどうとはっきりしたものではないが、しいて言うなら「感情」が変なのである。
妻子を亡くしてもさして悲しそうでもなく、かと言って情緒不安定な訳でもない。
なにかに渇望している……そんな感じなのだ。
「……それから、米の刈り入れを致したく、お許し頂きますようお願い致します」
「そちに全て任す」
主の返答は短いものだった。
退出しようと頭を下げ出て行こうとした時、
「鷲塚……」と声を掛けられた。
振り返った鷲塚に、
「家族を無くすとは、さも寂しいものよな……」
「御心中、お察しいたしまする……御免」
鷲塚は空々しい何かを感じて不快な気分になったものだ。
郎党、下人が稲刈りに終日忙しく働いていたが、毎年一緒になって刈りいれをしていた盛春の姿は、とうとう見られなかった。
その後、それまでの生活に戻ったかのように見られたが……。
京を模した平泉の街で夜な夜な怪異が現れ、人々の口に上るようになった。
見廻りの武士が辻で鬼を見かけただの、人が神隠しにあっただのと言った噂話や怪異を耳にする度、
鷲塚は何故か主の盛春が大きく、金剛力士のような体に近づいていく気がした。
小柄だった盛春の体は、今では六尺を優に超え筋骨逞しい物になっている。
配下の者として逞しい偉丈夫が我が主であるのは誇らしい事だったがその反面、主に何が起こっているのか分からない不安もまた強かった。
その夜……。
北方のフンチヌプリ(怒れる山:巌鷲山)の麓の薄暗い洞窟の中で、村人とおぼしき男女十数人が円座になり念仏を唱えている。
中央に置かれた蝋燭一本に照らし出された顔は、来世の幸せを願う必死なものだった。
後年、浄土真宗から邪教と呼ばれた親鸞の子善鸞の密教の母体がこの頃産声を上げ、飢えに苦しむ農民達に信仰されていた。
鎌倉時代の民衆と言えば、ほとんどが荘園の中に住む農民であり、荘園では武士達が多くの農民を支配し年貢を取立て雑用をやらせた。
名主達は所有する田の一部は自分で耕したが、それ以外は小作地として他の農民に耕させ、地代(借地の代金)を取り立てた。
農民達は収穫米の四割を年貢として荘園の支配者に差し出す。
時には五割、またそれ以上の年貢を強要される事もあった。
長雨が続き作物は枯れ果て、下層農民の困窮など知っても彼らの搾取は止まらない。
その為、餓死寸前の農民達は抄いを求めて密教に入信する。
中央政権から遠いこの奥州の地で、それは比較的盛んな物になった。
巌鷲山(岩手山)の麓のこの洞窟には、日夜抄いを求めて農民が集まってくるのである。
一人の男がふいに声を上げた。
「痛てぇ!」何事かと全員がその男に注目する。
男が驚愕の目で自分の肩を見ていた。
そこに親指ほどの虫がとまっていて、大きさ以外はどこからどう見ても「蚊」である。
それはとてつもなく大きく、その腹は血を吸ってどんどん赤くなっていく。
慌てて男はその巨大な蚊を払落し踏みつけた。
大きな血のしみが地面に広がる。
「どでんしたな!」(びっくりしたな)
「なんでぇ馬鹿でっけぇ蚊じゃねぇか!」
「与兵衛、肩から血が出てっと!」
「だ~いじょうぶだぁ」与兵衛は自分の肩をさすりながら言った。
「はっかはっかすたな~」(どきどきしたな)
「おめぇのかっすかすの血さぁ吸っても、腹は満たねぇべ」
孫七という男が冗談交じりに言うと皆が笑った。
「しかしぃ、むっためがす拝んだど一向に楽にはなんね」
(しかし一生懸命拝んだけど、いっこうに楽にはならないね)
「こんなぁ薄気味悪りぃ蚊さぁ襲われるしぃなんだべな~」
「そうそう、昨日さ地揺れもな」
「あのずぎの地震はどでんしたなぁ」(あの時の地震はびっくりしたね)
皆が少しづつ落ち着いてきた時、今まで自分達の念仏の声で聞こえなかった低い「ぶ~ん」という音が、彼らの周りからしているのに気が付いた。
恐る恐る洞窟内を見渡す。
薄暗い蝋燭一本の灯りに照らし出された洞窟内に、巨大な蚊の大群が飛んでいた。
そこにいた全員が恐怖のあまり叫んだ。
「うわぁああああっ!」皆が洞窟の出口に向かって駆け出したが、孫七が転んで頭を打ったのに気が付いた者はいなかった。
洞窟から駆け出して暫く走った後、息を整えるため皆が集まる。
「はぁはぁはぁ……もう大丈夫じゃろ。どでんしたな!」
「あれぁ!孫七どんがいねぇ!」
「まさかまだあそこにいるんじゃなかろうな」
嫌な空気が流れる。
「よ~く考えてみればぁ、いくら大きくても、蚊じゃろう。現に与兵衛は一匹殺してる。そんなに恐れる必要はなかったんじゃ」
「んだな」
「皆で松明持って、近づいて来る奴を片っ端から燃やしちめぇばいいだ」
「そうだそうだ。洞窟に戻るべ」
洞窟に戻って彼らが目にした物は……。
体中の血をほとんど吸われ、しわしわになって息絶えていた孫七の姿だった。