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鬼の眷属  作者: 上泉護
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序章

蒼空に大きな雲が流れ、見渡す限りの湿原に冷たく心地のいいレラ(風)が吹いている。

レラには若草の臭いが溶け込んでいて、遠いひばりの声が春の訪れを感じさせた。

その(あし)が繁茂する湿原に、小童(しょうどう)が膝まで清流に浸し立ち尽くしている。

小童は口に広がる苦い味を噛みしめ湿原に目を凝らすが、サロルンカムイ(湿原の神とされるタンチョウ)は北の大地に飛び去り姿を見る事は出来なかった。

雪解け水が入り込んだ清流の水は冷たく、体を芯から凍えさせる。

遠い幻想となってしまった優しき日々に別れを告げ、小童は歩き出した。


その半年前・・・・・・。


夕陽がウパシ(雪)を冠するイタタニヌプリ(真昼岳)に沈んでいく。

小童が暮らしていたポンコタン(小さな集落)では、夜のイペ(食事)の炊煙があちこちのチセ(竪穴式住居の家)から夕陽の空へ上がっていた。

水はけのいい高台に少し地面が盛り上がった(こぶ)のようなチセが、身を寄せ合うように点在している。

チセの小さな入り口から中へ入ると、床は二尺ほど掘り下げられた地面で

アペ(火)を絶やす事のない焚き火が中央にある。

地面には(かや)が敷き詰められ、その上に毛皮を敷きいかにも暖かそうだ。

これらのチセは萱や葦で作られていて一見風が入り込んで寒そうに見えるが、

萱の壁の厚さは約三寸もあり、空気をたっぷり含み外の冷気を防いでくれた。

クンネチュプ(月)が煌々(こうこう)とポンコタンを照らし始め、風もなく静かな夜の(とばり)が下りる。

その夜も焚き火のアペでチセの中は暖かかった。

チセの中は(さば)いて干した鮭が吊るされていて、いい匂いがする。

小童の母と姉は明るい内にニセウ(どんぐり)を潰し、中の実を出し炉のシュー(土鍋:擦文土器)で煮込んでいた。

ニセウはそのままでは灰汁(あく)が強すぎるので、

灰を入れて灰汁抜きをした物を()ねて平板状にする。

保存食として乾燥させる物は穴をあけ(ひも)を通しつるし、

晩のご飯となる物は団子状にして焚き火でかるく炙り食べた。

現代人が食すれば「なぜこんな物を食べなければならないのか?」と思うかもしれない。

しかし当時は如何(いか)にして食べられる状態にするかが重要であり、味や栄養は二の次なのだ。

どれほ食糧が貴重な物であったのか窺い知る事が出来る。

小童とミチ(父)が狩りから戻りミチが獲物のユク(鹿)を捌いていた時、血の苦手な小童が少し離れた場所で見ているのへ、姉のヌマテがしかりつけた。

「アトゥイ!もっと近くで見て、ミチに捌き方を教えてもらいなさい!」

そんな時アトゥイは嫌そうな顔をして、

「ちゃんと見てるよ」と小声で言ったものだ。

アトゥイはどこか異国めいていて女性を魅了する端正な顔立ちをしている。

父方のエカシ(祖父)のエカシはレプンクル(沖の人・外国人)だったという。

陸奥むつ(青森県)の浜に漂着し、流れ流れてこの地まで来たらしい。

ミチのイカエラは青い目に六尺を優に超す大男で、

先祖返りしたのだと言われた人だ。

しかしアトゥイは小柄で華奢な母親に似ている。

アトゥイはミチのように強い男になりたかったが、意に反して彼の体は大きくなってくれない。

ポンコタンの人々は、アトゥイにイカエラのような皆を守ってくれるラメトク(勇気)ある男になってくれる事を願っていた。

その期待を嫌と言うほど感じていたアトゥイは、それが自分に課せられた責務のように思っていたが、成長するにつれ自分には無理なのだと(さと)らされつつあった。

それに引き替え姉のヌマテは、大きな体とがっしりした骨格も父親似で、

事ある(ごと)に体の弱いアトゥイを鍛えようとした。

それはアトゥイにとって重荷でしかなかった。

鹿を捌くイカエラの(たくま)しく大きな体は生命力に満ち

熊の毛皮のアミプ(着物)は彼をひぐまのように見せる。

「まったく、私が男であんたが女だったら良かったのよ!」

姉の容赦ない言葉に黙ってしまったアトゥイに、ミチが優しく言った。

「じき慣れる。お前はお前のままでよい。ワリウネクル(人間を作った神)はお前をお前たらしめる。そのままで良いのだ。無理に急ぐ必要はない」

「ミチはアトゥイに甘すぎる! このままでは立派な男になれない!」

「お前もそのままで良い。アトゥイを導くのだ。よいな」

にっこり笑ったイカエラが、一見筋の通らないと思われる事を言うと、

「ミチの言う事は分からない!」ヌマテはふてくされる。

「それで良いのだ」

ヌマテも村人同様父を尊敬していたので、ふてくされながらも言葉の意味を考えたが、よく分からなかった。

捌いた鹿肉をポンコタン全てのチセに御裾分けした後、最低限のニセウと鹿肉を焚き火で炙り、メトトゥシカムイ(山の神)に感謝し家族一緒に食べた。

フチ(祖母)はあまり語らなかったが、にこにこと人の話を聞いている。

ヌマテがほとんど一人でしゃべっていた。

「今日ニセウを拾ってた時、不思議な物を見たの……青白く光る玉がフラフラと森の奥に漂って行ったわ」

「それはアフンルパル(冥界の入り口)から彷徨(さまよ)い出たポクナモシリ(冥界)の住人と言われている」とフチ。

「ハポ(母)も幼き頃見た事がある」母のハエプトが言った。

「その昔、オキクルミ(英雄神)がクトゥネシリカ(虎杖丸・名刀)でアフンルパルを塞ぎ、ポクナモシリに閉じ込めたのだという」とフチ。

「しかし体の小さな者は隙間から出てきてしまうのだそうだ。力の弱い者だからウェン(害)はない」

「でも私は苦手よ。不気味だもん」とヌマテ

するとミチが

「お前なら大丈夫だ。あちら側から避けて通るだろう」

「どういう意味?」

「はっはっはははははは」

ヌマテを除く四人が笑った。

それにつられてヌマテも笑い、それが収まるとアトゥイに言った。

「あんたまた森で怪我したイセポ(うさぎ)を助けたんですってね、アリクシが言ってたわ。イペ(食糧)になるじゃないの。なんで持ち帰らなかったの?」

「弱って可哀そうだったんだ……」

「もうポンペ(幼児)じゃないんだから、しっかりしなさい!」

決めつけるように言うヌマテに、

「メトトゥシカムイは卑怯な事をお嫌いになる。それでいいのよ」

微笑み優しく言うハエプトにアトゥイは、はにかむように笑い返すだけだった。

「もぅ! ミチもハポもアトゥイに甘すぎる!」

家族が焚き火を囲み、今日一日起こった事を話す。

チセの中は焚き火で暖かく快適だった。


参考文献:知里幸恵物語 金治直美著 PHP研究所

     聞き書 アイヌの食事  農山漁村文化協会

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