第四章 陽魂寺の死闘(1)
東京は夜の帳に包まれている。
小さな行灯の明かりで木の根に足を取られながら、ざわざわと騒ぐ木立を抜けると陽魂寺の白壁に辿り着く。
祭服姿の男が、山門の大扉を見据えた。
あんな腑抜けでは駄目だ、俺が動くしかない。
ロバートは息を巻いた。
幸い結界は下級妖魔の侵入を防ぐ程度の耐久性だ。苦労せずに破れる。
中位な結界を敢えて敷いたのは妖術士たちの腕を試しているのか。それとも、なんの障害もなく敵を誘うのは面白みがないということなのか?
舐められたものだ。
ロバートは溜め息をついた。
しかし、いつまでも過去の失態を気にしている暇はない。小娘の首にかけたペンダントは間違いなく親父の魔石だ。
それを奪還しないことは名家の存亡も危機に瀕する。
全てはエリック家再興のために。
そのためならば形だけとはいえ総介との交流も上手くいった。奴が日本へ帰国をする際、マーガスが死亡した経緯が判明するかもしれないと、自ら東洋人の相棒を志願した。
そして陽魂寺でひとりの女と出会い、我が目を疑った。
まさかエリック家の魂といえる物を持っているとは……。
まるで先祖の魂が自分を極東の地に手繰り寄せたといっても過言ではなかった。
エリック家は代々、大英帝国の宮廷魔術士として地位を築いたエリート一族だ。
由緒ある一族を継いだマーガスだが、周囲の期待とは裏腹に器用貧乏な一面が垣間見えたことで出世街道から外れた。
妖気が高く術士としての素質も申し分ないマーガスを惜しむ声が上がっていたその頃、日本が二百年以上続いた鎖国を解いたのである。
日本が開国して間もなく、マーガスの腕を見込んだ士長から渡日する観光者四名の護衛を任せられた。
それがエリック家を襲った悲劇の始まりだった。
帰国した親父の亡骸を見た少年に涙はなかった。寧ろ無様な姿で帰ってきた男に遺憾が湧いた。
一族の恥さらしが……
あの光景がロバートの脳裏を過ぎった。
「もう迷いはない」
ロバートはそう呟くと、門扉に両手を翳した。
その時だった。
来るでない。
何処からもなく出てきた男の神々しい声がロバートの耳に触れた。
今の声は?
ロバートは思わず頭を左右に振った。
そして微力な妖気を感じる門扉に視線を向けると琥珀色の光球が浮遊しているではないか。
ロバートは躊躇うことなく球体に手を添えた。
温かい。
両掌から感じた郷愁的な温もりが二の腕を通じて全身に行き届くと思わず微笑んだ。
警戒心を緩めた妖術士に共鳴したのか光球がゆっくりと人型に変形した。
目鼻立ちがはっきりと整った彫りの深い顔に釣り合った巨軀の男だ。
眼前に立つ男にロバートは言葉を失った。なぜならば十二年前、日本で斬殺された実父、マーガスなのだ。
ロバートは当惑しつつも相手を上から下まで舐め回すように見た。
金色の短髪に漆黒の祭服姿は紛れもなく幼き記憶に残っていた父親の面影だ。
険悪な色を浮かべたロバートは突き放すように言い放った。
「何故、あんたがここにいる?」
「軽率な考えで足を踏み入れるおまえを止めに来た」
「どういう意味だ?」
「おまえひとりでは、この先にいる妖魔には太刀打ちできないと言ってるのだ。引き返せ!」
「……」
忌ま忌ましいと不快な顔を浮かべたロバートに怒りが湧き上がる。
ロバートは父を糾弾した。
「何を言っている。十五年前にあんたが失態を犯したせいで、世間から中傷されて家が没落したんだ!」
ロバートの脳裏に辛い記憶が甦った。
村を追い出された母子は各地を放浪したあと、寂れた山小屋で隠遁した。生活は困窮していたが、笑顔だけは絶やさないようにと、親子は明るく振る舞っていた。
しかし、母は重い病を患い死んだ。
ロバートは悲哀の心を払拭するかのように憤然と叫んだ。
「今、俺にできることは、光の魔石を母さんの墓前に捧げること。少しでもあんたの傍に居たかった願望を叶えてやるのが俺の使命だ!」
目を伏せて立ち尽くすマーガスを払いのけようと手を突き出した。しかし、強力な衝撃波が自分の体を襲った。
「どけ!」
ロバートは怒声を上げた。
マーガスは場所を譲らない。そして力なく頭を左右に振った。
「行かせはしない。功を焦るあまりに冷静な判断力が欠けている」
「うるさい! あんたとは違うんだ。むざむざ侍に殺られた者と一緒にするな!」
ロバートは憤然と叫んだ。
獣のような眼光で睨むマーガスの妖気が昂ぶりだした。
キレたか?
ロバートはすかさず両手を胸部に持ってきた。いかなる時でも幻獣を召喚できる構えだ。 いつでも来い。
ロバートが腹を括った次の瞬間――。
マーガスが柔らかな微笑みを見せた。
え?
ロバートは虚を衝かれた。
何故、笑った?
ほんの数秒間、時の流れが止まった感覚に陥った。
我に返ったときには大きな掌が視覚を遮った。前頭部を鷲掴みにされたのだ。
「な……、何をする」
マーガスの右腕を剥がそうと両腕を上部に掲げるも実体がないものを掴めるわけがない。
霊体とは思えない重々しい腕力だ。
「は、離せ!」
ロバートが藻掻いたその刹那、春陽を思わせる温もりが頭頂部を覆った・
こ、これは……。
体から力が抜けていく。
しかし、決して魂を吸い取られていくわけではないので不快な気分ではない。が、妖気が吸引されていく感覚に間違いはなかった。
脳が重くなってくると目が霞んできた。
こ……このままでは。
祭服の内ポケットを急いで弄ったロバートは、右手に掴んだある物をそこから真上に振り上げた。
鋭利に磨かれた刃渡り五寸(約十五㎝)の小刀だ。
朦朧としながら左手を胸に持ってきたロバートは刃先を掌に合わせた。そして深呼吸をついたあと、刃を降ろした瞬間――。
「落ち着け!」
マーガスが発狂した。
なんと、稲妻のような衝撃波が襲ってきた。
全身が裂ける程の痛みで手にしていた小刀が後方に飛んだ。
やがて痛みを優しく癒やす妖気が全身を覆った。
ロバートは再び睡魔に襲われた。
「暫らく眠ろ、そして夢で見た光景を脳裏に焼き付けるのだ」
光……景……だと?
親父の言葉を胸の内にしまったロバートは意識が飛んだ。
****
ロバートの魂は異境の地に降り立った。
「此処は?」
周囲を見渡すと萱葺き屋根の農家がひしめく集落だ。ここで異様な光景を目の当たりにした。
半合羽姿の男と羽織姿の男そして、小袖姿の女たちが道端に膝を付け上半身を前方へ屈めている光景が、ざっと見ただけで一町(百九m)以上続いている。
キャアア!
けたたましい金切り声が耳を劈く。
ロバートは声の出所に振り向いた。
洋装姿の男が馬上から落下したのだ。
男の素顔をハッキリと見ることができなかったが、淡い金髪に白い肌は間違いなく欧米人だ。
ロバートは金髪男の異変に気付いた。
何かに怯えている。
ロバートはその男の視線を追った。
金髪男の前には紋付羽織袴の侍が刀を手にしている。
ロバートは息を呑んだ。
刀を振り上げた侍が躊躇することなく金髪男の頭部を目掛けて刃を振り下ろした。
「やめろ!」
ロバートは絶叫した。
突如、侍が刀を手放した。
いや、何の考慮もなく手放したというのは不自然だ。よく見てみると、侍が右手首を掴んで苦痛に顔を歪めているではないか。
侍の元に祭服姿の男が現れた。
漆黒の祭服を纏う男を見たロバートは瞠目した。
「あの男は、まさか……」
ロバートの唇が震えた。
祭服男の背後には馬を跨ぐ欧米人が二人、空馬が一頭、その傍で尻餅をついている金髪男がひとりいる。
純白のドレスを着た婦人の怪我は無さそうだが、彼女に付き添う紳士帽子を被った男が片腕を、金髪男が脇腹を押さえている。指の隙間から血が滴れ落ちているではないか。
未曾有の出来事に恐れ慄いている。
この状況をいち早く脱したのは婦人だ。
パニックに陥った彼女に向けて従者が避難するよう促したのである。
婦人は真っ青な顔をして馬を駆った。
抜刀した侍はひとりだけではない。七名の侍がじりじりと祭服男を追い詰める。
行楽人を相手に抜刀するとは、下劣な者め!
ロバートは怒りに震えた。
祭服男が狂気に満ちた侍たちの出方を窺いながら左手を後方に翳した。何やら言葉を呟いている。そして間もなく、二頭の馬に向かって妖気を飛ばした。
馬が激しい奇声を上げると勢いよく体を仰け反らせ前脚をばたつかせた。
周囲が駻馬を相手に動揺している。
異常事態に慌てふためいた騎手が馬体にしがみつく。そして、祭服男の意思を受け取ったかのように、馬が力強い脚力でその場を離れていった。
この場に残ったのは、祭服男と深手を負った金髪男に空馬だ。
祭服男と重傷者との間に二人の侍が陣取った。
これでは救助に行けない。
決して卑怯な作戦ではない。仲間との連携を封じるのは戦術の定石だ。
抜刀者の背後に控えるのは百名を超える一兵団だ。こいつら全員を相手にしていたら埒が明かない。
どう切り抜ける?
ロバートは固唾を飲んで見守ることしかできない自分に歯痒さを感じた。
祭服男が前方に向けて両手を翳すと呪言を唱えだした。
術士との間合いが二mまで接した三人の侍が斬りかかった。
祭服男の体から発生した妖気が衝撃波となって侍を返り討ちにした。
侍は苦痛で顔が歪む。殺傷能力はないが相手が怯んでいる隙に負傷者を救助することが可能だ。
妖気はやがて術者を守る結界になった。
腹部の出血で過呼吸に陥っている負傷者に向けて一歩また一歩と前進していく。
目に見えぬ不気味な力に畏怖する侍たちがじりじりと後退していく。
負傷者との距離があと三mまで迫った。
その時だった。
空気を裂いた破裂音が轟いた。
なんだ、今の音は?
ロバートは音の出所に目を向けた。
あの乾いた破裂音は小銃だ。
祭服男を囲っている抜刀隊が身を屈めている。しかし雑兵どもは物怖じせず持ち場を維持していた。
何故、無警戒なんだ?
ロバートに胸騒ぎが昂ぶりだした次の瞬間、二発目の銃音が耳を劈いた。
祭服男が重い呻き声を上げて片膝を着いた。
「父さん!」
ロバートは悲鳴を上げた。
祭服男が右脇腹を押さえて苦悶を浮かべる。傷口を押さえていた左手が真っ赤に染まっていた。
ロバートは再び周囲を見渡した。
二発目の銃音を思い返してみると、祭服男を襲った銃弾は、一発目とは逆方向から放たれたものだ。人壁に動きがなく狙撃者を捉えることができない。
結界は完璧なはず、しかし一発目の銃声が抜刀隊に対する行動の合図であり、敵の警戒心を打破するものだった。
過去の出来事とはいえ、無駄のない動きと優れた団結力に脱帽せざるをえなかった。
地面に尻を着いた負傷者を救助する者はいなくなった。
まず、ひとりの侍が祭服男の左肩から右胸部にかけて斬り込みをいれた。傷口は激しい勢いで鮮血を撒き散らした。
祭服男の顔色が蒼白になった。
欧米人も左首筋から右胸部かけて一太刀浴びた。二本の血柱が天高く飛んだ。
「と……、父さん」
ロバートは絶句した。
父の最期を見届けなければいけない。わざわざ汚点を息子に見せるのだから、必ず意味があるはずだ。
ロバートは自ら使命を課すが、胸に沸々と哀感が湧いてきた。
欧米人は絶命した。
その後、兵士団は隊列を整えると何事もなかったかのようなにその場を離れた。
ゾロゾロと歩み進めていく一方でマーガスは匍匐姿勢で亡骸に接しようとしている。その動きは重々しく今にでも命の灯火が消え入りそうだ。
親父の魔術師乃血統石を見れば分かるが輝きが薄れている。術士の命が尽きれば魔石は自然に手の甲から剥がれ落ちる。
マーガスは迫り来る死を体感しながらも懸命に右腕を伸ばし、ようやく死体に触れることができた。
そして残りカス同然の妖気を必死に送るも呼吸が荒々しく律動が一定していない。これでは、全ての妖気を相手の体内に注ぐことは不可能だ。
死んで間もない者に妖気を送れば蘇生は可能だが、術者の命を患者に捧げる覚悟がなければ施術は成功しない。
それでも粘り強く妖気の注入を続けるが、妖力が尽きた親父は地面に頭を伏せた。
手の甲からゆっくりと剥がれた魔石を見た瞬間、ロバートの胸に燻っていた悲しみが爆発した。
「父さん!」
瞳から溢れ出た生温かい水滴がゆっくりと頬を伝った。
涙!
止めどない涙で視界がぼやけだした。
父への軽蔑心が強く涙を流さなかった男が初めて父のために泣いた。
涙を拭ったロバートは再び正面に顔を向けると周囲が闇に染まっていた。
「此処は?」
ロバートは目を見張った。
すると視界を遮る琥珀色の光球が現れた。「父さん」
光球はロバートの声に応じるかのように、人型へ変形した。
厳つい体には相応しくない優男が姿を現した。
ロバートは心に燻っていた疑問を投げた。
「ひとつだけ分からないことがあった。何故、抜刀隊に囲まれたとき妖力を加減して攻撃をした。あんな狂気な集団ならば全力で挑めば、あんたの命もそうだが被害者の命も助かったはずだ」
「おまえの言うとおりだな。だが本気で相手を打ちのめしていたら大きな戦争になり、この集落で生活をしている村人たちが巻き添えになっていただろう。私の命よりもまずは人々を争いに巻き込まない環境を作ることが大事だ」
「父さん」
ロバートは驚嘆した。
「私は私利私欲で任務を受けたわけではない。日本を観光していた客人と一緒に文化を学び現地の者と交流を深め、ゆくゆくは日本と英国が文化交流の架け橋になるという壮大な目的があった。だから戦争なんてもってのほかだ」
闇の世界を生きる者は『人命優先』、『異国との絆』という概念がない。それでも自分の信念を貫いた彼らしい生き方だ。
「おまえはまず私利私欲を捨てて、冷静に周囲を見るんだ。軽率な行動で人質を救出できると思ったら大間違いだ。それどころか、おまえと共に闘おうとしている仲間の足を引っ張るだけだ」
「仲間……だと」
ロバートは胸にザクッと釘を打たれた感覚に陥った。
「隠さなくてもいい、全てお見通しだ。その男とは祖国が違うとはいえ、おまえに似た境遇を辿った東洋人だ。確かに能力だけを見ればおまえより劣り、そして私に似て甘い性格だ。しかしひとつだけおまえには無い優れた能力を持っている」
「俺に無い優れた能力?」
ロバートは眉を顰めた。
「それは慈悲の心だ。どんなに強力な妖気を駆使した者も慈悲の心が解放された者には勝てない」
「俺でもか?」
「残念だが……」
ロバートは顔を俯かせると右手を強く握り締めた。
確かに総介の潜在能力の高さを感じさせる状況が幾らでもあった。氷壁の崩壊と奴から浴びた一太刀がそのことを物語っている。
それも慈悲の心が作用しているというのか?
ロバートは総介の計り知れない妖力に畏怖した。
ロバートの心境を察したのか、マーガスは一言告げた。
「どうしても東洋人を超えたいというならば、ひとつだけ方法がある。それは命を省みることなく仲間の窮地を救う義理を貫き通すことだ」
「義理……」
「そうだ、おまえの相棒は妖術士には相応しくない繊細で温厚な性格だ。だから、少しの異変に動揺して任務を失敗した。東洋人の甘い性格を受け容れず袂を別ったおまえはこの場に足を運んだが、あの男も暫くしたら姿を見せる、腹を括ってな」
「そうか、とうとう青二才が覚悟を決めたカ」
ロバートは目尻に微かな小皺を漂わせて冷たく笑った。
マーガスが温かみのある口振りで総介を擁護した。
「あの男もまだ若く、精神力が発展途上だ。それでも、仲間の窮地に駆けつける義理と慈悲が渾然一体になった理想の妖術士だ」
「理想の妖術士だと?」
ロバートは目を見開いた。
そして、マーガスを睨み付けたその刹那、親父の足元がジワリジワリと時間をかけて消滅していく。
「私は暫くの間、彼女の体内で世の行く末を見守るよ。間接的とはいえ、あの娘を立派な術士にするのが私の使命だ。それも悪くない」
マーガスの体が黄金の光に包まれた。
「私が言えるのはこれだけだ。あれから十二年が経った今、こうして息子と再会できるなんて夢にも思わなかった」
「父さん」
しみじみとした哀愁がロバートの身を包んだ。
「二人の健闘を祈るぞ」
そう言い残した親父の魂は気泡が弾けるように消滅した。
霊魂が消えてから間もなく、重い瞼を開いたロバートはゆっくりと体を起こした。
頭がスッキリして体が異常に軽い。
周囲を見渡すと全く様変わりしていない。
ん?
マーガスは異変に気付いた。
強力な妖気がこっちに迫ってくる。
力強く不屈な妖気だ。和泉邸での弱々しい妖気とは違う。
「まさか……、あの未熟者がここまで変わったか」
ロバートは驚嘆した。
未知数な妖力を持つ相棒への焦燥感と安心感が相まって、ロバートの心に込み上がってきた。