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鬼の眷属  作者: 上泉護
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アトゥイ

狼はその巨体を岩陰に潜ませ、三人が来るのを待ち構えていたのだ。

疾風のように海竣へ突っ込んだ!

「ぬっ!」

カラスも狼も、明らかに山伏の存在を知っている。

その脅威をまずは片付けんと、最初に海竣へと襲いかかった。

海竣は咄嗟に錫杖で身を庇うと、その錫杖に牙をたて海竣を吹き飛ばす。

狼は首を振り遠くへ錫杖を放ると、錫杖は七間下の岩場に音を立てて転がっていく。

「あいつだ!」アトゥイが叫ぶ。

急いで身を起こそうとした海竣に狼が襲いかかり、狼の爪が海竣の体に喰い込まんとした瞬間!

狼の頭に拳大の石が「ゴツンッ」と当った。

「グルルルルルル……」

狼は立ち止まり振り返える。

投げたのはイカエラだ。

イカエラは小刀を右手で逆手に持ち、柄の尻を左手で押さえるような構えをしている。

大きく足を広げ身を沈め、下から体ごと突き上げ、必殺の一撃にしようとしている。

凄まじい気魄と迫力である。

その気魂は体から立ち上がるオーラのように狼には見えたかもしれない。

「グルルル……」

さすがの狼もイカエラに注意が向く。

その間に海竣は身を起こし、笈の中から短剣を取り出した。

狼は海竣から離れ、じりじりと前に出るイカエラを中心に円を描き抜き足で移動する。

海竣が狼に向って駆け出す!

イカエラも突進した。

すると狼は一丈も跳躍し二人の包囲を飛び越えたではないか!

たたらを踏む海竣がイカエラの背後に降り立った狼を目で追う。

振り返るイカエラの背に狼は頭突きをかまし、イカエラの巨体が岩場の斜面を転がった。

海竣は笈を盾のように左手で持ち、験力(げんりき)を込めた短剣を構える。


この狼の知恵は既に狼のそれではない……。

倒すべき優先順位を把握し、必要最低限の行動で海竣に向き合ったのだ。

海竣の頬を冷たい汗が流れ、狼の中の氣が膨らんでいく。

狼の中の”氣”が膨らんでいく。

巨大な圧が海竣にぶつかって来る。

「ガァァアアッ! ガッ! ガッ!」

狼の口が裂け大きく拡がり、牙が突出し爪が伸び、目尻が裂け眼球が飛び出し、全身に血を纏いながら巨大化していく!

「ごぉあああああああっ!」

狼は海竣の笈と短剣を凄まじい力で弾き飛ばす!

海竣は狼の速さになす術がない。

胸まで吞み込めるるほど広がった口で、海竣に喰いつこうとしたその時!

錫杖を両手で握りしめたアトゥイが狼に突っ込んだ。

「うぁああああああっ!」

狼が海竣に喰らいつく瞬間! アトゥイが狼の体に錫杖を突き立てる!

狼の巨体がアトゥイの上にのしかかって動きを止めた。


イカエラと海竣は驚愕した……。

狼の背中から突き出した錫杖は、血にまみれ輝いている。

「アトゥイ!」イカエラが絶叫した。

錫杖はアトゥイの腹部も貫き岩に食い込み、上になった狼の心臓を見事貫いていた。

「アトゥイ!」

アトゥイは狼と己の血で血まみれになりながら、錫杖を両手で握っていた。

「ミ……チ、ぼくは、ラメ……トクある……男にな……れたかな?」

「とうの昔になっておる! ラメトクある息子よ!」

「み……んなの……役にた……てたかな?」

ゴフッと大量の血がアトゥイの口から噴き出した。


「アトゥイ! アトゥイ!!」


アトゥイはこと切れた。

アトゥイから苦悶の表情が消え、死の静謐が訪れる。

この父の息子である事に……皆を守る事に、それほどまでに責任を感じていたのか……。

不憫であり哀れであった。

がっくりと肩を落とすイカエラの後ろで、悲痛な顔で海竣は呆然としていた。


なぜ自分を助けるために命を懸けた?……そこまで親しい間柄でもなかった筈だ……不器用なほど真っ直ぐで清らかな小童だった……まだ幼い彼が、何故死なねばならなかったのか……命を救われた己の使命は、一刻も早くこの現状を高野山に知らせに戻る事だ。

そのために……この小童は命を投げうってまで、この自分を救ってくれたのだ。

悲しんでいる時間はない。

心を鬼にしてイカエラの肩に手を置いた。

「すまぬ……我は我のやり方でアトゥイを弔ってやりたい……気に食わないかもしれぬが許してくれ」

イカエラは呆然としている。

海竣はアトゥイに向って手を合わせ、般若心経(はんにゃしんきょう)を唱え始めた。

イカエラも海竣の気持ちは分かっている。

般若心経の不思議な調(しら)べに、悲しみの心と耳を傾けた。

「摩訶般若波羅蜜多心経……観自在菩薩行深般若波羅密多時照見五蘊……」

海竣の読経(どきょう)は、低く巌鷲山の山肌をなでていくようだ。

二百六十二文字の呪文、般若心経。

その終盤、原典のサンスクリットの読みがそのまま生かされている部分……。

「ギャーテーギャーテーハーラーギャーテーハーラーソーギャーテーボージーソワカ……」

その呪文を唱えた直後、異変が起きた。

死んでいる筈のアトゥイが暴れはじめたのだ。

顔は穏やかなままだが、体だけがバタバタと動き出した。

「これは?……」

イカエラも海竣も凍りつく。

「狼の内に憑りついた鬼がアトゥイに乗り移っている!」

魔物を退けると言う般若心経の呪文に鬼が苦しんでいるのだ。

海竣は暴れるアトゥイに馬乗りになると短剣を抜き、

「許せアトゥイ!」と首を掻こうとした。

その刹那、イカエラが海竣を羽交い絞めにして抑える。

「イカエラ! 鬼に憑りつかれたらもう元には戻らぬ! アトゥイは死んだのだ!」

父親の気持ちは痛いほど分かる。

それを推してでも鬼を封じ込めねばならない。

「頼む待ってくれ! 息子の命を絶つなら俺がやる!」

海竣には分からない言葉ではあったが、およそ何を言ったのか察するには十分だった。

静かに海竣は立ち上がる。

それに代わりイカエラがアトゥイに馬乗りになり小刀を抜いた。

今は静かに横たわり、弱々しく息をしているアトゥイの首を掻こうと両手で小刀を持ち、踏ん切りのつかぬ気持を奮い立たせて勢いをつけた……。

が、イカエラの顔から汗が滴り、微動だにしない。

海竣は悲しそうな顔で後ろから見ていたが、

「やはり私がやろう」とイカエラの肩に手を置いた。

するとイカエラは振り返り、

「頼む。私に預からせてくれ! アトゥイが蘇生し鬼の兆候が現れれば、必ずこの手で始末をつける!」

悲しそうに海竣はイカエラを見つめる。

「責任は俺が持つ! だから頼む! 万が一の可能性を試させてくれ!」

言葉は通じずとも、何を言っているかなど痛いほど分かった。

海竣は暫しの沈黙の後、

「分かった……アトゥイの手当をしよう……」

二人は狼の巨体を横にすると、アトゥイを引きずり出し錫杖を引き抜いた。

アトゥイの腹部に大きな穴が空き、血が流れ出す。

小柄なアトゥイの胴をぐるぐると布で巻いて止血しながら、弱々しく息をしているアトゥイを見ながらイカエラは決意した。


アトゥイは死なせぬ! 鬼などにさせぬ!



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