狂気
森を馬で行く盛春の周りには、山萩やクサギが可愛い紫色の花を咲かし、
微かにゴマの香りが漂っている。
早朝出発し、馬を走らせ原始の森を抜け昼前には目的地に着いた。
盛春は荘厳な滝の前に立ち、水浅葱色に染まる滝壺で水花火を上げ流れ落ちる姿を見上げた。
ここは馬蛭岳の沢にある比較的大きな滝で、流れ落ちる中ほどの場所に人が立って入れるほどの暗い洞窟がある。
その昔、この洞穴から這い出した鬼が夜な夜な村を徘徊し、村人を襲い喰ってしまったという言い伝えが残る曰くつきの洞窟だった。
今も洞窟内には喰い散らかした人間の骨がばらまかれていると言われ、村人は恐れてここに近づこうとはしない。
この洞窟を探索し伝説の正体を解き明かせば民衆も、わしに一目おくだろう……。
民衆が恐れている洞窟に立ち入り、その深淵を調べてくれば、少なくとも配下の者や民衆からは尊敬を得る事が出来るし、こんなつまらない事でも名前が売れれば、民意を大切にする御館の目に留まり、出世の足掛かりになるかもしれない……。
出世の契機になればと考えた盛春は、秋の気配が強く立ち込めるこの滝に足を運んだのだった。
「ここで待っておれ」
郎党を下で待たせ一人岩をよじ登って行くと、少し汗ばんだ体を滝壺から吹き上がる濡れた風が心地よく嬲り、山を覆い尽くす紅葉と天高い鱗雲が盛春の鬱屈を忘れさせた。
晴天でなにひとつ不気味なものは感じられない。
むしろ心地よい程だ……。
どれほど不気味な洞窟で、勇気を振り絞って入らなければならないのか、と内心びくびくしていたが拍子抜けした感じだった。
洞窟の前で用意してきた松明に火をつけ、太刀を握りしめると洞窟内に入って行った。
入り口からすぐ横に折れるとそこはもう光の届かない暗闇だったが、松明の灯りが湿った洞窟内を照らし、滝の流れ落ちる音が彼を落ち着かせた。
想像以上に洞窟内は湿っていて足元はぬかるんでいる。
何回か足を滑らしたものの、半刻ほど進むと巨大な岩石が行く手を阻み、行き止まりになっていた。
岩石には比較的新しい注連縄が張ってあり、最近人がここまで来た事を示していた。
少しがっかりしながら暫くあちこちと目をやっていたが、松明の火に照らし出された岩石の上に、何かが置いてあるのに気が付いた。
火を近づけてみると、それは錆びついた装飾が施された鞘におさめられた反りの無い直刀だった。
すこし躊躇したが、手に取り封を切って一気に引き抜くと、青白い燐光に包まれた抜き身が現れる。
美しくさえ見える刃には錆び一つなく、幅広の刀身はずしりと彼の腕にのしかかった。
盛春は魅入られたように刀身を眺め続けたが、腕がしびれてきて我に返った。
俺がこの刀を持ち帰れば、この洞窟に分け入ったいい証拠になるだろう……。
そんな軽い気持ちで持ち帰る事にした。
手に持った刀は不思議と出口に近づくほど軽く感じられてきて足取りも軽くなる。
洞窟の外に出て沢に降りた盛春は、郎党へ朗らかに言った。
「大した事もなかったわ、拍子抜けじゃ」
彼は拾った刀を持ち郎党を連れ、目に映える紅葉の森を抜けて帰路についた。
彼が自宅に着いたのは夕方で、日が暮れる前に帰れて内心ほっとしていた。
盛春の手に持った見慣れない刀に、
「その御刀はどうされたのですか?」と留守居の郎党、鷲塚三郎が聞いてきた。
それには答えずにやりと盛春は笑う。
そのかつて見た事のない主の笑い方に、鷲塚は何やらうすら寒さを感じたものだった。
盛春は機嫌がよかった。
なぜか気分がいい……。
全ての事が上手くいくような気がする。
運ばせた酒をやっていると、更にいい気分になってきた。
そんな盛春がかわらけ(酒杯)を傾けた時、妻が気の強い顔にしかめっ面で彼の部屋に入って来た。
妻はこの平泉でも名家の出で、藤原一門に連なる血筋だ。
彼女はこのしがない舘平家に嫁いで来た事が不服であり、それを隠そうともしない。
「今日はどちらへお出かけになられましたのか?」
「どこでもよかろう……」一口酒を呑んだ。
「どこへなりともお出かけになるのは構いませぬが、する事はして頂かなければ困ります。」
「何だする事とは?」
「もうお忘れですか?挨拶廻りにござりまする」いちいち癇に障る言い方をする。
妻は常々出世をするため、暇を見つけては藤原名家を回って歩き、ご機嫌伺いをしろと言う。
「この私が仲介をいたしまするゆえ、ご案じ召されるな」
名門の出である自分が手紙を書き、土産の品揃えをするから安心しろと言う。
良い気分が冷めきた盛春は、
「もうよい、明日にせよ」と話を終わらせようとしたが
「いいえなりません。今日こそは言わせて頂きます」
背筋を伸ばし一呼吸あけてから、
「そもそもこの私が嫁いで来たにもかかわらず、あなた様の役職はつまらないものばかり!これはご自身に問題があるのではありませぬか?」
煩わしさから、いらいらしてきた盛春はカッとして大声を上げた。
「黙れ!この部屋から出ていけ!」
普段妻に頭の上がらない彼には珍しい事である。
妻も少し驚いたものの一歩も退かない。
「いいえ、あなた様のお考えを改めて頂けるまで出ては行きませぬ」
彼の視線をそらす事なく、きつい目で真正面から睨み返してくる。
日が暮れ薄暗い部屋の中で、燭台の灯が揺らめいている。
何故わしはこのような肩身の狭い思いをしなければならないのか?
日々汗水垂らして働いて、たまの休みに遠出をしただけでこのように言われる……。
わしはこのような不遇をいつまで堪えればいいのだ……。
彼の中に不気味な何かが膨らんでいく。
「聞いておられますのか?」妻はこの舘平家は自分でもっていると言わんばかりだ。
この女との間に二男二女をもうけた……。
今は隣の部屋で寝ている筈だ……。
そんなものは関係ない。
今はただこの女が煩わしい……。
腸が煮えくりかえりそうだ。
夫を敬う事もせず、己の気持ちのみぶつけてくる……。
その時、彼の中に声が響いた。
殺してしまえ……この女さえいなければよいのだ……。
激怒していてもさすがにそこまでは出来なかった。
そこで怒りを鎮めるため、彼自身がこの部屋を出て行こうと立ち上がり歩きかけた。
その彼の水干の裾を握って妻が言った。
「逃げるのですか!」
瞬間逆上した彼は、手にしていた拾ってきた刀を引き抜きざま妻に浴びせかけた。
脇腹から内臓が飛び出し、血飛沫を上げている。
口をぱくぱくとさせた後、倒れ伏した。
不気味な静寂に部屋は包まれたが……盛春は自分でも全く意識していない行動に出た。
小刀を取り出すと、妻であった物の背に突き刺し切り裂く。
そこに手を突っ込むと肝の臓を取り出した。
まだ湯気が立っている……。
「これが旨いのだ……」にたりと笑った。
もちろん彼は人の肝臓どころか、動物の肝臓さえ食した事などない。
そんな事を疑問に思う事すら忘れたかのように、その肝臓に喰らいついた。
うまい……舌の上でとろけるようじゃ……。
恍惚とむさぼり、喰い終わると彼の脳裏に過るものがあった。
「童の肝の臓はさぞかし旨かろう……」にたりと笑う。
隣の部屋の異常を感じた長女が覗き見て悲鳴をあげた。
盛春は何も考えていなかった。
突き動かされるかの如く、必死に逃げる娘を追い立てる。
首を刎ねると板間をはねるかのように転がり、悲鳴を聞いて飛び起きた子供達を次々と斬り殺していった。
皆殺しの静寂の戻った後、淡々と殺した子供達の肝臓を取り出してはそれを喰らう。
恍惚の表情で天を仰ぐように喰い終わった時、血が滴る刀身の青白い燐光が輝きを増していく。
盛春は体がとてつもなく熱く、張り裂けるような激痛を感じ大きく吠えた。
「がっ!ががっ!ぁぁあああっがっがっが!」
その時、大地が呻くが如く地の底から地鳴りがし、突然大きく揺れ始めた。
母屋の柱は悲鳴をあげ軋み、ばらばらと天井から何かが落ちてくる。
すさまじぃ音と共に梁が折れ、天井そのものが落ちた。
大地が鳴動し大きな地震が平泉を襲う。
揺れは暫くの間続き、家屋の軋む音や木々のざわめきが収まるまでかなりの時間を要した。
駆けつけた郎党の鷲塚三郎は、倒壊した母屋に立ち尽くす盛春を見つけて声をかけた。
「お怪我はございませぬか?」
近づき、ぎょっとした。
盛春の体が頭一つ大きくなっている。
しかし盛春に違いなかった。
「大事ない……」
振り向き、にやりと笑った盛春の口から顎にかけて血がべっとりついている。
得体の知れない不気味さから、なにも言えなくなってしまった鷲塚は後退った。
地震の直前に聞いた巨獣のものとしか思えない咆哮は、主のものだったのではないか?
いや……そんな筈はない……。
無理やり自分に言い聞かせた。
洞窟では……。
盛春に刀を持ち去られた巨岩が大きな揺れの中、鈍い大きな音と共に二つに割れた。
まるで意志ある者の如く、巨岩が内より割れたように見える。割れたのだ。
その割れた隙間から、青白い燐光が幾つも漂い出てくる……。
洞窟内は冷たい空気が流れ、霞みがかかった。
暫く揺れていた大地は少しづつ静けさを取り戻していったが、冬を前にした森の深淵はどこか不気味なものに変じていた。