第二章 逃れられぬ運命(3)
和泉親子の変わり果てた姿を、鶴子に何て申せばいいのか、総介は苦悩した。
また、大田原の亡骸が無いのは理解ができない。
動物の肉体に噛みつき、吸血を行った屍鬼は、種を増やすために、相手の肉体へ妖気を送り込む。妖気を食らった被害者は、肉体が朽ち果て絶命する。
このように体が動けるのは、術者の妖気によって操作をしている、いわば屍の操り人形なのだが、肉体そのものが消滅するのは考えられないのである。
獣の如き唸り声を上げる四体の屍鬼が、ゆっくりとした歩調でこっちに迫って来た。
総介は中段に構えた。
この感覚はあの時に似ている。
総介は、体から血の気が引いている感覚に陥った。
それは十年前、徳川慶喜を護衛しながら朝日峠を越えて水戸に向かう最中、殉死した父を思い出した。その時に負った心的外傷が燻り始めた。
「こんな時に思い出すとは……」
総介が唇を噛み締めた瞬間、奴らが鋭爪で斬り込んできた。
不覚だった。防御に入るのが遅れた総介は、両腕さらに両脇腹を引き裂かれた。
一度狂った感覚が妖魔の動きを見誤った。
落ち着け!
総介は己の心に発破をかけた。
四体が荒々しく喉を鳴らしている合間に、扉口からいや――、窓口からも無数の屍鬼が押し寄せてきた。
それに応えるように、三体の妖気が背後から迫ってきた。
高々と跳躍して攻撃を回避した総介の視界に、奴らの背中が入った。
黒装束だ。
魔刃丸を咥えた総介は両手に妖気を込めると、縦横無尽に炎の飛沫を放出した。
火炎弾に撃ち抜かれた屍体の傷穴から赤い水蒸気が天に昇ると、傷穴から火柱が立ち上がった。
「ウゥ……」
総介の耳に呻き声が聞こえてきた。
声の出所を振り向くと、誠一が部屋の隅に身を縮めているではないか。
運が強いと言うべきなのか、火炎弾から回避した体は、然して傷を負っていなかったのである。後退ができない奴らにはあり得ない行動だ。
総介は素早く炎の剣先を膝頭まで下げた。
動きが読めない者に対して、冷静に斬り返す下段の構えだ。その構えを保ったまま、一歩また一歩と相手の元へ歩み寄った。
手前三間(約五m)まで迫ったときだった、誠一がこっちを振り向いた。なんと、血肉を好む妖魔からは想像できない怯濡な眼差しをしているではないか。
本能なのか、それとも人間の心が甦ってきたのか、総介は疑念を抱いた。
妖魔に支配された者が、人間の心を取り戻したというのは、考えられない話だ。
しかし、憂わしげな目を浮かべるのは、完全に心を妖魔に捧げておらず、葛藤している証拠だ。
今なら人間の心を持ったまま、成仏させることができる。
一縷の希望に掛けた総介は構えを解くと、そのまま誠一の元へ歩み寄った。ところが、この男の頭に手を翳した瞬間、尖鋭が懐に飛び込んできた。
間一髪だった。身を翻した総介の胸元を鋭爪が擦った。天敵に追い詰められた動物のように容貌を騙して、反撃に転じた屍鬼に憤激した。
「擬態まで使うとは、心も妖魔に捧げたか」
誠一の腹部に右拳を打ち込んだ総介が、屍体に妖力を注ぎ始めた刹那、肉を抉られるような斬撃が背中を襲った。
不意打ちを食らった総介は為す術もなく、床へ薙ぎ倒れた。
そして、やおら上半身を起こすと、獣のような咆哮を上げながら、二体の屍鬼が襲撃してきた。
誠一と仙一郎だ。
剃刀以上に鋭利な爪が、総介の左側頭部と右頬を裂いた。
爪の尖端とはいえ、皮膚を裂傷させる力は侮れない。上体を反らしていなければ、頭を切断されていた。
床を跳躍したあと、二手に分かれた和泉親子は、壁を蹴った反動で突進してきた。
両腕と両太股、さらに脇腹を切り裂きながら縦横無尽に駆け回る機動力は、先程、一戦交えた黒装束を彷彿させる。
この親子が、天性の戦闘能力を持ち合わせていたかは定かではない。だが、優れた身体能力に妖力が加わることで、戦闘能力の高い妖魔へ変貌を遂げたことに、総介は息を呑んだ。
和泉親子との戦闘が始まってから、三十分が経過したときだった、鋭爪を立てて一気呵成に攻める誠一に対して、仙一郎の動きが少しずつ鈍くなっているではないか。
擬態なのか、それとも?
総介は疑念を抱いた。
総介は誠一の攻撃を受け流しつつ、非完全体な屍鬼の様子を探った。
出始めは、奇襲をかけて総介を追い詰めていたが、時間が経つにつれて緩慢が動きに様変わりした。それゆえに、妖魔らしからぬ弱い刺突と斬撃を繰り返すようになったのである。
これは擬態でも何でもない。人間の理性が妖魔の本能を抑えているんだ。
総介は俊敏な足運びで攻撃を躱しながら、そう察した。
総介の背中が扉口に向いたときだった、天井から妖気が迫ってきた。
誠一だ。
天井を這っていた誠一が、こっちの動きを見計らったかのように勢いよく突進してきた。
「くっ……」
総介は咄嗟に魔刃丸を額の前に掲げた。鋭爪が炎の刃に触れた刹那、砲弾のような塊が腹部を抉った。
宙に浮いた体は、そのまま床へ激しく打ちつけた。
廊下まで飛ばされた総介は、素っ頓狂な顔を浮かべた。そして、瞳に映った室内の光景に絶句した。
なんと、誠一の鋭爪が父の背中を突き刺したのである。
単なる誤爆なのかどうかは定かではない。だが、危機を回避できた。
凄惨な光景に見とれていたその刹那、頸部を締め上げる感覚に襲われた。
「な……に?」
気道が塞がれたなかで、恐る恐る背後を振り向くと、欄干の外からよじ登ってきた屍鬼の右手が、縦格子の隙間を越えて頸部を圧迫した。
皮膚に食い込んだ五本の鋭爪が頸動脈に触れた。
頸動脈内を流れている血液が、体外に流れ出る感覚に陥った。
血を吸われている。屍鬼は傷口へ妖気を送り込んでいない。それでも、肉体が朽ち果てるのは時間の問題だ。
総介は粘着質な右手を両手で掴むと、妖気を流し込んだ。屍鬼の手は生臭い血煙を上げながら沸々と爛れだした。
だが、血液を吸われたことで呼吸が安定しない総介は、妖気の練りが淡泊だった。そのため、相手の体内に微量な妖気しか送り込めず、皮膚細胞を沸騰させることしかできなかった。
「こ……、このまま……では……」
焦燥感に駆られるなか、おぞましい雄叫びが耳を打った。栄養を補給することで屍鬼の力が増したのだ。
総介はゆっくりと背後を振り返った。格子柱の外側にいる屍鬼は吸血したことで、肌艶が良くなっていた。
不気味な睨みを利かせながら、大口を開けて、こっちを威嚇していた。
屍鬼の額を掴んだ総介は呟きながら、妖力を流し込んだ。
「地獄へ……落ちろ」
屍鬼の額が熱を発すると、蒸気をあげながら溶解していく。
しかし、妖魔も簡単には消滅しなかった。捻じ切れんばかりの圧力が頸部に掛かる。
総介の体が屍鬼の元へ引き摺られた。その反動で格子に背中を強打した。
今際に見せた執念が、総介を追い詰めた。
総介の心音が激しく波立った。
乾いた樹木が割れる音が耳を打った。二人の体を支えていた格子柱が、軋みだしたのである。
朧気な意識のなかで、ひとつの影が視界に映った。
獰猛な鳴き声は屍鬼に間違いはない。だが、何処かで聞いたことがある声だ。
誠一だ!
誠一と思わしき屍鬼が飛びかかってくると、勢いよく左肩へ噛みついた。
総介はすかさず、奴の左側頭部を目掛けて、右拳を打ち込んだ。
しかし、蟀谷に一撃を食らった誠一は、その反動で肩を噛み千切った。そして、尖鋭な牙をこっちへ見せると再度、総介の体を覆い被さった。
総介は誠一の口元に左前腕を押し込んだ。鋼の手甲を装備しているとはいえ、前腕を圧迫する咀嚼力は圧巻だった。
腰を上げた総介は誠一の頭部を掴もうと右腕を振り上げたその刹那、一体の影が右胸へ飛び込んできた。
「な……」
総介は虚を衝かれた。
欄干を突き破った体が、木片と共に階下へ吸い込まれていった。