第二章 逃れられぬ運命(2)
五分弱の打ち合わせを終えると、沙那は鶴子嬢を連れて屋敷を出た。
総介はどうしても気になることがあった。それは、会合終了間際に呟いた仙一郎の言葉だ。
セイイチ。
明らかに人名だ。これが頭に残っている総介は、大田原に訊いた
「和泉さんが呟いたセイイチとは、一体誰のことですか?」
総介の質問に、大田原の眉がピクリと動いた。執事が気難しい顔で答える
「お気付きになりましたか。誠一様は和泉家の嫡男で、文武両道で家族思いな御方でした。鶴子様にとっては憧れの存在でした。六年前、経営学を学ぶために単身で渡米しました。ところが二年前の夏に届いた手紙を最後に、音信が途絶えました」
「行方不明ということですか?」
「はい。それを境に旦那様は体調を崩すようになりました。それでも、誠一様の帰国を信じて職務に就く旦那様が、とても健気です」
「大田原さん」
総介はやるせない思いに駆られた。
予告時間まで残り十五分が経過した。
鶴子嬢を秘密の塒に送って、無事、屋敷に戻ってきた沙那は、鶴子の部屋で待機している。
一方、主寝室の前で待機している妖術士の二人は、座禅を組んで瞑想に耽っている。
最大限に高めた妖気を全身に隈無く流す。この動作を行うことで、過去の戦いで負傷した患部を治癒して、万全な体調で妖魔との一戦に臨める。
残り五分が経過した。
総介は主寝室に足を踏み入れた。
一瞬、居間と見紛う豪華な内装に、英国帰りの総介でも度肝を抜かれた。
煉瓦造りの大きな暖炉と、その向かい側には木製の二人用寝台を中心に、高級感漂う収納箱に書斎机と臙脂色の長椅子が設置されている。まるで高級ホテルを彷彿させる造りだ。
長椅子に座る仙一郎と大田原は、ゆらゆらと炎が躍る暖炉を見据える。橙色の光が顔の輪郭を照らし、バチッと炎が爆ぜる音を耳にする二人は今、何を思っているのだろう。特に主人は、何かに取り憑かれたような、虚ろな顔をしている。
「予告時間の五分前です。火を消して、ベッドの下に身を隠して下さい」
総介は二人に告げた。
ゆっくりと立ち上がった大田原は暖炉に向かった。
暖炉の脇にある水瓶から柄杓で水を注いだ執事は、それを暖炉の中に撒き、火掻き棒で灰を混ぜる。これら一連の動作を二回、三回と繰り返すことで火種が消えた。
書斎机の片隅に写真が飾ってある。中央にいる仙一郎の背後に立つのは、大田原と鶴子だ。
主人を挟むように座る男女は、妻と行方知れずの誠一か?
写真を見ている総介に気付いた大田原は、当時の光景を振り返った。
「こちらのお写真は誠一様が渡米する一週間前に撮影したものです。亡き奥様も愛息の帰国を待ち焦がれていました」
誠一は父親に似て、目鼻立ちが整った凛々しい顔立ちだ。が、父親より眉毛が濃い。
親子か……。
総介はふと、父の面影を思い出した。
妖刀術に対してストイックな源三郎は、愛息にも、その精神を叩き込んだ。
当時は目的もなく、言われるがまま厳しい修行に明け暮れた総介は、厳格な父を恨んだこともあった。
しかし、黒船来航から始まった攘夷運動が、やがて倒幕運動へと変わっていくことで、彼の思想も一変した。そして、激動の時代に徳川家の矢面に立つことを決心したのである。
父との思い出を胸の奥にしまった総介は、懐中時計を見た。長針が五十八分を過ぎたところだ。
予告時間が近いことを知った総介は、二人を急かした。
「あと二分です。早く」
総介の合図で、仙一郎がゆっくりと立ち上がる。執事に付き添われながら、脱力感を漂わせる動きで寝台の下に潜った。
扉の向こうから相棒の声が聞こえた。
「総介、来るゾ!」
複数の小さな妖気が屋敷に集合しているのが分かる。
しかし、それ以上に気がかりなことがある。
それは仙一郎の震えだ。寝台の下に身を隠しているとはいえ、彼の呻き声が、こちらに伝わる。妖魔が襲来してくるから当然と言えば当然だが、これではかえって妖魔の目につきやすくなる。
「旦那様、落ち着いて下さい」
怯える仙一郎を何とか落ち着かせようと、大田原が労っている。
「此処は私にお任せ下さい」
総介は、二人に告げた。
予告時間を告げる振り子時計の鐘音を耳にしたその刹那、複数の黒い物体が、重厚な音色を打ち消す窓硝子の粉砕音に紛れて、妖術士の前に現れた。
「ウェギギギ!」
耳障りな鳴き声を上げるその妖魔は、無残に朽ち果てた皮膚に、狼を彷彿させる鋭利な牙が特徴だ。
「こいつは吸血屍鬼じゃないか」
陽魂寺に現れた小魔獣といい、魔界にしか存在しない妖魔が、こうして日本で活動している。徳川魔方陣の防御効果が薄れていることが、これで明確になった。
吸血屍鬼に血を吸われて絶命した生物が時間をかけて蘇生すると、吸血能力に目覚める。能力が覚醒した屍鬼は、様々な生物を襲撃して吸血するのである。
総介の目の前には、腹を空かせた三体の屍鬼がいる。奴らは鋭い爪と牙を武器に、総介の頭と脇腹を目掛けて襲ってきた。
牙で突かれたら終わりだ。
総介は、暖炉に向かって飛んだ。そして妖魔の様子を窺いながら、適当に薪を拾った。
片腕で薪の束を抱きかかえる総介に、屍鬼たちが嵐のような三位一体の攻撃を仕掛けてきた。殺人爪が、総介の頬と脇腹、そして二の腕を掠める。
しかし、総介はただ敵の攻撃を躱しているわけではない。妖魔を部屋の隅におびき寄せると、薪に妖気を込めた。
「妖魔を跡形もなく消滅する地獄の業火よ、覚醒せよ!」
薪の束が淡い赤色に発光する。それを一本手にした総介は、爪を向けて突進してくる屍鬼の鳩尾目掛けて前蹴りを浴びせた。
「グゴッ!」
前蹴りの反動で膝をついた屍鬼の口腔に薪を突っ込んだ総介は、敵の目を掻い潜る。
そして、残りの妖魔たちに視線を向けた総介は、手にする二本の薪を両手に持ち直すと、敵の鼻っ柱に突き刺した。
「ウゴゴッ!」
呻き声を上げる三体の屍鬼が、激しい爆発音と共に肉体が四方へ飛散した。
妖魔の腐肉が炎滅したのを見届けた総介は、一呼吸をついた。
まだ始まったばかりだ。扉を蹴破った屍鬼が、ぞろぞろと迫ってくる。
この展開を想定していた総介は冷静だ。再び呪言を唱えた。
「古代より眠りし真紅の魂よ、悪しき者に裁きを与えたまえ!」
両腕を前に出した総介は、空気中に8の字を描いた。空気摩擦によって発火した炎は、部屋に倒れ込む屍鬼たちを飲み込んだ。
「グエェェ!」
絶叫を上げる屍鬼の皮膚が煮え立ち、加熱した飴のように溶けだした。焼き焦げた香りが鼻を燻った。
焦臭が鼻腔を刺激した刹那、総介は、この部屋に迫ってくる異常な妖気を察した。弱々しく、完全に闇に染まっていない中途半端な妖気だ。
なんだ、この灰色の妖気は?
妖魔への覚醒途中なのか、もしくは、奴らの心にも良心があれば、灰色の妖気を醸し出す。
禍々しい妖気が足音を立てて近づいてきた。
魔刃丸を手にした総介は呪言を唱えた。
「この世の邪を焼き尽くす灼熱の炎よ、我に力を与えたまえ」
現れた紅蓮の刃が天を刺した。
「ウウッ」
不気味な呻き声が寝台の下から聞こえてきた。
仙一郎だ。
妖魔との距離が縮まるにつれ、声の張りが大きくなっていく。
仙一郎の異変を察した総介は、廊下側から寝台に視線を移した。
この寝台の下から灰色の妖気を感じる。どういうことだ、そこは仙一郎と執事の二人だけのはずだ。
魔刃丸を握る手に汗が滲む。
総介は、渾身の力を込めて寝台をひっくり返した。
一瞬の隙を突かれた。なんと、黒い物体が総介の顔面を襲った。
「グギョオオ!」
大きく口を開いた妖魔が総介の左頭部に目掛けて牙を突いた。
しかし間一髪のところを、手甲で頭部を防御した総介は、妖魔の左顎を目掛けて拳を突いた。
西洋式箪笥まで吹っ飛んだ妖魔は、床に叩きつけられた。
目の前の出来事に戦慄が走った。
寝台の下に二人がいない。いや――、いつの間に妖魔が身を潜めていたのか?
失神している妖魔の顔を見た総介は、驚愕した。
「和泉さん?」
なんと、仙一郎が吸血屍鬼に変貌しているではないか。
「大田原さん!」
総介は執事の安否が気になった。しかし、姿どころか気配すら感じないのだ。
「どういうことだ?」
総介は狐につままれた。
窓硝子を派手に割った三体の屍鬼が部屋に侵入した。奴らは漆黒の装束を纏っていた。
どうやら元下忍のようだ。手当たり次第に人間を屍鬼にしたとはいえ敏捷性の優れた武芸者もいる。術士に辿り着くまで骨が折れそうだ。
仙一郎に一歩歩み寄った次の瞬間、木壁を打ち破る衝撃音が襲った。
木塵で姿がはっきり見えない。どうやら、先程から感じていた灰色の妖気を持った者のようだ。
木塵の向こうに見えたのは、朽ち果てた肉体に、血染めのワイシャツを羽織り、洋袴を穿いた屍鬼だ。
「ん?」
総介は異変に気付いた。
この顔、何処かで見たことがあるぞ。
総介は記憶の糸を手繰り寄せた。
「……あの写真だ」
総介は思わず声を発した。
数分前に見た家族写真に写っていた若い男。そう、仙一郎の愛息、誠一だ。
なんということだ、親子揃って屍鬼になるとは……。
総介は呪われた一家を哀れんだ。