第二章 逃れられぬ運命(1)
暮夜から風が唸りを上げて、山林に吹くと樹木がざわめきたち、横殴りの雨が窓硝子を容赦なく叩きつける。
かつては、阿部播磨守の広大な下屋敷だった麻布霞町に、千二百坪の土地と洋館を所有するのは、日本有数の貿易会社『和泉商会』の社長・和泉仙一郎だ。開国前は『和泉屋』という屋号を使い、江戸で海産物専門の商いをしていた。
開国後、横浜港が開港されたことを知った仙一郎は横浜に会社を設立すると、蒸気船専用の石炭と、輸出の主力品である生糸や緑茶を輸出して成功を収めた。
仙一郎自慢の邸宅は、近年、続々と東京府内で発生した大火対策として、外壁に煉瓦を使用している強固な外観と、窓額、階段の手すり、家具は、欧米で流行しているアールヌーヴォー様式(流動的な曲線が特徴)を取り入れた芸術性の高い内装になっている。
屋敷内に二十名、庭に三十名の警視隊が配備された。民間人の心を落ち着かせるために考慮したことだが、それは妖術士の未熟さを公に露呈しているようなものだ。
居間にある長椅子に腰掛けて瞑想する妖術士たちの耳に、大きな胴間声が聞こえてきた。二人は、声のする方に目を遣る。
「これだけの警備だけで私たちを守れるのかね。何故、陸軍は動かないのだ!」
すらりとした痩せ型に漆黒の洋装を纏う初老男が、不安げな顔で大兵な警察官に噛みついている。彼は長年、和泉家の家政・事務を執りしきる大田原恭造だ。
執事からの詰問責めに陣頭指揮者の安西が苦渋を浮かべる。そして、大田原を優しく宥めた。
「大田原殿、落ち着いて下さい。今回は、あちらにいる妖術士も遥々、英国から駆けつけて下さった」
「しかしだね、何処の馬の骨か分からぬ者が、軍隊より優れているのかね?」
「言わずもがな。彼らは妖術の総本山で修行をしてきた者たちです。それと、もう一つ策があります」
「もう一つの策?」
大田原が訝しんだ。
「入ってまいれ!」
安西が号令を掛けた。
ギィーと耳障りな音をたてて扉が開く。
奧から二人の人影が見えた。
ひとりは、白鷺と見紛う程の白い肌に、切れ長の大きな目が印象的な女性で、白衣に緋袴を穿いている。もうひとりは、薄紅色の着物を着こなし、後ろ髪を赤い髪帯で束ねた仙一郎の愛娘、鶴子だ。
白衣の女を見た総介は、思わず長椅子から立ち上がると、弾かれたように声を上げた。
「沙那!」
「オォ、沙那サン、なんという回復力!」
ロバートが感嘆とする。
しかし腑に落ちない点がある。昨日まで昏睡していた彼女が、どうして戦地に立てるのか、不思議でならない。
「総介様!」
沙那がにっこりと微笑むと、総介の元に駆け寄る。
七日前の負傷がまるで嘘のように回復して、肌艶も良い。
動揺が顔に出ている総介が、沙那に訊いた。「何故、此処にいるんだ。体はもう良いのか?」
「はい、形見が力を与えてくれたおかげで傷のみならず今日の朝には体力も回復しました。母の御加護に感謝しております」
あれだけの深手をたった七日で……、なんという妖力だ。潜在能力を上げるだけでなく、短時間で傷を完治する効果まで備わっているとは。
異常なまでの治癒能力を持ったペンダントに総介は息を呑んだ。
「……総介様」
凛とした声に総介は我に返った。沙那の身を案じるあまり気を取られていた。
沙那が目を逸らしている。そして小声で真相を打ち明けた。
「隠していて御免なさい。実は、和泉様からお嬢様の替え玉を頼まれていたの」
「替え玉?」
「はい。魔方陣の件で敵対しているとはいえ、人の命が懸かっています。放っておくわけにはいきません。確かに、私は危険な思想を持っています。しかし、多くの命を救済する考えを持つ総介様の考えが正しいか否かを見届けようと、この仕事を引き受けました」
沙那の胸中を聞いた総介は、七日前に起きた陽魂寺の出来事を思い出した。
この娘は妖魔だけではなく、自分自身とも闘っている。
総介は心が引き締まる思いがした。
総介と同じ妖術士とは思えない鋼の肉体が自慢のロバート、痩身長軀で口髭が似合う白髪の紳士・仙一郎、彼に仕える初老の執事・大田原、丸々肥えた肉体が際立つ親分肌の安西、情緒不安定ながらも自分の生き方を模索している沙那、容姿端麗なお嬢様が居間に集まった。
まず、安西が近況報告と段取りを、語気を強めて説明した。
「屋敷の外部を三十名の狙撃隊士で囲い、玄関広間周辺に二十名、二階の廊下には妖術士を配置しました。そして鶴子嬢お嬢様の寝室は、鶴子お嬢様の代わりに桜宮沙那殿が入ります。二名の奉公人はすでに帰郷しています。残る御主人と大田原さんは、主寝室で身を隠して下さい。そこを妖術士が警護します」
闇乃翼の加入と最新型スナイドル銃を揃えたこともあって、ドンと胸を張る安西の顔は自信に満ちている。
「私は試衛館で鍛えた剣の腕と幕末の動乱で培ってきた精神力があります、妖魔に臆することはない」
「シエイカン?」
ロバートが総介に聞いた。
「その昔、江戸市中にあった剣術道場だ。多くの剣士が新撰組に入隊して京都の治安維持に務めた」
「世界最強の妖術士と数多の死線を潜り抜けた私がいてはさすがの妖魔も今度ばかりは年貢の納め時だ。ハハハハッ」
巨体を揺らして豪快に笑う陣頭指揮者の横で、顔色が冴えない男がいる。
仙一郎だ。
可愛い娘を手離す辛さと、心の整理がついていないことが仙一郎の表情に滲み出ている。
「桜宮殿、娘を何処に預けるのか教えて頂けないかね?」
「申し訳ございません。胸中はお察ししますが、質問にお答えすることは出来ません。それは、妖魔がこの屋敷に潜伏している可能性が高いからです」
「何故、そんなことが言えるのですか?」
大田原が問い詰めた。
沙那が神妙な面持ちで答えた。
「これからお話しする内容は、今まで起きた殺人事件の警護に当たった陣頭指揮者と、警視隊の証言を元にしたものです。彼らの話に出てきた妖魔の特徴は、正確性と無駄な動きがないことです。まるで屋敷内の見取り図を持っているかの如く、主人とその娘の居場所を突き止めた」
「つまり、知性のない妖魔ならば手当たり次第に部屋を荒らすが、相手は人間を超越した知性を持っているということダ。彼女の話が事実ならば、此処にいる七人いや――、警視隊と帰郷した奉公人を含めて、五十九人に紛れているかもしれナイ」
沙那の話を補足するロバートの艶やかな声が、居間の空気をより一層重くした。
「こんな時に誠一がいてくれたら……」
「旦那様」
大田原は、弱々しい声で呟く仙一郎を優しく見守るしかなかった。