第三章 一族の誇り(4)
「イタタタッ!」
慶喜別邸内では、幼子のような悲鳴が轟いた。
「我慢して下さい、男でしょう」
膏薬を手にする女中が苦笑した。
総介の胸の傷は浅いとはいえ、徳川家秘伝の膏薬は刀傷に効き目がある様々な薬草を調合しているだけあって、鼻につく激臭と心肺を締めつけるような激痛に襲われた。
女中は呆れ顔で尋ねる。
「喧嘩をなさっていたんですって?」
「喧嘩ではありませんよ、修行です。ああやって体を動かさないと妖気が鈍ってしまうんですよ」
「そうですか、お互いに大変ですね」
「それはどういう意味です?」
「こっちはこっちで、和泉家のお嬢さんがご乱心されたのですよ。止めるのに必死でしたわ」
「……そうか、それで今の様子はどうなんだ?」
「縁側に座って、おとなしく中庭を眺めています」
女中は総介の胸に包帯を巻きながら、答えた。
****
街が夕闇に染まる。
有馬家の剣術道場『妖武館』は、大々的な歴史の表舞台に出ることなく、ひっそりと明治維新を迎えた。
館内では、ひとりだけ下座に向かって座禅を組む男がいる。
有馬総介だ。
誰かが、隣に座ったことを総介は察した。
「沙那が人質になると知った時、おまえは親父の二の舞を予期していたのだな?」
勝海舟の声だ。
源三郎の面影を思い出した総介は、海舟の問い掛けに応じなかった。
海舟が声を押し殺して叱咤した。
「源三郎は義理人情に厚い男だった。それでも、悪しき者には決して甘さを見せない非情な一面もあった。これまで、何度も徳川家の窮地を救った親父の血を引く者が、心的外傷ひとつで狼狽してどうする!」
戊辰戦争で数多の死線を掻い潜り、命を賭して慶喜を護った親父の勇姿が、総介の脳裏を激しく駆け巡った。
海舟の声が熱を帯びた。
「おまえの体に流れている有馬一族の血を滾らせろ! 誇りを持って戦え!」
その言葉が総介の心に染み渡ると、心臓が激しく鼓動した。そして、胸の中から込み上がってきた熱いものが全神経を刺激した。
「慶喜邸で待っている」
徐に立ち上がった海舟がそう言い残して場を去った。
****
午後八時、徳川慶喜別邸内の書斎に三人の男が集まった。有馬総介、徳川慶喜、勝海舟である。
ロバートは、とうとう姿を見せなかった。
鋭い目で総介の顔を一瞥した慶喜が、重々しい声で問い詰めた。
「まずは総介、おまえ何か隠しているだろ?」
「……何かとおっしゃいますと」
「沙那のことだ。おまえは以前、他の陰陽師と比較すると、妖気が格段に高いからと言ったな。本当に断言できるのか?」
「それはどういう意味ですか?」
「確かに、沙那に徳川魔方陣の管理を任せている。しかし、先代より妖気が高いという理由だけで、彼女を拉致するのが解せない。しかもご丁寧に段取りまでつけて。おまえ、何か彼女の秘密を知っているだろ?」
「それは……」
慶喜の詰問に狼狽する総介を、海舟がとりなした。
「まあ、慶喜様。そんなに怖い顔をなさらんでも。総介、俺たちはおまえの味方だ。過去の失態を責めているわけではなく、おまえの力になりたいんだ。彼女の秘密を教えてくれ」
総介は困惑した。
しかし、事の真相を告げないことには、この仕事は解決できない。特に、魔石を狙っているロバートを牽制する意味でも、大きく関わってくる。
「分かりました」
総介が腹を括った。
「今まで起きた連続殺人事件の背景には、十五年前に起きた生麦事件と深く関わっています」
「生麦事件だと?」
慶喜と海舟は眉を顰めた。
ロバートの父・マーガスが、生麦事件の被害者であり、彼が死ぬ間際に魔術師乃血統石という人体に魔力を与える魔石を紛失したことを話した。
「待て、総介。薩摩藩士が殺した英国人の身元は商人だったはず――」
「いや二人だ」
慶喜が鋭い口調で話を遮る。海舟が目を大きく見開いた。
慶喜が厳粛な面持ちで当時の事件を振り返った。
「ひとりの英国人が殺されたと世間に公表しているが、二人目の被害者がいた。英国御抱えの用心棒だった。しかし、英国領事館から用心棒の存在を公表しないよう口止めしてきた」
「闇乃翼は闇に生きる外法者の集まりです。術士が異国の地で死んでも、その存在そのものを黙殺します」
「……」
重鎮たちが顔を曇らせた。
暫くの間、沈黙が続いた。
三人の気持ちを象徴する冷たい空気が室内を覆った。
それを打ち破ったのが慶喜の問い掛けだった。
「つまりロバートが討伐隊に加わったのは、親父の形見を探すために来日したということか?」
「はい」
総介はゆっくりと頷くと、右手の甲を二人に見せた。そこには赤色に光る魔石が埋め込まれている。
「妖術士が病死または戦死した場合は、生命力が無くなったことで、体から魔石が離れます。マーガスが亡くなったあと、魔石は草むらに転がり落ちた可能性が高いでしょう。そして数日後、新婚旅行で横浜を訪れていた桜宮夫妻が偶然、魔石を拾ったのです」
「桜宮夫妻……、まさか沙那の両親か?」
慶喜が顔を強張らせた。
「はい。魔石を拾った桜宮藤九郎さんは、それをペンダントトップに加工すると、由菜さんに贈った。数日後、魔石の作用で由菜さんの妖力が格段に上がります」
「うむ、この話は藤九郎殿本人から聞いたことがあるぞ。妖力の弱い由菜さんの体質改善を考慮して、妖気が籠もった鉱物を身に着けさせたと。それが魔術師乃血統石だったのか」
慶喜の証言に海舟が顔を曇らせた。
「妖魔たちが沙那を狙っていたわけは、黄泉の国への玄関口である陽魂寺の扉を完全に開放するために、生贄が必要だったのです」
総介の話に海舟が気難しい顔をしている。何やら腑に落ちないようだ。
「俺はこの手の話が苦手で、いつも心に燻っていたのだが……」
海舟は遠慮がちに前置きしたあと、質問をぶつけた。
「いくら結界が弱まったとはいえ、三位一体の霊力だ。結界に衝撃を与えた程度で簡単に下界へ侵入できるはずがない」
鋭い質問だ。
総介は好々爺の優れた洞察力に感心しつつ、丁寧に答えた。
「結界の内部から圧力を加えなくても、能力の高い妖魔でしたら、妖気を消して下界に潜入できます。強力な霊力を放つ結界でも、妖気の無い者を捕らえることはできません」
「つまり、妖気を自在に制御できる者がいるということか?」
「はい」
「何ということだ。その方法で結界を潜り抜けた妖魔ならば、妙見菩薩像に傷を入れることが可能だ」
海舟が愕然とした表情を浮かべた。
憂わしげな表情を浮かべた慶喜が疑問を投げた。
「ロバートはひとりで沙那を救出しに行くと言ったが、あの男が単独行動する理由は、親の形見を奪い取るため、まさか佐那にも手を掛けるのか?」
「それは……」
総介は言葉が出なかった。
暫しの沈黙の後、総介が口を開いた。
「ロバートは討伐隊の一員です。利己的な行動に出ないことを信じましょう」
二人が戸惑うなか総介は優しく微笑むと、発破をかけるように言った。
「段取りをつけましょう!」
その言葉に応えるかのように、重鎮たちの顔が引き締まった。
総介は計画を打ち明けた。
「私が闇乃道化師と戦っている間に、お二人には沙那を救出していただきます。慶喜様の剣術に期待しています」
「任しとけ。私は日々、剣術――」
慶喜の話を遮るように、木扉を優しく叩く音が聞こえた。
こんな夜に誰だ?
三人は顔を見合わせた。
すると、三人が返事する隙を与えないかのようにゆっくりと扉が開いた。
「鶴子さん!」
三人は一斉に声を上げて立ち上がった。
「いかがなされた」
困惑顔を浮かべた慶喜が、優しく声を掛けた。
「私も参加させて下さい」
彼女の言葉を聞いたあと、時間が止まったような感覚に襲われた。
「な、何を言っている、これは遊びではないぞ!」
慶喜が叱咤した。
しかし、鶴子が怒気を孕んだ口調で反撃した。
「そのことは承知しています。私は沙那さんに命を救われました。今度は、私が彼女を救う番です!」
「鶴子さん、お気持ちは有り難く受け取ります。が、ここは我々三人にお任せ下さい」
総介はきっぱりと拒んだ。が、無鉄砲なお嬢さんは引くことを知らなかった。
「私はもう、失うものはありません。私でもやれる仕事があります!」
「う~ん」
慶喜は困惑した。
「決まりですね。気丈なお嬢様に何を言っても無理ですよ」
海舟はお手上げとばかりに肩をすくめた。