剥製屋事件簿その四<人殺しは見れば分かる>
七月になり街は連日真夏日だというが、神流剥製工房のある谷はまだ朝夕は涼しい。
日中でもクーラーはまだ必要ない。
神流聖は、週に一度、車で三十分のスーパーに行く以外、ずっと工房にこもって働いていた。
完成した作品はスーパーから宅急便で送るので、他に出かける用事は無かった。
つまり六月に山田工務店に行ってから、スーパー以外にどこにも出かけない、そんな暮らしだった。
「にいちゃん、ちょっと助けてえや。人殺しは見たらわかるんやろ、殺人事件かもしらんねん」
セキセイインコにガラスの目を入れる、繊細な作業に没頭しているときに、
山田鈴子から電話が掛かってきた。
多すぎる報酬を貰っただけでなく、死に神が見える、似たような厄介な性分の人として、助けを乞われて断れない。
「あんな、うちの持ってるアパートの住人が消えたんや。
夜逃げと違う。家賃は滞って無かった。
部屋の明かりは付いてるし、ノートパソコンも起動したままや。そんで消えてん。
免許証も、いつも持ち歩いてたらしい鞄も残ってるねん」
居なくなったのは三十代の男だという。
実家の母親が、携帯に電話しても出ないので心配して確認を頼んだらしい。
部屋の明かりはついているがノックしても応答が無い。鈴子は合い鍵で部屋に入った。
「なんとか号事件ってあったやんか、まさにそんな感じや。さっきまで人がいた気配があるのに人だけが消えたんや」
警察に届けるのだが、その前に、今夜アパートの他の住民に一応聞いてみる、それに付き合って欲しい。謝礼は十万、という。
アパートの住民を疑っているのか? 思うままに聞いてみた。
鈴子は、いなくなった男はアパートから出ていないはずだと繰り返す。
なぜなら、アパートの近くに建っている家の犬、熊のような大きな犬が、何故か暫く前から、その男にだけ異様に吠えていた。
それが一週間前から一度も吠えていないからだと説明する。
「熊のような犬ですか。それって、チャウチャウですか」
聖は性分なのか、犬が気に掛かる。
「いや、そういう有名な犬ちゃうで。雑種や。大きくてモコモコしてて熊みたいに可愛らしい犬や。
おとなしい滅多に吠えへん犬なんや。何が知らんけど、少し前から、その男にだけ、吠えてたんや」
その犬に会いたくなった。
大型犬の雑種は珍しい。会ってみたい。
「車で来るんやったら、うちの地下に止めてや。アパートまではこっちの車で行くからな」
午後七時と一方的に指定された。
遅れることなく、聖は山田工務店の一階の応接室に居た。
鈴子はまず、
「まだ、アトピー治ってないんやな」
と聖の左手の手袋を見ていった。
「ええ、薬品使うんで、どうしても荒れるんです」
と誤魔化した。
鈴子には自分は人殺しが見ればわかるが、それは人殺しの手が殺した人の手にみえるとか、お産で死んだ母親の手に、左手が見えるとか、詳細は話していない。
「にいちゃん、八時に行くわ。なるべく皆が揃ってる時間がええからな。終わりはわからんから、先に食べといて」
テーブルの上には出前の寿司が用意してあった。
初めて見る眼鏡をかけた男がお茶を運んでくれる。黒髪でビジネススーツの堅気の雰囲気だった。
そして、多分、気を遣ってテレビをつけて行った。
寿司のマグロはトロで生のカニもある。
また思いがけないごちそうだった。遠慮無く平らげた。
テレビは見たくない。勝手に消せないし、音だけ聞いていた。
動物の番組らしく、安心して途中から見た。コマーシャルになったら目を逸らす。
コマーシャルで手を見るのは怖い。確率は低いが一回きりで終わらないと思うと嫌だ。
さすがにメインの有名人に手を見たことは無いが、エキストラレベルに、前に見てしまった経験があった。
それはニュースで映った一般人のよりも感じがわるい。綺麗な家で美少女がピアノを弾いている、ありがちな団らんの超短い一コマで、父親の手が女の手だったことがある。
画像は鮮明で、そのうえアップ。耐えがたかった。
「にいちゃん、いこか」
丁度食べ終わったタイミングで鈴子が入ってきた。
やっぱり隠しカメラで見られているとしか思えない。油断ならない、と背筋を伸ばした。
黒いベンツ、がビルの前で待っていた。
運転席には、さっきの眼鏡の男が座っている。今日は金髪で白いスーツのはいないのかと、ちらっと思った。
「よお、混んでても三十分はかからんから。な、沢田はん、それでいけるやろ」
沢田という運転手は頷いた。
繁華街を抜け、中央環状線に入った。
大阪府北部の工業団地、夜には殺伐とした辺りをぬけて、古くからの住宅地へ車は入っていった。
道は細くなり街灯の数は減って、どんどん薄暗いほうへ行き、小さな墓地の駐車スペースに駐まった。
三角型の古くからあるらしい墓地だった。
墓地を囲むように築三十年以上の連棟二階建ての建て売り住宅が囲んでる。
「ここしか駐めるとこないんや」
つんと、ドブ川の臭いがした。
二十メートルほど建売住宅の間を行くと、庭に大きな木がある敷地の広い家があった。
大きな犬小屋が見える。中に犬の気配を感じた。
聖は口笛で呼んでみた。反応して体勢を変えるズズッという音がした。
出てきたのは小熊のような犬だった、
手足が短くて頭も身体も丸い。撫でてやるとゆっくり尾を振る。かなり高齢の人なつっこい雌犬だ。縄張り意識や攻撃心もない。
それが、どうして一人の男にだけ吠えたのか?
その家とスレート葺きの工場の間を入っていった袋小路にアパートがあった。
どぶ川の臭いがさっきより、きつい。腐敗臭と塩酸を混ぜたような鼻につく臭いだ。
アパートが、相当古いのは暗がりでも分かった。
廊下も柵も階段も、薄っぺらい鉄の板。街灯は一つ。黄色いぼんやりした明かりだった。小窓に明かりが、五つ見える。
「皆おるわ、良かった」
全部で八室。二階の二部屋と一階一部屋に明かりが付いていないのは空き屋だそうだ。
「問題の部屋は二階の右端や。まず、そこから見るわ」
205号室の明かりは付けたままだ。
玄関の左が三畳ほどの狭いダイニングで一人用のテーブルと椅子があり、そのテーブルの上に電気ポットとカップラーメンがあった。
「佐伯はんは、このラーメンを食べる用意して、そのあと消えたんや」
行方不明の男は佐伯慶三郎と言う、いかめしい名前だ。
室内に、聖の好きなシーフード味の、臭いが充満していた。
佐伯は、アパートから徒歩五分の距離にある駅前のレンタルビデオ屋で働いていた。
部屋の中は一人暮らしの男の部屋の割には、驚くほど、整然としていた。
ダイニング右が四畳半。大きめの座卓があり、ノートパソコンが載っている。
ガラスの大きな灰皿には吸い殻が二本。
横に、タバコとライターがあるのが妙な感じがした。出かけるなら持って出るだろう。
「メール調べたらな、七月四日、丁度一週間前の木曜や。十一時十分に来たメールは開けてるのに十一時五十分のは開けてないんや。親は土曜の朝に電話したけど出なかったと行っていた。金曜に実家に帰る予定やったらしいわ。帰ってこないし連絡も付かないから、心配して当然やろ」
奥は六畳の部屋だ。
右の壁一面は天井まで棚。下の方には衣類が畳んで入れられ、本、DVDファイル、ゲームがきちんと並べられている。
左は押し入れで椅子型脚立が邪魔な位置に置いてあった。その部屋の突き当たりがトイレと風呂場になっている。
去り際に、原稿、と書いた箱が棚の中にあるのを見た。
プリンとアウトされた映画が芝居の脚本らしきモノが入れてある。
「映画監督志望やったんや。この子は九州から大阪の大学に来た。十八からずっと此所におるんや」
このアパートは風呂付き文化住宅のはしりだったと鈴子はいう。
最初は子供連れの若夫婦が入っていた。
老朽化してからは家賃が安いので大学生が借りるようになった。
しかし数年前から大学に通う若者は減っていき、気がついたら老人とシングルマザーのアパートになっている、という。
「下からいこか。101号室や。ちゃんと、みてや」
鈴子は一階の左端のドアを指さした。
「大家です、ちょっと聞きたいことあって来ました」
インターホンなどないから木のドアをがんがん叩いた。
かなり高齢のお婆さんが出てきた。聖は安心して手を見た……が、なんと左手が綺麗な若い女の手だった。
「家賃でっしゃろ、すんまへんなあ、もう少し待ってくれなはれ」
酒臭い。白髪で赤い口紅を塗った顔を怖くて直視できない。
「家賃も欲しいけど、今日はちゃいますねん、二階の若い兄ちゃんの事です。奥さんなんか知ってはるやろか」
鈴子は一週間前から連絡が取れない、と話した。
「わては何もしてへんで、いやな、調べてわかるかもしらんから、先に言うけど、先週な、妙な言いがかりつけられたんや」
佐伯が、婆さんの猫が屋根裏に入り込んでいないかと聞いてきたという。
「大家さん、わて猫なんか飼ってないで。野良が時々廊下におるからな、年取ってるし可哀想やから、餌やったりはしたことあるけどな」
みゃあと玄関に、巨大な猫が出てきた。
アメリカンショートヘアで、ずいぶんな年だ。純血なら数十万と、聖は値踏みした。
野良なのか婆さん飼ってるのか知れないが、婆さんと猫に深い絆があるのはわかった。
「先週って、何曜日や?」
鈴子は行方不明の男が来たのは月曜か火曜だと聞き出した。
「おおきに、ゆっくりしてるとこわるかったなあ」
大きい声で最後を締めくくった。
101号室のドアが閉まった廊下では二つの扉が半開きでそれぞれの住民が顔を出していた。
こうなるように、わざと大声だったのだ。
鈴子は満足そうに微笑んで
「今晩わ。大家ですわ。夜分にゴメンな」
と声を掛けた。その後、早口で聖にだけ聞こえる声で、こう言った。
「今の婆さんは亭主の愛人殺して八年くらったんや。うちの父親がな、保護観察士で世話してたんや。兄ちゃん、わかったみたいやな。本物やな」
聖は「はい」と素直に返事していた。
最初に聖の力を試す試験があったのだ。
侮れない、怖い人だと改めて身を引き締めた。
隣の102号室は空き家で、103号室は若い女だった。
黒髪をきちっと束ねて清楚な雰囲気の背の高い引き締まった身体で、顔立ちもしゃべり方も淡泊だ。
「出てこなくていいいよ」と子供に言っているが、既に可愛らしい三才くらいの女の子がパジャマ姿で出てきた。
「たしか、レンタルビデオ屋で、引っ越してきた次の日に見たかな、十日前。同じアパートの人としらなかったのに、向こうが話しかけてきたんですよ」
室内に段ボール箱が積んであるのが見えた。
引っ越して間もないなら関係なさそうだし、手に人殺しの徴は無かった。
「看護師さんでな、子供は病院の中の保育園に預けてるねん。酒乱の旦那から逃げてきたんや」
と鈴子は初めから疑っていない風だった。
104号室は存在しない。端は105号室だ。
性別不明、生死すらはっきりしない白髪おかっぱ頭の人が出てきた。手に徴はない。
「上のにいちゃんなあ、暴れてはったなあ。壁を叩いてたみたいや。そうか、おらんようになったんか」
最後はにんまり笑っていた。手に徴は無かった。
2階は中二つが空き屋だった。
201号室はテレビの音が外にまで漏れていた。鈴子は何度もドアを叩いた。
四十代の、見るからにしんどそうな様子のかなり太った体型の女が出てきた。
細い眼のぼんやりした顔立ちで顔色が、どす黒い。
「行方不明? いつからですか?」
うっとうしそうな顔で出てきたのが、話を聞いて興味を持ったのか、質問してくる。
「私? 知ってる訳ないじゃないですか。一度も話したこともないですよ」
癖なのか喋っている間、歯肉の出た前歯を手で隠していた。
その手も、ずっと胸の前でもじもじ動かしてる手も問題はない。
「ママ、警察?」
男の子が出てきた。
母親に似ていない、色白で目元の綺麗な三年生くらいの男の子だ。
「ユウちゃん、残念でした、大家のおばちゃんや」
鈴子は馴染みがあるのか男の子の頭を撫でた。
「大家のオバちゃん、このカッコいいお兄さんは誰? 子供か」
と聖に笑顔を向ける。
「オバチャンは独身やで。旦那も子供もおらん。この兄ちゃんは彼氏や」
真実か冗談か、大人にも分からない調子で答えたのに、
「そうか、オバチャン子供いてないんか。寂しくないんか。老後が心配やろ」
と大人びた口調で聞いてくる。
「寂しいで。ユウちゃんのお母ちゃんは、こんな可愛い息子がいるから羨ましいで」
鈴子はしゃがんで男の子を抱きしめた。たしかに可愛い子だと聖は思った。
……だから、
その子の左手が、大きいのを見て、叫びそうな衝撃を受けた。
小指に金の指輪をはめている、
男の手だった。
「端の部屋のおっちゃんが居なくなったんや。ユウちゃん、誰かあの部屋にお客さん来たの見てないか」
男の子は腕を組んで、いかにも何か考えているリアクションのあと、
「そういえば、サングラスかけた黒い服着た人が二人来てたなあ」
と言う。
「ほんまかいな。ユウちゃん、今の話、警察にも言えるか?」
母親が、
「ユウキ、部屋に入っていったんか? それから? 出ていくのはみたの?」
問い詰めたので、ユウキは母親の方に返事をした。
「入ったとこしか見てない。けど車は見た。大家のおばちゃんの車に似てた」
「へっ? そうなん、ベンツか」
鈴子は言いながら何故か親子から視線をそらせた。
「危険な世界と関わってたんやろか。事件ってことはレポーターが来て、テレビに映ったり、インタビュー受けたりするんやろか」
母親は不安げに、誰に言うとも無く呟いた。
「ええーっ、僕テレビにでるの?どうしようかな、困っちゃうよ」
ユウキという男の子はちっとも困ってない。喜んでいる。
それが、もう見ていられないほど聖は恐ろしい。
「警察には連絡します。坊やは質問を受けると思うんで、そのつもりで居てください」
鈴子は事務的に告げてドアを閉め、アパートを出るように聖を促した。
階段の下に、聖の見知っている金髪で白いスーツの男が立っていた。鈴子は彼を此所に待機させているのかと、ちらりと思った。
頭の中は、今見た子供の手のことで混乱していた。
あんな子供が、何故?
鈴子は黙って聖の前を歩いて行く。
聖も黙って付いていく。
今にも人殺しが居たかと問われると身構えながら。
気が重い。黙ってようかと心が揺れる
鈴子は車へ行かずに墓地に入ってしゃがみ込んで、たばこを吸い出した。
金のオイルライターの炎は妙に長い。
それで、鈴子の震えている指がはっきり見えた。
「運転手に聞かせられへんからな。にいちゃん、死に神が憑いてるわ、おったわ。
ユウキ君の母親の後ろにおったで。元気そうに見えたけどなあ」
なんと、人殺しのある子の、母親の方が死ぬという。
聖はそれを聞いて、もはや黙ってられない。けど、言いにくい。
「あの、ユウキって子、よく知ってるんですか?」
「あの子か。アパートの契約の時に会っただけや。四ヶ月前、やった。人なつっこい子やろ。
ぼろアパートで家賃も敷金も安いから、訳ありが一時的に入ったりするんやけど。
あの母親、免許無い、保険証もない、住民票も十年前から移してない、身元を証明するモノを持ってなかった。そのうえ求職中や。
普通なら賃貸契約したくない素性やけど、子供が可哀想やと思ってな。
家が決まらなかったら小学校の転校手続きとかできないやろ。
それに万が一母子心中でもされたら寝覚めがわるい。
……つまり、あの子の母親が佐伯はんを殺してしもたんか?」
聖はまだ答えたくなかった
「もう1度、佐伯さんの部屋。205号室に行きませんか。出来ればパソコンの中身が見たいんです」
あの子が一人でやったと思えない。
母親が関係している筈だ。母親と佐伯の接点を見つけたい。
「兄ちゃんは何にも触りなや。うちは大家やし、親に頼まれてるからいいけどな」
鈴子はノートパソコンから直近からの作業を辿った。
「やらしい動画が出てきたで」
カメラは固定されている。隠し撮りだ。
男はカメラを意識して女の顔と身体を動かしている。
女はユウキの母親に間違いなかった。
骨太でたるんだ女の身体は、若い聖には正視に耐えがたい。
痩せて小柄な男の方が、襲われているように見える。
この男が佐伯だと鈴子は言った。
佐伯の左手の……小指に金の指輪を見た
ユウキが佐伯を殺したのは間違いない。
隠し撮りした動画はネット上に流していた形跡がある。
下劣な男だったらしい。
犬に吠えられて当然だと聖は思った。
「こんだけ深い仲やったら合い鍵くらい持ってるやろ。外で殺して、生きてるように偽装工作もできるで。痴情がらみにちがいないわ。警察が調べるやろ。ほっとこ。」
「そうですね……」
あの子の事は黙っていようと思った。
母親が真の犯人にちがいない。
あの子に手伝わせ、怪しい二人連れを見たと嘘の証言までさせたのだ。
許されない、卑劣な事だ。
でも、鈴子が死に神を見たと言うから、もうすぐ死んでしまうのか。どうやって死ぬんだろうか……
怖くてややこしい。
鈴子は玄関に向かったが台所を見やって足を止めた。
ものすごく何かを考えてる。
「兄ちゃん、さっき来たときカップラーメンあったな」
テーブルの上のカップラーメンが……。
「ありました。あ、今は、ない。無いですね」
「何のラーメンやった?」
「シーフード。俺のすきなやつ。いい臭いしてたし、って変ですよね?」
「失踪して一週間経つんや。いい臭いがするわけ無い。
それにな、うちが昨日来たときあったのはシーフードやなかったんや」
「ユウちゃんの母親が合い鍵で出入りしてる訳?」
「昨日と今晩の間に来たなら分かるよ。
けど、今うちらが話しに廻ってる間か、墓場で喋ってた間に来るか?
行方不明やと皆が知ってるのに、合い鍵で入ったりするか?」
「しないでしょうね。関係があったのを隠してましたから。
ここに入ってラーメン食べたりしないでしょうね」
そうなのだ。
誰かはラーメンを食べてから、空いたカップを……流しの下のゴミ箱に捨てていた。
「もしかして押し入れかどこかに隠れてるんじゃ無いでしょうか。
ラーメンを食べようとしたところに僕らが入ってきたから隠れた。
出ていったあと食べて、また入ってきたんで、また隠れたとか」
聖は自分で言いながら、誰かが近くに身を潜めて様子をうかがっている気配がして怖かった。
さっさとここから出ていこうとした。
でも鈴子は、そこらを物色しだしたかと思うと、
下駄箱の横に立てかけてある木の杖を掴むやいなや、押し入れや棚やらを叩き始めた。
「どこや、どこにおるんや、だれや、でてこんかい」
鈴子は勇敢な人だったのだ。
ふと、この部屋の男もこんな風に叫んでいた話を思い出した。
聖も勇気を出して、トイレ、風呂場、押し入れと、人が隠れられる場所をあらわにしていった。
けど、誰もいない。
「玄関通らずにこの部屋から出て行けるのは窓や。台所か、裏の風呂場か。けど内側から鍵掛かってんねん。そしたら残ってるのは……あそこしかないんや」
鈴子は脚立にのぼり袋戸棚を開けた。中は何も無い。
「天井裏ですか」
鈴子は杖でなにやらごそごそやって。
「そうや、板が外れてる」
「あ、俺、上がってみます」
聖は身体をねじ曲げ天井に空いた四角い穴に首を突っ込んで上ろうとした。
でもどうしてもつっかえて無理だ。
「もう止めとき、途中ではさまったらレスキュー呼ばなあかん」
鈴子の言う通りだ、
聖の身体では無理だ。
「佐伯はんは小柄で痩せてたから上れたかもしれんなあ……けどユウちゃんの母親は無理やで」
聖は自分の推理がまるで違ってるかもしれないと思った。
母親の方は、無関係かも知れない。
……鈴子に、佐伯を殺したのは子供の方だと打ち明けた。
鈴子はとても悲しそうな顔をした。
「それと」
聖はもう一つ嫌なことを打ち明けた。
「屋根裏に、哺乳類の、腐乱死体があると思います。臭いが、凄いです」
鈴子の通報でまず警察官二人が駆けつけた。
それから数台のパトカーとワゴン車やらが、けたたましいサイレンを鳴らして集まった。
行方不明の佐伯の遺体は、
このアパートの
2階の、空き家になってる部屋の天井裏にあると確認された。
天井を切らなければ動かせなかった。
電動のこぎりの音が深夜まで響き渡った。
鈴子は警察官と何かやりとりした後、「もう帰ろう」と聖に呟いた。
「警察から連絡あったら知らせる。そっちにあっても教えてや」
疲れた様子でそれだけ言って、車の中で眠ってしまった。
運転手がホテルに泊るように計らうと言ってくれた。
でもシロが待ってるから、帰りたい。
聖が山に帰ったのは夜明け前だった。
次の日、警察からも鈴子からも電話はなかった。
事件として報道されたのは翌朝になってからだ。
アパートの屋根裏に変死体、首を切られた跡、と見出しが出た。
ネット上では早速謎の事件として注目されているようだった。
聖には謎の大半は解けていた。
下の住人が普段は静かな彼が壁を叩いて暴れていたと言っていた。
一階のお婆さんは自分の猫が屋根裏に入ってると苦情を言われたと証言していた。
屋根裏にいたのはあの子だ。
あのユウキという男の子は、屋根裏をつたって、佐伯の部屋に自由に出入りしていたのだ。
佐伯は何者かが留守中に入りこんでることを疑ったから、異様に整理整頓していたのではないだろうか。
あの子は、屋根裏に包丁を持って上がってきた佐伯と揉み合いになり、
反撃して運悪く死なせたのだろう。
やるせない思いでいたら、さらにショックな報道がまっていた。
「同じアパートの住民が自殺しているのを家族が発見しました。この事件との関連性を調べています」
ユウキの母親にちがいない、と直感した。
鈴子はユウキの母親の背後に死に神の影を見たと言っていた。
見えていてもどうすることもできないと。
三日経って、鈴子から電話があった。
ユウキを一時的に引き取ったという。
自殺したのは、やはり、ユウキの母親だった。
「風呂場でな、包丁で首切ったんやて。二人も死んだらアパート全体が事故物件やで。また家賃下げなアカンわ」
殺したのは息子だと気がついて絶望したのか。
それとも、罪を被ったのか。
「あの子な、身寄りがないねん。調べたら、知らんかったけど、出生届も出てないし、学校に行ってなかったらしいわ。多分施設に行くんやけど、行き先が決まるまで、うちが預かってるねん、剥製屋の兄ちゃん、どうする? 来てみるか?」
あの子の、<人殺しの徴>を見たくなかった。
でも、(好奇心か責任感か乗りかかった船だからか)行かずにはいられなかった。
ユウキは真新しい上等そうな服を着ていた。
四階の豪華な応接室でポータブルのゲーム機で遊んでいる。
その姿を一目見て、聖は、どうしてだか、全身に鳥肌がたった。
「お兄ちゃん、やんか。会いたかったわ」
と人なつっこい。
母を亡くしたばかりの子供らしく俯く。
涙も出ていないのに両手を目に当てる。
……左手は、佐伯の手と、
もう一つ女の手が憑いていた。
この子は人殺しだとわかったとき、最初は母親の痴情に巻き込まれた被害者だと思った。
でも、この子は母親も殺したのだ。
何故、母親を殺したのか?
わからない。
母親に自殺を手伝わされたのか。
「大変だったね。かわいそうに」
おぞましさに吐き気がしたが、そう言うしか無かった。
「うん。お父さんがおれへん、ママだけやったのにママも死んじゃった。
今は大家のオバチャンがママや。今だけやけどな」
と言って、
また泣きそうな顔をするのだ。
「ずうっと、ここにいたいなあ。大家のオバチャン、大好きやねん」
ずっと、ここに?
「ずっと、ここに」
まるで聖にとりなして欲しいと言いたげに、ユウキは同じフレーズを繰り返した。
……鈴子がアイスコーヒと葡萄ジュースをトレイにのせて入ってきた。
「兄ちゃん、可哀想に今日も手袋してるんか」
あきらかに不審がってるのは分かった。
いっそ、正直に手のことを話したかったが,ユウキがいるのでやめた。
曖昧にうなずいて誤魔化した。
「なあ、ママ」
とユウキは言って、
すぐに
「ゴメン、また間違えてママって言うてしまった。ゴメンな。オバチャンはママと違うのになあ」
と媚びた目をして、鈴子に擦り寄った。
「ユウちゃん、オバチャンな、上の部屋にタバコ置いてきたわ。悪いけど取ってきてくれるか。金のライターも、そこらにあるから持ってきて」
鈴子はユウキを部屋から出すと、
「あの子の母親が、自殺に使った包丁が、佐伯殺しの凶器らしい。もとからあの子の家にあったもんや」
と、怖い話を切り出した。
凶器の包丁を手にしていたのは、佐伯ではなかった。
「指紋調べてるから、すぐに事実はわかるやろ。ほんで母親やけど、あの子が殺したんやろ?」
鈴子は確信を持って聞いてきた。
それを聞くために聖を呼んだのだ。
「……はい。残念だけど」
「やっぱりな。あんな可愛い顔してなあ。恐ろしい性分に生まれついたもんやで」
鈴子は、佐伯殺しにユウキの母親は関係していない、あの子一人でやった事。
その上に母親に罪を着せるために自殺に見せかけて殺したんだろう、と。
淡々と、事務連絡のように呟いた。
聖は、黙って深く、頷いた。
あんな可愛い子がと、まだどこかで否定したい思いはあったが。
「オバチャン、十二時やで。お腹すいたなあ」
ユウキが戻ってきた。
可愛らしい顔は、笑っている。
黒目がちのぱっちりした眼に赤い頬。
ふっくらして小さな唇はピンク。
満面の笑みには母を亡くした悲しみも、母を殺した罪悪感もない。
……宝くじに当たったような、顔だ。
この子は今、夢を見ている、
アパートでの貧乏暮らしから人生が一転するのだと信じ始めている。
佐伯を殺したのは、屋根裏ずたいに侵入して好き勝手していた悪事がバレたからだ。
母親を殺したのは、鈴子がいう通り罪をかぶせる為もあっただろうが、もっと恐ろしく単純な理由ではないだろうか?
鈴子の社交辞令を真に受けて、金持ちの大家が自分を子供にしたいと思っていると誤解したかもしれない。
……オバチャン子供いてないんか。寂しくないんか。老後が心配やろ。
……ユウちゃんのお母ちゃんは、こんな可愛い息子がいるから羨ましいで
もし母親がいなければ、この人が自分の母親になれるのにと……。
大人の男を殺したあとだ。母親を消す方法は知っていた。
「兄ちゃんも一緒に来んやろ? 百貨店のレストランでランチバイキングやで」
誘われたが辞退して腰を上げた。
ドアの外に、
金髪で、白いスーツのあの男が居た。
こうやって静かに鈴子の側に待機しているようだ。
男は聖に、丁重に頭を下げた。
明るい間に山に帰った。
嫌な事件を忘れたくて、気晴らしに始めたゲームの体験版が、怖かった。
……顔に包帯巻いた男の子が出てきて、恨み辛みを言いだした。
人殺しのユウキを連想して背中がぞっとして、楽しめない。
「何で、子供なんだよ」
大きな独り言に、シロが、ワンと答えた。
それが合図のように……背中に、久しぶりにマユを感じた。
マユは聖を尋ねてきて道に迷い、この山で息絶えた。
山の生き物に食い尽くされ、衣服と骨だけが山にある。
「疲れた? 」
と彼女は聞いてくる。
振り返っても姿は見えない。
聖は背中合わせになるように、マユの為に椅子を置く。
席があれば、おちついて居てくれる気がする。
マユは、聖の身に起こった出来事を話して欲しいと催促する。
聖はぽつりぽつりと、嫌な事件を語った。
「その子、可哀想だね」
マユの言葉に驚く。
聖はユウキが可哀想だと思っていない自分を知った。
「だって、学校に行ってなかったんでしょう? お母さんと二人だけで狭いアパートにいたんでしょ。それって、怖いくらい退屈なことよ。ふつうに学校行ってたら、屋根裏に入ったりもしなかったでしょう」
確かに、マユの言う通りだと聖は頷いた。
過酷な運命があの子をダークサイドに連れて行ってしまった、には違いない。
可哀想な境遇はあの子だけじゃ無い。
マユだって、生まれついての心臓の障害のせいで、家と病院しか知らなかった。そして……。
「自分の身体のことは分かってた。危険だと知ってた。それでも此所に来たかったの。自分の運命を自分で決めたんだから、可哀想じゃないのよ」
「そうか。あの子はまだ子供で分別がつかなかったから可哀想なんだ」
「そうよ」
マユの言葉は心に染みた。
若くして死んで、どうしてだか幽霊になって此所に来てくれる。
人殺しのユウキに同情してマユは涙ぐんでいる。
聖は、マユの悲しむ顔が辛い。
「うん、悪い、悪い、もうこの話は止めよう。なんか楽しい話しようか。たとえば、みたいモノあるんだったら、言って。動画でも映画でも」
パソコンのマウスに手をかける。
マユに、すこしでも楽しい時間を過ごして欲しい。
マユはちょっと考えて
「じゃあ、好きなミュージシャンがカバーしてる元歌を聴かせて。昔流行った歌らしいの」
リクエストどおり、昭和の歌手Jの動画を検索した。
名前は知っているが、歌は聞いた事は無い。
動画をみるのも初めてだった。それはマユも同じらしかった。
「綺麗ね」
マユが呟く。
Jは昭和の時代、美形の代名詞だったらしい。
聖は子供の時、村の年寄りにJに目元が似てると良く言われたのを思い出した。
マユに、そのつまらない自慢話してみる。
「うん、確かに目だけは似てるかも」
マユが笑ってくれた。それで心が和んだ。
聖は初めて知ったJなのに、なんだか、よく知っている感じがした。
「気のせいでしょ。Jって、最近まで、全盛期の画像を封印してたんだから」
じゃあ最近Jの動画をみたのかなと思った。
ちょっと考えて、それは無いと答えが出た。
マユがもっと見たいと言うから数多いヒット曲の動画をランダムに見ていった。
「ねえ、東洋人なのに白いスーツに金髪が似合うって、凄いよね」
聖は、そのコスチュームを見て、なぜ自分がJをよく知っているのか、気がついた。
今見ているJは、鈴子が連れていた金髪の男に似ているんだ。……見れば見るほど、そっくり、を通り越して、
「全く同じじゃないか」
呟いた独り言に、
「誰が、Jに似てるの?話してよ」
マユが興味深げに聞いてくる。
聖は金髪の男と初めて会ったのから順番に思い出して、マユに聞いて貰った。
雨の中、鈴子と一緒に来て
その次は鈴子の会社で見て、白木の車に乗っていった。
そしてアパートに待機していた。最後が、確か廊下にいたんだ。
「白木サンって誰?」
マユに聞かれて猫の剥製のこと、
事故に合ったけど軽症で済んだと説明しながら、あっ、と聖は悲鳴を上げた。
「おかしいよ、運転手は死んで、白木は助かった、じゃあ、あの金髪の男はどうなったんだ? 途中で降りたのか? そんな話オバサンは何にも言ってなかった」
「ね、よおく思い出して。他の時でも、鈴子さんがその人の話をした事はあったの? っていうか、二人が話してるのをみたことがあるのかしら?」
答えはすぐに出た。
両方無い。あの男が鈴子と喋ってるのを見てない。
「鈴子さんには、金髪の彼が見えてなかったりして」
見えないって、つまり、彼は……幽霊か。Jの幽霊なのか。
「Jじゃないでしょ、ちゃんと生きてオジイサンになってるんだから。Jのそっくりさん、でしょ」
そっくりさんの幽霊って、意味わからん……確かめずにはいられなかった。
あくる日の夕方、山田工務店を訪れた。
休業日なのかシャッターが降りていた。
がっかりしたが、インターホンがあった。五階が住居っぽい。
鈴子は在宅で、地下の駐車場にあるエレベーターから五階に上がってくるように指示した。
「ソレで、兄ちゃん、何しにきたんや?」
「あの、」
言ったけど後が続かない。
謎の金髪の男の話をしに来たのだが。
どう切り出していいのか言葉が浮かばない。
困って泳がせた視線が、室内の壁のポスターで止まった。
「ああーっ」
思わず叫んでしまった。
壁にJの等身大のポスターがあるではないか。
Jというだけでなく、白いスーツでヘアスタイルも例の男と同じだ。
瞬間閃いた。
あれはきっと、鈴子が作った飾り物なんだろう。
鈴子はJのフアンなのだ。金に糸目を付けず整形でもさせてそっくりさんを作っても、不思議じゃない。
「ユウキ君が気になって、近くに来たから寄ってみただけです」
鈴子は、そうか、と微笑んだ。
「実はもうすぐ警察が来るらしいんや。さっき電話があってん。鉢合わせたらややこしいから、兄ちゃんは帰ったほうがいい。あの子、いまさっき、屋上へ言ったわ」
鈴子は上を指さした。
「あの、それと、実はJのフアンなんです。そっくりな彼に会えるかなって、それもちょっと期待して」
ポスターを指さして言ってみた。
鈴子は怒らないだろう。コレクションを褒められて喜ぶに決まってる。
ところが、鈴子は首をかしげ、J?と聞き返した。
「兄ちゃん、何言ってるンや?」
狂ったモノを相手にするような困惑の表情だった。
「最初に見た時から気になって。ほら二人で工房に来たでしょう?」
鈴子は唇をかみしめ首を横に振る。
「あの時なら運転手の沢田は車で待たせといた。うちは一人で兄ちゃんのとこに行った」
「いや、彼もいましたよ、このポスターと同じ服着て。その後も、二三回会ってますよ。社長が作ったJのコピーなんでしょ」
そうに決まってると聖はムキになった。
ポスターは、よく見れば、壁に貼り付けてあるのではなくガラス入りの薄い黒縁の額に納まっていた。
「兄ちゃん、そんな男はおらんねん」
鈴子は、ぽつり、と言った。
「つまり、あんた、Jにそっくりな男が、うちの側にいたのを見たんか?」
聖は言葉に詰まってただ頷いた。
「……兄ちゃん、その男はうちには見えへんねん」
鈴子には見えていない。
だが、心当たりがありそうな様子だった。
「母がな、Jの熱狂的なファンやった。このポスターは父から母への最後の誕生日プレゼントやってん。
三十年前からここに飾ってる。形見やからな。
父も母も一緒に飛行機の事故で亡くなったんや。東京の親戚の結婚式から帰る便で」
三十年前……過去最悪の航空事故だと、聖はわかった。
「行きも帰りもうちは空港に行ったよ。もし、行きの便やったら、タラップを上っていく人が皆背中に黒い影を背負っているのを見てしまったんやろうな」
問わぬ事まで鈴子は語った。
「ほんで、そのJは今もおるんかいな?」
すこし嬉しそうに聞く。
「……いいえ」
今は、居ない。
「なんや、それは残念や。けど、今は居なくても、うちには見えないだけで、いつでも側に居るんかな」
鈴子は笑ってる。
怖くないのか?
何故だ? 安直にJだからか?
両親が好きだったJなら幽霊でもいいのだろうか。
いや、幽霊じゃない。Jは生きてるんだから。
あいつは、Jもどきは、このポスターから抜け出たみたいなんだけど。
そういうのって、自分は凄く怖いんだけど……。
言いたい事はあったが、自分が抱いている恐怖を鈴子にわかってもらっても仕方ないと諦めた。
Jもどきに取り憑かれているのは自分じゃなくて鈴子なんだから。
それに、この人は大丈夫そうだ、自分など心配する器ではないかも。
もう、いいや。
山へ帰ろう。
「帰りがけに屋上寄ってユウキに声かけたって。あの子、幸せなのは今だけやし」
気が進まなかったが最後だからと自分に言い聞かせた。
非常階段から屋上に上がった。
「おにいちゃん」
ひとなつっこい笑顔。
「いまなあ、ネオンがいっぺんについたで」
高層ビルの隙間からミナミの繁華街が見える。
夕暮れのオレンジ色にネオンも瞬いて、やけに美しい。
「こっち、おいでや」
ユウキは柵に片肘をついて振り返り手招きする。
しかし子供が遊ぶ為の屋上ではない。低すぎる柵が見ていて不安になる。
「なんや。お兄ちゃん、高所恐怖症か」
不安を見透かしたようにいって、笑い出した。
聖は馬鹿にされた気がして、すたすたユウキの側へ行きかけた。
そのとき、
背後から呼び止められた。
「行くなよ」
掠れて低い、聞き取りにくい声。
振り返ればJがいた。優しい笑顔は間近で見ると静止している。
それに横から見ると、身体は薄っぺらで生身の人間で無いのが丸出しだ。
「行ったら、ヤバいことになる」
喋っているけど唇は動いていない。
が、視線は非常階段のほうへ動いた。立ち去れと言っている。
ヤバいことなんか……
柵は腰の高さだけど、あそこから突き落とされる心配は無いだろ?
ユウキは気味の悪い左手にも右手にも何ももっていない。
屋上には石も棒も包丁もない。
吸い殻がぱらぱら落ちてるだけで、全く何もないのだ。
起こりうる危険を急いで捜して、再びユウキの全身を見直す。
半ズボンの後ろのポケットが四角く膨らんでる。
あの大きさ、あの形、あ、あれは、鈴子の、ライターかも。
「にいちゃん、あれ、何やろ? 人が集まってるで、事故やろうか?来て、見てえや」
ユウキは後ろ手に早く早くと手招きする。人殺しの徴のついた手だ。
なんでライター持ってるのか?
側に呼んでどうするつもりだ?
わからない。わからないから怖い。
聖は、逃げた。一目散に非常階段で下まで駆け下りた。
そして不意に……鈴子が自分を彼氏だとユウキに言ったのを思い出した。
あれが冗談だと、ユウキには分からなかったとしたら?
「それは怖い思いをしたわね」
マユは慰めてくれた。
「危なかったわね。鈴子さんのカレだと誤解してたしたら、セイも母親と同じ、邪魔者じゃない。気がつかなかったのはミスよ」
と叱りもした。それに
「多分、シャツに火を付けるつもりだったのよ。
セイが来ると聞いてライター持って待っていったんだ。
屋上で待ち伏せしてた訳ね。計画が先にあってチャンスを待ってたんでしょうね
……背中に火を付けられたら自分では消せないわよ。側に水道無かったんでしょ。転がって消すしか無
いけど、とっさに思いつかないかも」
ユウキの計画も推理してくれた。
聖は自分の背中が燃えているのを想像して、ぞっと、した。
「事故に見せかけた完全犯罪。その子は警察に、こう言うのよ。タバコに火を付けようとしたら、炎がとても長く伸びて、驚いてあたふたしてると思ったら、服に火がついてしまったと。……屋上には吸い殻があったんでしょ? それも偽装工作かも」
マユは推理するのが楽しそうでもあった。
だから、Jの事も何なのか聞いてみた。
「ねえ、アイツ何? もしかして死に神? オバサンには黒い影にしか見えないけど、俺には正体が見えてた、とか」
マユはあっちの世界の人だから分かるんじゃないかとも考えた
「死に神じゃ、ないでしょ。結局、聖を助けてくれたんだから」
死に神は人を助けたりしないらしい。
「それに鈴子さんに見える黒い影は、死に神じゃないとおもうよ」
……死に神じゃあ、無い?
「そうなの? でもオバサンは、はっきり黒い人のような影で、死ぬ人の後ろに……」
「黒装束で釜を持ってうろついてるイメージなんでしょうけど、違うの。
もうすぐ死ぬ人の背中に取り憑いた影は、どっかから来たんじゃなくて、その人から滲み出てるものなの」
「に、滲み出てるの?何だよ、それ」
マユは暫く考えて、
それは沈む船から飛び立っていく鳥のようなモノだと、説明した。
逃げ出せるモノが先に身体から出て行ってるのだと。
聖はそう聞いてもまだイメージできない。
「わからなくても仕方ないね。でもこれだけは分かるわ。
鈴子さんのお母さんの好きだったJの姿をしている、
それは、お母さんの願いで鈴子さんを守ってる存在だと思うよ。
鈴子さんに近づく胡散臭い人を監視してるわけよ」
<Jもどき>は亡くなった親の思いが作り出したモノだと……
でも肝心の娘には見えなくて関係ない自分だけ見ても意味がないのでは?
「本当に全然見えてなかったのか、わからない。部屋にポスター飾ってるってことは毎日目にしてるの。それなら別の場所で見たような気がしても、気のせいだと、勘違いと思うかも」
「それってどういう感じだろう」
また、聖にはよく分からない。
「たとえばセイがパソコンでお仕事してるときに、一瞬ずっとやってるゲームの画面になったとして、気のせいだと思うでしょ? ゲームのやりすぎだと笑っちゃうでしょう。霊現象と気づかない」
なる程、ちょっとわかった気がした。
いつの間にかシロが足下に来ていて、<剥製の>父犬にじゃれついてる。
「シロって、紀州犬なの? 血統書つき?」
見た目は純血の紀州犬。が、血統書のはなしなど父に聞いた覚えはない。
「雑種の方が丈夫だし面白いんだけどね」
事件現場のアパートの側に居た
(熊犬)コロのことを思い出す。
「まん丸で手足が短くて太いんだ。大型犬の子犬がそのまま大きくなった感じかな。十七、八才かな。大型犬にしたら長寿だよ」
「そうなんだ。で、シロは? シロは何才?」
「えーと、」
八年前、父が亡くなった時には居た。シロがいるから、山に戻ったのだ。
「ふうん。じゃあ、シロのお父さん、こっちの剥製のシロはいつ死んだの?」
……覚えてない。死に立ち会った記憶がない。
父から聞いて泣いた覚えもない。
シロはいつも居て、あるとき、剥製のシロと、このシロになっていた。
死んだから剥製になって、そして、じゃれついてる方はそっくりな子供だと。
、
「ある時ってセイが大学生の時かしら? その前の一緒に暮らしてたときなら覚えてる筈だから」
「大学じゃない。もっと、ずっと前だ。俺、中学から家を出てるから」
山から通える中学はない。
それで寮のある私立中学に行った。
あるときは、家を出て間もない、中学生頃だ。
「じゃあ、少なくとも十才は超えてるんだ」
中学入った年ならシロは十四才だ。
……もうお爺ちゃんじゃないか。
見つめられて愛犬は呼ばれたように聖の手を舐めにきた。
「ゴメンな。明日から老犬食に替えてやるからな」
シロの頭を両手で挟んで、眼やら歯を今更のようにチェックする。
「お前、すごいな。ちっとも衰えてない。まだまだ元気で長生き出来る」
年齢を考えて、愛犬の死が近いのを一瞬恐れたが、安堵した。
「そう、とても老犬には見えない。……変だと思わないの?」
……そう、かな。
言われて細かくチェック。
なんとシロの歯は摩耗していない若い犬の歯ではないか。……あり得ない。
他にも、考えれば不思議な事はある。
剥製のシロと、同じしっぽをしている。
胴体、四肢、頭部と比べてしっぽは形が単純だから比較しやすい。
真っ白な毛のしっぽだけど、一匹ずつ毛の流れや密集度が違う筈。
なのに、全く同じだった。
親子だから? 聖が物心ついてからずっと側にいたシロは雄だ。
今いるシロが二代目としても、産んだ雌犬の話は父から聞いた事がない。
「いよいよ、謎めいているわ。
この子はどうみても純血の紀州犬なんでしょう。
ということはママも純血でしょう。
大きな犬の純血って少ないんでしょう?
……紀州犬愛好家のネットワークとかで出会ったのかなあ」
マユはシロの謎に興味をしめしたようだ。
聖は、シロはシロでしかない、と思う。
マユも、幽霊だけど自分にとってはマユでしかないのだから。
最後まで読んで
頂きありがとうございました。
仙堂ルリコ