その一
『こないなところでどないしはったん?』
――誰かに声をかけられた気がする。…いや、きっと気のせいだろう。誰も私の存在には気がつかない・・・きっと私じゃない、他の誰かに声をかけたのだろう。気のせい・・・
『あのぉ〜・・・』
――気のせい・・・?
ゆっくりと顔を上げてみる。下のほうからゆっくりと上へ目線をやる。・・・女が一人、こちらを伺うように立っていた。少女の着るような紅い着物にかかる黒髪を掻き揚げながら。
『え・・・?』
『だから、どないしはったん?』
にっこり笑いながら繰り返す。
『何ぞ悩み事かえ?よかったら私に話してみぃひん?』
夕暮れの橋の堀、女が二人、誰にも気付かれずにいた。
『なんで・・・』
――私が見えるの・・・?
『・・・まぁ、見たトコお仲間みたいやし。話すだけでも気ぃ晴れるやろ。まぁ、他になぁんもできんけぇどなぁ。』
カラカラと笑いながら女は言った。
―何がそんなに可笑しいのだろう。…私?私が誰にも気付かれないことがそんなに可笑しいいの?なんで?私は悪くないのに。全部あいつが…
怒りが込み上げてくる。
『――っふざけないでよ!私が何をしたってのよ。なんであんたなんかに笑われないといけないのよ!』
気がつけば罵声を浴びせていた。
きっ、と睨み付ける。女の顔は変わらず笑っていた。…違う。眼だけは笑っていない。
轟。
一陣の風が吹いた。
はっ、と我に返る。
―違う。そんなことが言いたいんじゃ…。
『…あ、私、私、…』
――話したいのに、声が出ない…さっきまであんなに怒鳴っていたのに…かわりにでてくるのは…
座っている女は泣き出してしまった。…いつまで経っても泣き止む様子は無い。
先程まで笑っていた女は、はぁ、とため息をつく。
『…こらあかんわ。』
そして屈み、低く、優しい声で続ける。
『ええか?落ち着いた頃にまた来たるさかいに、変な気ぃ起こしたらあかんよ?・・・ん?』
女の視線が、泣いている女の周りに行く。葦だった。女は横目でそれを見ながら、思い出したように言った
『葦…かぁ。知ったはる?葦の葉は神さんの懐の尺度を現してるんやて。…って聞いてへんかぁ。ほななぁ。』
また来るわぁ、と女は立ち去っていった。
「あ、お母ちゃん。どこ行っとったん?」
少女が母と呼ぶのは先程の紅い着物の女だった。何故か巫女風のいでたちの可愛らしい少女だった。
それにしてもこの年頃の少女に母と呼ばれるには女はまだ若くみえた。
あんましうろちょろせんといて、と少女が困り顔で続ける。
『あぁ、ちょっとなぁ、向こうの橋の下にお仲間が居ったんでなぁ、無害そやし、話ぐらい聞いたげよと思たんやけどなぁ。泣くばっかでなぁ。しばらくして落ち着かんと無理そうやわぁ。また来るわぁとは言うたんやけどなぁ。』
思い出し、ふう、とため息をつく。
「…ふ〜ん。またお母ちゃんがいらんことしたんとちゃうん?」
疑うような眼差しで母を見上げる。
『そ、そんなわけないやろ?』
声が裏返った。
―わが子ながら鋭いっ―
「あ、そんなんよりな、この辺で二、三日前に、人殺しがあったんやて。物騒やわぁ〜。でなでな、さっき聞いたんやけどな―…」
突然話題を変える。娘はかなり自由な性格なようだ。
またこの子は・・・と、三度目のため息をついて続ける。
『あんましそんな事に興味持ったらあかんて、いつも言うとるやろ』
先ほどまでとはうって変わって女は母親らしい顔で娘を諭す。
「せやけどぉ…」
『そんな血生臭い話しとったらまた夢に見るで。さ、早いトコ泊まる宿探さな。早よ行くで。』
「・・・けち」
『・・・聞こえてんで』