第四章 陽魂寺の死闘(4)
陽魂寺の山門に足を踏み入れた男女三人を、生温かい風が出迎えた。つい先程まで、この近辺に生き物が蠢いていたということを知らせる風の伝言なのだろうか。
「何だ、これは?」
ふいに地面を見た慶喜が、言葉を発した。
暗闇の中とはいえ、この地面から発する獣臭と血腥い臭いは特別だ。妖術士の壮絶な戦いを物語っていた。
慶喜は胸が引き締まる思いに駆られた。
「先を急ぎましょう」
海舟が促した。
三人は闇夜の中へ消えた。
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月光に照らされた妙見菩薩像が見守るなか、麓では有馬総介とバロム・ロビンソンが対峙している。
「よくぞ私に付いてきたな小僧。褒めてつかわす。まずはあれを見よ!」
「沙那!」
総介の視界の先に映ったのは、陽魂寺の本堂だ。大扉の前には寝台が設置してあり、その上に沙那が横たわっている。
総介はドスの利いた声で問い詰めた。
「貴様、沙那に何をした?」
「眠らせただけさ。この女には、これから行う魔界隧道の開通に力を発揮してもらわないとな」
グッタリしている沙那の元に、総介は近寄った。彼女の頬に触れようとした瞬間――
バシン!
手首の骨が砕けそうな衝撃波に襲われた。
「グゥ……」
総介は目を見張った。
沙那の周囲には強力な結界が張ってある。
怯んだ隙にバロムが呪言を唱えた。
「ボギラメンコンザ、ボギラメンコンザ」
青白い鬼火が無数に現れた。そして、バロムの頭上に集まった鬼火たちが、円を描くように回転して光輪を作ると橙色に変色した。
「その術は……」
それを見た総介は体を震わせた。それは、九年前に起こした水戸街道逃亡劇が脳裏に去来した。
バロムが冷笑した。
「思い出したか。あの時は戦の怖さも知らぬ小僧だったが、少しは成長したようだな」
「あの時、おまえは父上と消滅したはずだ!」
「ケケケケ――、私は影武者を自由に作ることができる。つまり、おまえの親父は影武者と共に犬死にしたということだ」
バロムは高らかに笑った。
「父上が犬死にだと……」
総介は魂を抜かれた感覚に陥った。
総介が悄然としているなかで、バロムは土偶武者を召喚した。
バロムが号令を掛けた。
「行け、総介の首を取ってまいれ!」
無数の土偶武者が、総介を襲撃した。
真実を受け止められない総介は困惑した。
しかし、妖剣士の具合がどうであれ、武者たちの攻撃は容赦ない。
妖刀が総介の上腕を斬りつける。
「ウグッ」
総介は傷口を押さえると、苦悶の表情を浮かべる。
総介は、手にしている魔刃丸に妖気を込めた。燃え盛る炎が夜空を突く。
総介は土偶武者に斬り込んだ。
しかし、いとも簡単にかわされてしまう。動揺した総介の判断力が鈍り、冷静に敵の動きを見切れていない。
総介は背後に殺気を感じた。武者が背中を斬りつける。しかし、背筋を弓反りした妖剣士は、間一髪難を逃れた。
バロムが高らかに総介を挑発する。
「悲しいよな、父上が犬死にするなんて。同情するよ、総介」
「おまえに何が分かる。誇り高き有馬家の当主が、影武者とも知らず自死した悲しさが分かるか!」
「その生意気な目が気に障るんだよ!」
バロムは飛膜で腹部を覆う。数秒後、腹部を覆っていた飛膜を開くと、巨大な銛のようなものが襲ってきた。
銛は総介の左太ももを突いた。
「グフゥ」
左太ももから夥しい血を流す総介は、片膝をついた。
「さあ武者たちよ、この男はもう限界だ。ここは武士の情けで、止めを刺そうではないか!」
バロムの号令によって、武者たちが歓声を上げた。
四体の武者が舌なめずりをしている。
もはやこれまでか……。
総介の心が折れかかった。
その時だ。
複数の巨大な溶岩弾が、こちらへ襲ってきた。
溶岩弾を受けた武者たちの体が激しく燃え盛っている。
総介は夜空を見上げた。彼の目に映ったのは、巨大な爬虫類に翼を生やしたような召喚獣、天翔火龍だ。
「何者だ!」
バロムは吠えた。
暗闇から現れたのは、祭服の一部が赤く染まった召喚士ロバートだ。
厳しい戦いを強いられたロバートは、顔色ひとつ変えず、総介に檄を飛ばした。
「総介、何やってんダ。早くバロムに一撃を加えるんダ。それができなければ、おまえは此処で死ね。俺にとっては一石二鳥ダ!」
ロバートが冷笑を浮かべている。
「あの野郎」
不適な面で笑う相棒に刺激を受けた総介の闘争心が漲った。そして、指先に力を込めて、ゆっくりと立ち上がった。
八相に構えた総介は、バロムとの間合いを縮めた。
バロムは冷笑した。
「この間合いでいいのか?」
「無論!」
総介の言葉に応えるかのように、バロムは再度、飛膜で腹部を覆った。そして、飛膜を開くと、巨大な銛が飛んできた。
動きを見極めた総介が魔刃丸で銛の先端を叩いた。
ところが、衝撃を与えた瞬間、銛がまるで生きているかのように破片が分散してしまった。
「手応えがない……」
総介が目を丸くした次の瞬間、分散した欠片たちが、二本の銛になって、背後に出現した。
背後から腰と右肩胛骨を刺された。ズシリと重みに加え、火傷のような痛みが全身に広がった。銛に手を触れると、また破片が分散してしまった。
どっ、どういうことだ?
総介は困惑した。
冷静になれない総介の様子を面白そうに傍観しているバロムが、高らかな声で言った。
「総介、銛をくらった気分はどうだ。私は人間界を制圧するために、数多の人間を殺してきた。この銛がおまえの血を吸いとうて吸いとうて、興奮しているわ」
血を吸う? まさか……。
再度、銛が襲撃してきた。しかし、総介は落ち着いていた。銛に向かって、六芒星を描いたのである。
銛が六芒星に突っ込んだ。不気味な動きを封じた総介は、魔刃丸で銛の尖端部を切断した。
尖端部の燃えかすを拾った総介は、疑惑が確信に変わった。
「やはり、吸血蝙蝠か。こいつなら人畜に危害を加えるだけでなく、伝染病を媒介することもできる」
蝙蝠の死骸を握り潰すと総介はバロムを睨んだ。
「ご名答。私は蝙蝠を自在に操る闇乃道化師だ。幕末の世、私は人間界の潜入に成功した。潜入など、妖気を消せば簡単にできる。もっとも支配級の妖魔ならばの話だがな」
月の明かりが消え、辺りが漆黒の闇に変わった今、バロムはニヤリと笑みを浮かべた。
蝙蝠たちの気配が消えた。
「これぞ秘術・闇中蝙銛殺。暗闇に潜む蝙銛に怯えるがいい」
どんな生物でも呼吸はする。特に動物ならば、血の臭いを嗅げば交感神経が興奮し、獲物を喰らう。しかし、これは呼吸もなければ、興奮もしていない。自分の意思で消しているのか?
総介は慄然した。
静寂な時間が流れる一方で、殺意が籠もった視線が見え隠れする。
左斜向かいから、蝙銛が襲ってきた。
寸前のところで身を翻すも、胸板を引き裂かれた。
蝙銛の容赦ない攻撃を、かろうじてかわしてはいるが、左右の脇腹と大腿部に食らってしまった。このままでは膾切りで最期を迎えることになる。
「そろそろ止めを刺すか」
バロムが右腕を上げた刹那、本堂側から放たれた琥珀色の球体が夜空に向けて飛んでいった。
夜空を背に煌々と輝く球体のおかげで、蝙銛の居場所を突き止めた。なんと、総介の足元に隠れていたのである。
今だ!
懐から竹筒を取り出した総介は、そいつの中身を蝙蝠にぶちまける。
灯油だ。
そして、手製の爆弾を地面に叩きつけると、あっという間に炎の壁ができ上がった。
「おまえたち!」
バロムが目を見開いた。
それにしても、あの琥珀色の球体は、なんだったのだろう。
炎越しに見えたのは、なんと沙那ではないか。慶喜、海舟、そして鶴子嬢の三人に支えられながら、彼女はこの戦いに参戦してくれた。
「総介様、この結界を破るのに、一苦労しましたわ!」
慶喜たちは体を張って結界を通り抜け、沙那を救出した。
目が覚めた沙那は、渾身の力を振り絞って、琥珀の球体を夜空に目掛けて投げたのだろう。月光の代わりになる最適なアイデアだ。
「……総介様、あとはお願いします」
沙那は掠れた声で、総介に託した。
ところが、この行動がバロムの逆鱗に触れる結果になった。
「おまえら、神聖なる地で何をしている!」
バロムが放った蝙銛が慶喜たちを襲った。
「みんな、逃げろ!」
しかし、総介の思いとは裏腹に、慶喜たちはピクリともしない。恐怖のあまり腰が抜けたのか?
「……」
総介は目を伏せた。
その時だった。
眩い光を放つ琥珀色の結界が、四人の周囲を覆った。総介が光の彼方に目を向けると、絶大な妖気が蝙銛を崩壊させていた。
「なっ、なんてことだ」
バロムは動揺している。
その瞬間を見逃さなかった総介は、魔刃丸に妖気を込めた。燃え盛る魔刃丸の刃を天に向けて再度、八相に構える。
「バロム、おまえの野望もここまでだ!」
跳躍した総介は、バロムの脳天に魔刃丸で一撃をくらわす。その勢いを保ったまま胴体を垂直にぶった斬ると、返し刀で胸部を真横に斬り込んだ。
「そんな馬鹿な……」
バロムの体は炎に包まれ、消滅した。
「終わった」
総介は片膝をついた。
総介は本堂の外れに目を向けた。
慶喜たちが腰砕けになっているなか、沙那は地面の上でグッタリとしている。
徐に立ち上がった総介は、地面に足を取られながらも沙那に歩み寄る。
そして、沙那の後頭部に右腕を、両足に左腕を添えると、ゆっくりと持ち上げた。
「戦いは終わったぞ、沙那」
蝋細工のように青白い顔で気を失っている沙那に、そっと声を掛けた。
そして、両腕は焼け爛れ、泥だらけの顔をしている慶喜たちに礼を言った。
「ありがとうございました。ご協力感謝致します」
総介が頭を下げた時だった、鶴子の背中がゆっくりと、慶喜の体へ寄り掛かった。
彼女を抱きかかえた慶喜が叫声を上げた。
「鶴子さん!」
蒼白の顔。まるで魂の抜け殻のように、彼女の手足はだらんと垂れた。
無理もない。未知の敵を相手に、いつまでも緊張感が維持できるわけがない。
「急いで病院に行きましょう」
そう勧めた総介は、ロバートを一瞥した。
真っ赤に染まった祭服姿の男が歩み寄って来た。
「待って下サイ」
血臭を漂わすロバートが佐那の前に立ち止まった。
すると何を思ったか、召喚士は沙那の胸元を強引に開けた。彼女の胸の谷間がはっきりと見えた。
「なっ、何をしているんだ、止めるんだ!」 周囲は騒然とした。
どういうことだ?
ロバートが安らいだ顔をしている。
沙那の胸元を見てみる。琥珀色の魔石が、肉体と一体化している。
この非常事態に冷静な海舟が訊いた。
「総介、これは一体どういうことだ?」
「光の魔術師乃血統石が、沙那を認めたのです。彼女は陰陽師でもあり、光の妖術士でもあります」
「光の妖術士……、あの沙那が」
慶喜と海舟は呆然となった。
ロバートはボツリと呟いた。
「彼女は決して、ひとりではない。彼女の両親とマーガスが見守ってくれる」
そして、ロバートは闇夜へ消えた。