第一章 ロンドンからの帰還(2)
勝海舟邸での会合の翌朝、妖術士たちは魔方陣の中枢を担う陽魂寺にやってきた。
昨日、会合を終えた妖術士たちが屋敷を出る前、ロバートが報酬の話を切り出した。
臆面もなく五十円(現在の価値で約百万円)を政府に要求したロバートに対して、川路は「国家に命を捧げるのは当たり前だ!」と傲然と言い放つ。
警視長の言い分に納得のいかない英国人は、三十分程押し問答を繰り返した結果、とうとう一刻者相手に、首をすくめてしまったのである。
英国での修業時代から七年以上の付き合いのあるロバートが、報酬の有無で態度が一変する利己的な男であることは、今も変わっていない。
明治政府に対して蟠りはあるが、忠誠心のある総介は、内向的すぎる日本人とは違い、枠に捉われないオープンマインドな英国人を見習うべきだと思いながら、事の成り行きを黙って見守っていた。
そんな殺伐とした空気を一蹴したのが、勝海舟である。
「どんな凄い能力を持つ輩でも、腹が減っては戦が出来やしませんよ。旨い牛鍋をたらふく食えるくらいの金子を、お願いしますよ」
軽妙な口調で、青筋を立てる川路の背中を押した。
こうして、口八丁な海舟に巧く言いくるめられた川路は、渋々ロバートの要求を呑んだのである。
本丸跡地と西丸の間にある境内は、徳川歴代将軍の霊廟が設けられていたが、江戸城が明治新政府の支配下になると、廟所は撤廃された。
廟所跡地から東へ五十五間(約百m)の位置に、まるで帝都の街を見守るかのように建つ高さ六十尺(約十八m)の白水晶で造られた巨像は、朝日に反射して虹色に輝く。
背後に日輪を背負い、右手に七星剣を、左手には蓮華を持ち、玄武の甲羅に立つ唐服を着た童顔武将像だ。
日輪によって、より気高さを醸し出す白水晶の巨像が妖術士たちの視界に入る。そして、それに向かって祈祷する、ひとりの巫女を発見した。
「オン・ロボジュタ・ハラ・バヤ・ソワカ、オン・センダラ・ハラバヤ・ソワカ」
真言を唱えた巫女の体から、琥珀色の輝きが放たれる。そして、すうっと体から抜き出た光は球体になって頭上に浮かぶと、導かれるように水晶壁に吸い込まれた。
先程まで虹色に輝いていた巨像が、今度は琥珀色に輝きだした。
ところが突然、巫女の祈祷の声が止まってしまったのである。
二人の足音、もしくは気配に気づいたのか、素早くこちらを振り向くと、右足を一歩前に出して、前傾気味に身構える童顔の彼女が、瞬きもせず大きな目でこちらを睨んでいる。
「何者!」
こちらに向かって一喝する気丈な巫女だが、護符を持つ右手が小刻みに震えているのが分かる。
色めき立つ彼女に優しく一声掛けようと、総介は歩みを踏み出した。
「ちっ、近づかないで!」
巫女が再び一喝する。が、一瞬だが後ずさりする弱々しい一面も覗かせた。
殺伐とした空気を払拭しようと、総介は深呼吸をしたあと、大声で自分の名を巫女に告げた。
「俺は元徳川隠密剣士、有馬総介だ!」
「え?」
虚を突かれた巫女の強張った構えが、緩くなった。それから程無くして、大きな目を見開いた彼女の顔が輝いた。
「まあ!」
構えを解いた巫女が小走りで駆け寄ると、恥じらうことなく総介の胸に飛び込んだのである。
「おっ、おい」
「いつ戻ってこられたのですか? お手紙を下さればよかったのに」
無邪気な子供みたいに、従妹にギュッとしがみつかれる、恥ずかしさと再会の喜悦が入り混ざった気分だった。
千二百年の歴史を誇る陰陽師・桜宮家は、代々将軍家の護衛と天文奏を駆使して、国政を支えていた。江戸時代になると、護衛と国政以外に、この仏像の守護を任されるようになる。
しかし、徳川幕府が倒れて新時代を迎えると、新政府は太陽暦と西洋文明の導入もあり、明治三年に陰陽寮の廃止と共に、明治という表舞台から姿を消してしまった。
現在は、十六歳の沙那が二十四代目の当主として陰陽師の復興に力を入れている。
総介はその後、共に英国から来た相棒を紹介したあと、帰国理由を話した。
「そうですか。やはり政府もあの事を、気に掛けているのですね」
「それはどういう意味だ?」
つい先ほどまで、満面の笑みを見せていた沙那の表情が、暗く沈んだ。
「総介様が英国に留学している間、政府は十年以内に徳川魔方陣を崩すことを決定しました」
「なんだって!」
衝撃が総介の心を襲った。
総介の動揺をよそに、ロバートがすかさず沙那に訊いた。
「そもそも、トクガワ魔方陣とはどの様な魔方陣ですカ?」
「妙見菩薩の霊力と七星菩薩の霊力を合わせた結界です。この力を利用して、地霊の平将門を呼び覚まし、町中に結界を張ったのです」
「ボサツ?」
ロバートは首を傾げた。
それを見た沙那が、自分の背後にある巨像に向けて人差し指を差した。
「これが妙見菩薩です」
「オオ、先程、あなたがこれに祈っていましたネ」
ロバートが目を見開いた。
僅かな来日歴があるとはいえ、『菩薩』と聞いて瞬時に理解できる異国人などいない。
妖術士とはいえ、人間味のある反応に総介は安心した。
ロバートが巨像を見上げながら訊いた。
「沙那サン、これを建てなければいけない程、日本に妖魔が多く出たのですカ?」
「はい。今から二百四十年前、江戸の町に現れた複数の妖魔が、町の破壊と殺戮行為を繰り返して人々を震撼させるようになりました。江戸を守るために立ち上がった将軍様は自ら刀を握り、私の先祖と有馬家の剣士を従えて、妖魔退治を行ったのです」
「オオォ! 勇ましい人たちですネ」
ロバートが感嘆した。
「将軍様たちの活躍で、町を跋扈する妖魔を仕留めることができました。幕府はこの事件を機に、強固な結界を張ることを決意しました」
沙那の説明をよそに、総介は菩薩像に近寄った。
巨像の胸に、縦横二尺(約六十㎝)程の十字傷の他、無数の切創が全身に刻まれ、さらに玄武の顔の半分が削ぎ落とされている。
総介は巨像に手を翳すと、赤紫色に発光する稲妻の様な衝撃波が感覚神経を襲った。
この巨像から発生した妖気は、血流が凍る様な無慈悲な妖気だ。これまで感じたことがないものだ。
今日まで二十九年間、出会ったことの無い強力な妖気に、総介は息を呑んだ。
ロバートが巨像の周囲を、ゆったりとした歩みで、目に届く範囲を細かく見る。そして、再び沙那に質問した。
「この町を守護している徳川魔方陣の中枢は、妙見菩薩像の他にシチセイ菩薩像があるのですネ?」
「はい。正確に言うと、此処の他に、七ヶ所の社寺と霊跡に、菩薩像を建立しています」
「七ヶ所、何故デスカ?」
「そ、それは……」
眉を顰める強面な異国人の対応に慣れていない沙那が、オロオロとたじろいでいる。
総介は助け船を出した。
「そもそも妙見菩薩というのは、北極星を神格化したものだ。星辰信仰だった徳川家は、此処を北極星に見立てると、此処から北に位置する強力な霊力を帯びた場所に、妙見菩薩像を守護する七体の七星菩薩像を建立した」
七星菩薩とは、大熊座の腰から尻尾を構成する北斗七星を神格化したもので、菩薩それぞれに守護星が存在する。
七星菩薩の守護星と建立地は、次の通りだ。
貧狼星の日輪菩薩像 鳥越神社
巨門星の月輪菩薩像 兜神社
禄存星の光明照菩薩像 神田明神
文曲星の増長菩薩像 将門の首塚
廉貞星の依枯衆菩薩像 筑土八幡神社
武曲星の地蔵菩薩 水稲荷神社
破軍星の金剛菩薩 鎧神社
「妙見菩薩の霊力と七星菩薩の霊力が、将門の霊力と合わさることで霊力の均衡を保つ。より、強力な結界を張ることができたのだよ」
「なるほど。三位一体な霊力が働いて町を護っているのデスネ。話が見えてきましたヨ」
ロバートが納得した表情を浮かべた。
ここで総介は様々な憶測をした。
いくら相手が戦闘能力の高い妖魔とはいえ、いとも簡単に侵入を許してしまった背景には、結界の支柱ともいえる三位一体の霊力が、何らかの異変が起きたことで均衡を崩し、結界の効果が薄れてしまった。
そのため陽魂寺を脱出した極少数の妖魔が、自由に下界を出入りすることが可能になった。
こうして今、下界と通じる狭き門をより広げようと妙見菩薩に傷を入れたのだ。
二百五十年以上の間、江戸を守っていた結界が、こうも容易く破られるほど脆いものではないはずだ。
それにしても矛盾している。明治政府は、妖魔の襲撃から日本を守るために妙見菩薩を保護しろと言うし、どういうことだ?
沸々と湧き上がる疑問と禍々しい闇が、総介の心を締め付ける。
それを沙那にぶつけるように、思わず語気を強めてしまった。
「政府が打ち出した方針は、あくまでも十年以内だろ? 何故、こうも容易く妖魔の侵入を許してしまったのだ?」
「三年前、陛下の親拝に当たって、政府は神田明神の祭神だった平将門を境内摂社に遷すると、代わりに大洗磯前神社の配祀神だった少彦名命を勧請したのです」
「理由は、将門が逆賊だったからか?」
「はい。朝敵であり、長年、幕府を支えてきた地霊を祭神として祀るわけにはいかず、近代国家を目指す政府が、古代に日本建国のために働いた少彦名命を祭神にしたのでしょう」
桓武天皇の玄孫にあたる平将門は、父・良将の遺領を狙う平氏一族を鎮めると、疾風怒濤の勢いで関八州の国府を次々と襲撃して、東国の独立を標榜した。
八幡大菩薩の神託を受けた将門は、京都の朝廷に対抗して『新皇』を自称したのである。
この暴挙に怒り心頭の朝廷は、藤原秀郷と平貞盛を将門討伐に向かわせた。
特に貞盛は、将門に命を奪われた国香の長男であるゆえ、新皇討伐に闘志を漲らせていた。
下総国猿島郡石井で、一進一退の攻防を繰り広げていた将門軍だが、天慶三年(九四〇年)二月十四日、両軍の激闘を制する一本の矢が、新皇の額を襲ったのである。
独立国家を宣言して僅か二ヶ月という、あまりにも呆気ない新皇の最期だった。
将門を討ち取った貞盛は、彼の斬首をすると、その首を平安京へ運んで七条河原にて晒した。
三ヶ月経っても腐ることなく、目を見開いたままの晒し首は、失った体を求めて関東地方へ飛び去るも、武蔵国豊島郡芝崎(現・千代田区大手町付近)で力尽きて落下したのである。
首級は当村人たちの手によって、塚を築いて埋葬された。
それから三百六十年後、首塚が荒廃すると、拍車をかけたように、村に疫病が蔓延して、沢山の死者を出した。
将門の怨霊を鎮めようと立ち上がった真教上人は、怨霊を日輪寺に供養し、それを神田明神の祭神として祀ったのである。
あの日から九百三十七年後、江戸を支えた将門の存在を闇に葬ろうとする維新政府の暴挙を阻止しようと立ち上がったのが、桜宮家二十三代目当主・藤九郎だった。
「明治魔方陣案を打ち立てる政府を、我ら桜宮一門は告訴しました。長年、江戸の総鎮守だった将門を排除して魔方陣を破壊する愚かな行為は、日本を滅亡に陥れることだと。ある程度の覚悟はしていましたが、我々の訴えを棄却した政府は逆賊として糾弾してきました」
「それで、藤九郎殿はどんな対応を見せたんだ?」
「逆賊の汚名を着せられた名門一族へのケジメをつけるために、私と門弟たちを引き連れて三日間、神田明神の社殿に籠もりました。そして、桜宮家の将来を私に託して、門弟と共に姿を消した父は、奥多摩で集団自決を行いました」
「なんということだ……」
絶句する総介を襲った強力な衝撃波が、彼の心に風穴を開けた。
夢なら覚めてほしい、と願う妖術士よりも、現状を真摯に受け止めた沙那は毅然としている。
しかし、沙那の口から発せられた重々しい言葉は、桜宮一族を破滅に追い詰めた政府に対する復讐心で満ちていた。