第一章 ロンドンからの帰還(4)
窓ガラスを通して注がれる日射しの中、沙那は静かに寝息を立てている。
此処は、明治七年に設立した東京府中央衛生病院である。木造二階建て桟瓦葺きの院内は、日本では珍しい開放感のある吹き抜けを設けている。
「疲れですな」
医師からの診断が下される。
「親子二代に亘って、診察できるなんて、幸せですな」
ホクホク顔で答える医師が、このあと厳しい口調で妖術士たちに忠告した。
「沙那さんは桜宮家二十四代目当主です。いくら若いとはいっても所詮は女です。政府から、どういう依頼を受けたかは存じませんが、くれぐれも無理をなさらぬよう、あなた方もお気遣い下さい。由菜さんの二の舞だけは御免です」
この医師は、九年前に起きた会津戦争において、桜宮夫妻と共に力を合わせ看護活動に勤しんだ縁で、桜宮家の主治医を務めていた。
当病院が設立されると、多くの患者を分け入れ、隔て無く診たいという志で活動している。
「失礼しました」
妖術士たちは病室をあとにした。
扉を閉めたロバートが、総介に向かって頭を下げた。
「総介、申し訳ナイ」
「君にどういう意図があるかは分からんが、これ以上、沙那を傷つけることは許さない」
総介は憮然と言った。
ゆっくりと通路をよぎる二人に、「有馬!」と背中を一押しする声が聞こえた。
二人が振り向いた先に見えたのは、白髪の老人――いや、勝海舟ではないか。
「勝先生」
総介が思わず言葉を発した。
総介の声が届いたのか、海舟が足早に寄ってきた。
「いきなり病院で再会するとは、驚いたぞ」
「勝先生、どうして此処に?」
「俺は知人の見舞いだ。おまえらの方こそ、どうしたんだ?」
「実は……」
総介は陽魂寺で起きた一連の出来事を告げた。
海舟は苦々しい顔をした。
「沙那が襲われたか」
「奴らは単体では行動できません。我々と一戦交えたのは、偶然かどうか定かではありませんが、黒幕がいる可能性は高いです」
「黒幕か、おまえらが帰国してきた情報を、いち早く握っていた者がいたということか。それと、沙那を守った琥珀の光というのは、一体何だ。心当たりないか?」
海舟の問い掛けに二人は頭を振った。
一度、周囲に目を遣った総介が、声を潜めて海舟に詰問した。
「何故、徳川魔方陣の件を黙っていたのですか?」
つい先程まで明るい素振りを見せていた海舟の表情が曇りだした。
「ちょっと、ついて来い」
海舟は妖術士たちを引き連れて、病棟裏に移動した。
通称『桜街道』と呼ばれる病棟裏は、全長四十四間(約八十m)に亘って、八本のソメイヨシノが植えてある。咲き誇った桜並木は患者の目と心を楽しませてくれる。
三人は、ソメイヨシノの古木の下に集まる。
「すまなかった、これも政府の考えあってのことよ。国民の不安を煽ることだけはしたくなかったんだ。政府は本気で魔方陣を作り替えようとしている。事の発端は、幕末の頃、薩摩藩が英国武器商人の紹介で占術士を呼び寄せたことなんだ」
「占術士?」
妖術士たちは互いの顔を見合わせた。
「そうだ。倒幕を掲げていた薩長は、絶対的な勝利を手中にするため、高待遇を条件に占術士を雇った。戊辰戦争での役割は、戦の日程の吉凶を占うことと、軍隊の配列を意見していたという話だ」
「高待遇ということは、今でも何かしらの活動をしているということデスネ」
「ああ、そいつの名はバロム・ロビンソン。内務省で大久保卿の秘書をしている男だ」
「つまりその男が魔方陣の件に暗躍しているということですね?」
「ああ、その通りだ。それと、明治魔方陣の資金集めをしているのが和泉仙一郎だ。頼むから今、俺が言ったことは口外するなよ」
海舟は唇に人差し指を添えた。
高官たちの心を魅了する占術士とは一体?
総介の好奇心を煽る興味深い話だ。
海舟が話題を変えた。
「それと、もう一つおまえらに言わなきゃいけないことがある。妖魔討伐隊の元締めを紹介する」
「えっ、勝先生じゃないのですか?」
総介は虚を衝かれた。
「ああ、俺は元締めの補佐役だ。それで今日、夕飯を食う約束をしていてな、一緒にどうだ?」
「喜んで」
「お願いシマス」
笑みを浮かべた二人は返事をした。
****
六二八年に創建した浅草寺の門前町である浅草は、東京府が誇る繁華街として栄えてきた。
門前町の裏通りにある牛鍋屋『千喜』は、開国から四年後の安政四年(一八五七年)に創業した。開国以来、江戸の味を異人に広めようと、和洋折衷料理を始めたのが切っ掛けだった。
木造二階建て茅葺き屋根の店内は、玄関から見て左側に二階へ続く通り土間があり、右側に座敷が連ねている。
女将の案内で二階に進むと、要人専用の個室が六部屋ある。
その中の『鈴蘭乃間』に案内された妖術士たちは、「失礼します」と座敷へ足を踏み入れた。
座敷には、中央にある卓子を囲むように三人の男が座っていた。ひとりは我々を招待した勝海舟、残り二人には当然、心当たりがない。
すると、中央に座る男が親しみを込めた挨拶をしてきた。
「久しぶりだな、総介」
幕末から現在に至るまで、髪全体を後ろに撫で上げた東洋人に面識がない。灰色の三つ揃いを着たこの男は、満面の笑みで再会を喜んでいる。
困惑している総介を見兼ねた海舟が、「ゴホン!」と、咳払いした。
「有馬、おまえはこのお方を忘れたか。こちらにおわすは、徳川慶喜様なるぞ」
「え? 慶喜様」
総介は瞠目した。戊辰戦争終結後、静岡に居住しているはずの慶喜が、西洋風な出で立ちで帰ってきたのである。
総介は片膝をついた。
「お久しぶりでございます」
「はははっ、楽にせい。またこうして一緒に仕事が出来るなんて、こんなめでたいことはない」
「すると、慶喜様が元締めでございますか?」
「そうじゃ、不服か?」
「め、滅相もないことでございます。恐悦至極に存じます!」
「はははっ、恐悦至極か。宜しく頼むぞ!」
このあと、総介は相棒を紹介した。
ロバートに臆することなく握手を交わした慶喜は、お返しとばかりに内務省で秘書を務める外国人を紹介した。
「バロム・ロビンソンです。宜しくお願いします」
この男が噂のバロム・ロビンソンか。
総介は思わず唾を飲み込んだ。
妖術士たちが着いて十五分後、食卓に牛鍋が並んだ。浅い鉄鍋の中で、角切り牛肉、葱を煮る。味噌の香ばしい匂いが、食欲を掻き立てる。
一同が杯を手にすると、慶喜が乾杯の音頭をとった。
「では、妖魔討伐隊の武運と健勝を祈って、乾杯!」
乾杯のあとは、各々杯を酌み交わす。そして、待ちに待っていた牛鍋が按排になってきた。我先にと、慶喜が牛肉に箸を伸ばした。
「うむ。旨い!」と慶喜の頬は、今にも落ちそうだ。
「さすが、文明開化の味。旨すぎる」
海舟は絶賛した。
総介は、箸使いに苦戦を強いられているロバートを丁寧に教えているなか、さすが日本滞在期間が長いバロムは慣れた箸使いで肉を食していた。
楽しい宴も佳境に入ると、総介は人目も憚らずバロムに詰問した。
「ひとつお訊ねしたいことがあります。あなたは、徳川魔方陣を崩し、新たな魔方陣を作ることを提唱していらっしゃるというのは、本当ですか?」
「おい、有馬」
海舟は制止しようとしたが、遅かった。
「構いませんよ、いずれこの方たちに話さなくてはいけません。日本を変えるには長年、江戸を守護していた徳川魔方陣を破り、新たな魔方陣を創ることです。それは魔方陣の柱である妙見菩薩と七星菩薩、そして平将門を鉄の結界で囲うことです」
「鉄の結界?」
総介は眉を顰めた。
「はい。三位一体の強力な霊力も時代の流れとともに、弱まってきたことで、陽魂寺の扉が開放されようとしています。そこで、私は鉄の結界、つまり鉄道を引くことを提案しました。鉄は霊を宿し、妖気の力を遮断します。ただ立っているだけの菩薩像よりも、国民に便の良い鉄道を利用すれば、一石二鳥です」
流暢な日本語を喋るこの男が来日してから、今日まで十年余。よく江戸のことを勉強してきたのだな、と総介は思わず感心した。
いいや――、と総介は頭を振ると、再びバロムに噛みついた。
「あなたは利己的に考えすぎだ、あの霊力を嘗めないほうがいい。普通の人間が相手ならば、霊力の前に屈するだけだ」
「そこをあなたたちに、お願いするのですよ。政府が八体の菩薩像を取り壊している間に、地霊及び妖魔の侵攻があった場合は、あなたたちに退治してもらいたいのです」
「ばかなことを、私たちは菩薩像の取り壊しに賛成していない!」
総介の抗議にバロムは呆れ顔を見せる。そして、石頭な妖術士に説明した。
「これだから徳川派の人間は嫌なのですよ」
「なに?」
総介は睨みを利かした。
バロムは呆れた表情で嘆いた。
「今回の提案に反対したのは、あなた以外に女陰陽師さんと元幕臣だった数十名の方です。あなたは日本を護るために、闇乃翼で厳しい修行をしたのでしょう。この提案が嫌だということは、あなたは妖魔に恐れをなしているのですか?」
「違う。私が反対する理由は、意図的に妖魔を使って結界を打破し、陽魂寺の扉を開ける者がいることを懸念しているのです」
「それは、女陰陽師さんの意見と同じですね。彼女は妙見菩薩像に妖魔が襲撃した痕跡があると主張して、菩薩像の必要性を訴えていました。だが、あの人は反対派の旗頭です。きっと裏があると思います」
「裏とは?」
総介は眉を顰めた。
なんと、この占術士はとんでもないことを口にした。
「彼女はペテン師です。自分が召喚した式神を使って菩薩像を襲撃したのです。そして菩薩像の霊力で妖魔を撃退したという三文芝居を演じれば、周囲の人間は菩薩像の必要性を理解してくれるという安易なことを、画策していたのでしょう」
「バロムさん、あんたって人は!」
従妹をペテン師呼ばわりしたこの男に鉄拳を食らわしてやろうと、総介が立ち上がった。
「総介、落ち着け!」
ロバートが血気盛んな妖剣士を宥める。そしてバロムに忠告した。
「ミスター・バロム、あなたも口を慎んだ方がイイ。彼女を侮辱することは、私たちを侮辱するのと同じダ!」
あっけらかんとした態度でバロムは詫びる。
「ソーリー、それだけ絆がしっかりしているということですね。お詫びに、戦勝を祈願して、簡単な占いをお見せしましょう」
「占いかね?」
海舟が口を挟んだ。
占術士以外の者が眉を顰めた。
「はい。テーブルターニングを応用した占いを行いますが、まず卓子の上にある食器類を片づけてもらわないと、できません」
「これは面白いことになってきたな。おい女将、来てくれ!」
興奮を隠せない海舟は、急ぎ足でやってきた女将に、鍋と食器類の片付けを指示した。
食卓が綺麗に片付いたのを見たバロムは、ジャケットのポケットから出したカードの束と一枚の金貨を卓子に置いたあと、白いハンカチを食卓に広げた。ハンカチには六芒星が黒く染め抜かれている。
バロムはカードの束を手にして説明を始めた。
「これはタロットカードといって、相性・運勢・恋愛など様々なことを暗示します」
バロムは大アルカナという二十二枚のカードを選び、食卓の上で混ぜ合わせる。そして、綺麗に束ねたカードを横一列に並べた。
まるで自分の手足の如くカードを操る占術士の技術に、周囲の目は釘付けだ。
「妖術士のおふたりは、この金貨に妖気を注入してくれますか」
総介は眼前に差し出された金貨を受け取ると、親指と人差し指で摘む。そして、全身から発した紅い妖気を金貨に注入した。
総介は妖気を送り終えた金貨をロバートに渡すと、彼も同じ手段で紫色の妖気を金貨に注入した。
一連の作業を終えたロバートは、金貨を持ち主に返した。
「では、始めます」
卓子の向こう側に金貨を置いたバロムは、金貨の上に手を翳すと、何やら呪言を唱えた。
「戦の神マルスよ。明日の一戦を占いたまえ」
呪言を唱えた刹那、食卓が上下左右に激しく揺れだした。
「なんだ、地震か?」
海舟が動揺する。
金貨に視線を向けると、円を大きく描いているではないか。
「どうなっているんだ、これは?」
取り乱す海舟とは対照的に好奇心旺盛の慶喜は、食卓の上下を忙しなく観察している。
慌ただしい二人をバロムが制した。
「落ち着いて下さい。この激しい揺れの原因は、マルスと妖術士たちの力が強大だからです、決して地震ではありません」
バロムの言う通り、建物が揺れているわけではない。占術士の言葉を聞いた二人が平静を取り戻すと程無く、食卓の揺れが収まり、同時に金貨の動きも止まった。
これからどうなるんだ?
総介の掌は汗で滲んでいた。
テーブルターニング(召喚した低級霊を、物質に閉じ込める魔術)を応用した占いとはいえ、戊辰戦争では官軍に勝利をもたらした占術士の腕は、此処にいる誰もが気になる。
なぜならば、ロバートとバロムの二人を除いた者は、官軍と戦い敗れ去った男たちだ。戦勝請負人の技術に熱い視線を送るのも納得できる。
動きが止んだのも束の間、なんと金貨が再び左右に動きだしたではないか。
まるで自分の意思で動いているかのように、カードに突進した金貨が激しくエッジを叩く。その反動で一枚のカードが占術士側に出ると、三度、金貨が左右に動きだす。これら一連の動作を六回も繰り返した。
金貨が選んだ六枚のカードを回収したバロムは、それを六芒星の頂に置いた。
「この占いで使う六芒星の頂にはそれぞれ意味があり、右横は『過去』、右斜め下は『現在』、下は『出来事の原因』、左斜め下は『障害』、左横は『結果』、上は『未来』を暗示します。今からカードを右から順番に捲ります」
バロムがカードを捲った。絵札には、聖杯を両手に持つ天使が、清らかな水を聖杯から聖杯へと注いでいる姿が描かれている。
周囲の熱い視線を気にすることなく、バロムは矢継ぎ早にカードを捲る。最後の一枚を捲り終えた占術士が事を告げた。
「結果が出ました」
占術士が一枚ずつカードの意味を説明した。
「カードの絵柄には正位置と逆位置があって、それぞれ意味合いが異なります。基本、正位置は前向きな意味を、逆位置は悲観的な意味を表しますが、カードによっては意味が反対になるものもあります。ちなみに、『過去』を暗示するカードは、『節制』といい、精神的なものと物質的なものを、巧く制御する意味がありますが、現在このカードは逆さまになっています。あなたたち二人は、過去に最愛の人を失い、自暴自棄になった経験があるということです」
当たっている。
総介は占術士の能力に舌を巻いた。九年前、朝日峠で遭遇した妖術士と共に散った源三郎が、脳裏に甦ったのである。
ロバート!
総介は我に返った。
総介はロバートの過去を知らない。彼の家族構成、そして彼が幕末の日本を訪れていたことも。
一体、何があったんだ?
総介は横目で相棒を見る。彼は顔色を変えることなく、占術士の話を聞いている。
占術士の話は『過去』から『現在』に移った。
「次は、『現在』を暗示するカードです。これは『運命の輪(正位置)』といって、その名の通り、過去・現在・未来で起きる運勢の良し悪しを意味します。あなたたちは、コンビを組むことで人生の転換期を迎えています。そして、ここからは思わしくない結果ですので、肝に銘じて下さい」
バロムが告げると、皆が姿勢を正した。
「まず、『障害』と『原因』です。前者を暗示するカードは、『審判(逆位置)』で、後者は『戦車(逆位置)』です。どちらかが冷静になれず、戸惑い、もしくは巧く感情のコントロールが出来ないことで、トラブルが起きるかもしれません。そして『結果』を暗示しているカードは、『死神(正位置)』です。今回の仕事は失敗する可能性が高いです」
この結果を聞くや否や、普段冷静な慶喜がバロムに吠えた。
「こんな馬鹿な話があるか!」
「落ち着いて下さい、まだ話は終わっていません」
慶喜を宥めたバロムが、話を続けた。
「最後に、『未来』を暗示しているのは『月(逆位置)』です。これは夜を指しています。夜というのは、人間が持つ潜在能力を解放するのに最も適した時間帯です、気持ちを切り替えるのに丁度いいでしょう。この場合は、心の悩みが消え、目的をはっきりすることができるという意味を表しています。任務を失敗することで、何かを掴むかもしれません」
慶喜ではないが、こんなふざけた占いがあるかと、総介は口に出すところだった。
総介はロバートに目を向けた。なんと、クスッと笑みを浮かべているではないか。それは何を意味しているのだろうか?
占術士が澄まし顔で一同を見渡した。
「いかがでしたか? この結果をご覧になって、何か感想があれば仰って下さい」
慶喜と海舟は言葉を失っている。
張り詰めた緊張が空気を重くしている。すると、重苦しい雰囲気を打破する言葉が相棒の口から出たのである。
「私たち闇乃翼は、占いを信じる者などいません。特に、テーブルターニングという子供だましが我々に通用すると思いまスカ?」
不敵な笑みを浮かべるロバートを、慶喜が制した。
「甘く見るな、ミスター・バロムは官軍に勝利をもたらした方だぞ。作戦を練って戦いに臨まないと、手痛い目に遭うぞ!」
戊辰戦争の功績がある占術士の実力をまざまざと見せ付けられた慶喜と海舟が、畏怖している。
総介は、自身に発破を掛ける意味合いも含めて、占術士に告げた。
「我々を見くびらないで下さい。運命は自分で拓くもの。あなたの占いが間違っていることを証明してみせます!」