第一章 ロンドンからの帰還(3)
「総介様、私は政府が憎いのです。彼らは四民平等という謳い文句を掲げて維新を成し遂げました。しかし、国民の困窮が改善されず、いつまでも富裕層との格差を縮めることができません。これが倒幕をしてまで手にしたかった時代なのでしょうか?」
「沙那、落ち着け」
総介は、熱り立つ沙那を宥める。しかし彼女の思想は、制動装置の効かない蒸気機関車そのものだった。
「長年、苦楽を共にしてきた一門を死に追いやった政府を許せません。必ずや、あの者たちに正義の鉄槌を下しましょう」
「馬鹿なことを言うな! 藤九郎殿らは御家再興を託したのであって、自分らに代わって政府に報復しろと言ったわけではないはずだ」
「分かっております。けど、私の心に灯る復讐の炎が強くなるたび、父と母、そして門弟たちの御霊が、それを抑えようとしているのです」
肺肝を披いて苦衷を訴えた沙那の両手が、白衣の襟元を掴む。それを大胆に広げると、白襦袢がむっちりと膨らむ乳房の上には、琥珀色に輝くペンダントが見える。
「桜宮家の形見です」
沙那が、ペンダントトップを総介に見せる。
この楕円形の鉱石は十六年前、異人館の建築ラッシュに沸く横浜元町界隈を、新婚旅行で訪れていた桜宮夫妻が、神々しく光る鉱石を道沿いで、発見したのである。
それが強力な妖力を宿す物と知った藤九郎は、元町に住む外国婦人が身に着けている装飾品に加工して、妻・由菜に贈ることを思い立ったのである。理由は、虚弱体質な妻の体質改善を考慮してのことだった。
これによって、奥底に眠っていた妖力を解放することができるようになった由菜は、治癒術士の技能も向上した。
日本の覇権を懸けた戊辰戦争においては、新時代を見据えて、より多くの人命を救出しようと立ち上がった桜宮夫妻が、上野、会津の両戦地に赴いて、敵も味方も関係なく戦傷者を献身的に看護したのである。
特に藤九郎は、新時代でも陰陽道を活かしたい、という思いが一入だった。
ところが、戊辰戦争終結から程無くして、由菜が過労で倒れたのである。
晩年は闘病生活を送りながらも、治癒術士を志す娘の指導に当たった。
それから四年余の明治六年(一八七三年)十月十三日、由菜は今際の際に魔石を佐那に託した後、家族に看取られながら、三十八歳で逝った。
沙那の声は涙で潤っていた。
「人間の命を代償に魔力を与える魔石とはいえ、母の魂いや――、桜宮一門の魂が宿った遺品です。家族の言霊が、私の暴挙を止めさせようと、必死に訴えてくるのが、分かります」
齢十六で一族の死別を経験した沙那の心には、報復という形で政府に正義を翳す歪んだ思想と、逆賊者でありながら日本を破滅から救い出す使命感という、二律背反な思考が蠢動していた。
そんな従妹の苦悩を知った総介は、彼女の半生と自分の半生を重ね合わせた。
戊辰戦争で父・源三郎を亡くした総介は、親父を守れなかったという悔恨の念に苛まれた。
そして、とうとう心に悪魔を覚醒させてしまった。
それは、新時代に嘆き悲しみ、疎外感を抱いている士族を集結させ、維新転覆を画策した。
ところが、いざ決起しようとすると情緒不安定になり、体調を崩すようになった。
病に伏せていた総介を見舞った海舟が、暫し談笑をした後、維新転覆の話を追及してきたのである。
悲壮に満ちた海舟の瞳は、総介の心に深く刻まれた。
胸の内を明かした総介は、大粒の涙を溢すと、深々と土下座をした。
「複雑に入り組んだ心が直らなければ、おまえの人生は何も変わらない。荒治療だが、英国で妖術と心を磨いてこい」
海舟の計らいを受けた総介は、異国の地で妖術修行することを決意した。
あれから七年が経過した。
憎悪に蝕まれた総介の心は、弱者を労わる慈悲の心によって中和された。が、相反した感情が、今も交錯している。
闇乃翼で知り合った召喚士のロバート・エリックが、無慈悲な目でこちらを窺っている。
従妹に次いで、今度は相棒の様子もおかしい。
その冷たい瞳は、従兄妹のやりとりを、ただ傍観しているというよりも、沙那の胸元に輝くペンダントに向けているようにも見える。
すると、彼は我々の何かを見て確信したのだろうか、冷ややかな笑みを浮かべている。
「どうした?」
総介は巨像の傍で佇む相棒の元へと歩み寄った。
このとき、ロバートがさり気なく視線を外すと、周囲をキョロキョロと見渡した。
「肝心のヨウコンジは何処ですカ?」
すっかり沙那との話に熱が入り過ぎた。
「本堂はこちらになります」
沙那が二人を先導した。
平面五角形の赤い屋根に正五面体の白壁、十六尺五寸(約五m)を超えたこの建造物こそが、黄泉の国の玄関口である陽魂寺の本堂だ。
三人は木扉の前に立った。扉は錠を掛けている。
木扉を見た総介は違和感を覚えた。
扉が新調されている。
総介は息を呑んだ。
複数の妖魔が下界へ脱出した際に扉を破ったのだろう。
総介の心の内を察したのか、錠を解いている沙那が悲しい表情で嘆いた。
「妖魔に結界を破壊された後、急いで扉を変えました」
「扉を修復したのはいいが、本堂に異変はないのか?」
「異変はございません。しかし、弱まった霊力で封印ができるのは時間の問題です」
扉を開いたあと、三人は大広間へ足を踏み入れた。
大広間の中央には家康の木像が置いてあり、その背後には扉がある。それを開くと、黄泉の国に通ずる橋があるといわれている。
霊魂の安住の地といわれる黄泉の国は、魔界への道が通じており、鬼畜所業な霊魂は魔界に堕ちるのである。
魔界と下界を断ち切るため、扉は桜宮家代々の妖力が注がれた錠が掛かっている。
しかし、その錠も扉も壊され、今は無い。佐那が新たに妖力を錠に注いで扉を閉めた。
ロバートが顔を輝かせながら、右へ左へと見回っている。
眩い装飾品は一切置いておらず、寂しい広間だ。それでも異国人には受けが良いらしい。
その光景を見ていた沙那がクスッと微笑んでいる。
「木像と扉は触るなよ」
総介はやんわりと警告した。
そのときだった、禍々しい妖気を感じた
「沙那、いきなりで申し訳ないが、再会の余韻に浸っている場合ではない。ロバート!」
「そのようデスネ。外から三体の邪悪な妖気を感じマス」
三人は足早に本堂を出た。
総介は本堂の屋根を見上げた。
そこには、邪悪な妖気を漂わせる漆黒の生物が三匹も姿を現した。
小魔獣だ。
紅玉色の鋭い目と、長く突き出た顎を持つ、その妖魔のパックリと開いた大きな口から著しく発達した上顎犬歯が見える。下級妖魔とはいえ、高を括ると命の危険にさらされる。
「血腥い」
掌で鼻を押さえる沙那が口にした。
彼女の言う通り、舌なめずりをする妖魔の体臭は、幾人も殺してきた証し、と言わんばかりの血臭が鼻腔を刺激する。
「二人とも、見とれている場合ではないデスヨ」
注意を促すロバートが、すかさず正面に構えた両手で輪を作る。そして、呪言を呟く彼の妖気が徐々に高まってきた。
「とりあえず沙那は、あの巨像の防護を頼む。あいつらは俺たちが倒す」
沙那が、巨像に駆け走った。そして、懐から護符を取り出して、再び身構えた。
奴らは知性のない妖魔だ。我々を闇に葬って、妙見菩薩像を破壊する駒にすぎない。当然、その駒を手なずける黒幕がいるはずだが、一体、何を企んでいるんだ?
思考を巡らせる総介は、魔刃丸の柄を懐から取り出す。そして妖気を柄に集中させると、鍔から炎の刃が放出した。
総介は炎の剣を八相に構えると妖魔と一定の間合いを保ちながら、摺り足で巨像の前に移動した。
後の先をとる。
敵の攻撃を受け流しながら相手の能力を分析していくことが、千年の歴史を誇る有馬妖刀術の神髄だ。
先に動いたのは一体の小魔獣だ。三人に向けて目潰しの呪いを放ったのである。
「暗闇ノ中デ藻掻ケ、暗黒瞳」
漆黒の靄が三人の視界を襲った。
「きゃあ!」
金切り声が上がるなか、総介はいたって冷静だ。
目を瞑り呼吸を整えた総介は、体に宿る妖気を脳に送った。
有馬妖刀術・心眼乃術
靄で敵の姿が見えないなか、頭の中で鮮明に映ったのである。
予備工作を抜かりなく終えた妖魔たちが、こちらに突進してきた。
総介は、小魔獣が持つ鋭い爪を左横にかわした返しに、下からすくい上げるように右脇へ打ち込む。全身が炎に包まれた妖魔は、激しい断末魔とともに炎滅した。
「沙那!」
総介は沙那の様子が気になった。
総介より優れた心眼術を体得しているロバートのことは心配ない。冷静沈着な相棒は風の魔神『暴風鳥人』を召喚した。
「あらゆるものを破壊する風の魔神よ。悪しき者の体を風の刃で切り裂きたまえ!」
そこに現れたのは、猛禽類の頭部と筋骨逞しい胴体を持ち、背中に巨大な翼を生やした人型召喚獣だ。
複数の小さな気流が暴風鳥人の右腕に集まる。そして銀色に輝いた右腕を小魔獣に向けた。右腕から放たれた白銀の弾は巨大な鎌に変化して、妖魔の腹部を裂いた。
妖魔が果てるのを見届けたあと、ロバートが再び両手で輪を作り呪言を呟く。
「太陽神よ、暗闇を彷徨う者たちに光を射したまえ」
太陽光によって総介の視界を覆っていた靄を晴らした。眼に飛び込んだものは、暗闇で手も足も出ない女陰陽師が小魔獣に遊ばれているでは凄惨な光景だった。
出血多量の沙那が、片膝をついて必死に助けを求めている。靄が晴れて形勢逆転といきたいが、今の彼女には荷が重すぎた。
「そ……、総介様、た……、助けて」
「沙那、今行くぞ!」
総介は、小魔獣に突進する。
ところが、青年剣士の行いを妨害する者が現れた。暴風鳥人だ。
「どけ!」
総介は、目の前に立ちはだかる大きな壁を右に抜けようとする。
しかし、暴風鳥人が放った暴風をまともに受けた総介は、七尋(地上十二m)も吹っ飛ぶと、背中から地面に叩きつけられた。
総介の頭の中は真っ白になった。
傷だらけの体をゆっくりと起こした総介は、相棒の暴挙に戸惑いをみせる。
どうして仲間割れをしたのか?
総介は相棒を非難した。
「ど……、どういうつもりだ、ロバート。沙那を見殺しにする気か、せめて彼女の眼に光を照らしてやれ」
「……」
ロバートの返事がない。それどころか、沙那が甚振られているのを、ほくそ笑んで見ているだけだ。
このままでは殺られる。
叩きつけられた衝撃で、手元から離れた魔刃丸を握り直した総介は、再び救出を敢行しようと足を一歩踏み出した。
その時だった、黒装束の襟首を引っ張るかの様な大声が飛んできた。
「総介、手出しは無用だ! 沙那サン、助けを当てにしようとせず自力で斃すんダ。まずは、妖気を高めなサイ!」
「馬鹿を言うな、沙那は俺たちとは違うんだぞ!」
総介の叱責を沙那が遮った。
「いいんです、総介様。私は、あなた方のお力になるための試練だと思って、この戦いに臨んでいます」
すると両手を前方に持ってきた沙那が印を結んだ。
「コォォ!」
呼吸を整える沙那の妖気が高まりだした。
ロバートは明治政府を憎む彼女の気持ちを察して、あのようなことを言ったのか?
ロバートの言動に総介は戸惑いを覚える。 すると相棒は、総介の心を見透かしたかのようなことを口にした。
「彼女の心に持つ正義と悪が今、戦ってイル。どうやら初仕事は、和泉家の妖魔退治だけではなく、彼女自身の心の成長をバックアップすることになりソウダ」
「心の成長……」
総介の脳裏に一抹の不安が過ぎる。
それが現実になった。小魔獣の爪が、沙那の腹部を襲った。
「沙那!」
総介が悲鳴を上げた刹那、沙那の体が琥珀色に輝いた。
「ま、眩しい」
目も眩むほどの強烈な光に、思わず掌で両目を押さえる。それから、光を裂くような断末魔が襲ってきた。
「ウグォォ!」
ようやく光がおさまると小魔獣が右肘を押さえて、悶絶しているではないか。切断された患部を押さえる手から血が滴り落ちる。
沙那の妖気に驚く総介だが、一番驚いたのは術を放った本人かもしれない。
沙那の体を覆う光が少しずつ弱まっていく。光を失った彼女は力尽きて倒れてしまった。
今が好機といわんばかりに、小魔獣が片方の手で沙那に止めを刺そうとしていた。
そこへ、一本の巨大な竜巻が二人を襲った。暴風鳥人が発動した魔術である。
大量の砂塵と共に二人の体が渦を巻いて上昇する。暫くすると、巨大渦から放り出された二人は、頭から地面に向かって垂直に落下した。
「沙那!」
総介が大切な従妹に駆け寄る。
共に落ちた小魔獣は、地面に落ちた衝撃で五体が飛び散ってしまった。何という威力だ、という感想とか、強引な救出劇に頭を悩ませる暇も与えてくれない。
そんなことを考えながら沙那を追っていると、突如、彼女の元に暴風鳥人が突進してきた。
沙那の背面から腕を回して胴体を支え、膝の下に差し入れた腕で脚を支えた召喚獣は、地上に降り立った。
不思議なことに、出血の酷かった患部が完治している。
あの光の影響なのか?
総介は当惑しながら、沙那の手首に触れた。
「気を失っているだけだ」
総介は安堵した。
そこへ、コツコツと乾いた足音が近づいてきた。
ロバートだ。
彼は何を思ったのか、沙那のペンダントトップを握ると、「フッ」と笑みをこぼした。
「ロバート、おまえは一体、何を企んでいる。まるで自分の欲望のために沙那の力を試しているようだ」
「……」
総介の訴えを聞き流すロバートは、沙那を抱きかかえ、向こうに歩みを進める。
「何処に行くんだ?」
総介は訊いた。
「病院デスヨ。このままでは彼女の命に関わりマス。良い病院があるなら紹介してくだサイ」
「……ああ」
風変わりな相棒に蟠りを抱きながら、総介は病院に案内した。