第三章 一族の誇り(2)
一方、本郷区に居を構える慶喜別邸では、内務省宛に届いた犯行声明文を広げていた。
『今晩零時、陽魂寺で待つ。今世紀最大のエンターテインメントショーを開こうではないか。沙那殿には、大扉を開ける生贄になってもらう。ご期待されたし。
闇乃道化師』
戦慄な声明文に、海舟は目を丸くする。それに対して、マイペースな慶喜は餡パンを食しながら声明文に目を通している。腹が減っては戦できぬ、のだ。
下座の海舟が憤然と叫んだ。
「こんな時に、あの二人は何をしているんだ!」
「落ち着け、二人に関しては今、使者を遣わしている。それにしても闇乃道化師という異名は伊達じゃない、和泉家の者を利用するとは考えもしなかった。さらに言うならば、沙那はいつ殺されてもおかしくなかった。彼女を生け捕りしたのは妖術士と戯れるためではない、他に理由があるはずだ」
慶喜は唇を噛んだ。
海舟が慶喜の背中を押すように言った。
「初任務とはいえ彼らは闇乃翼で厳しい修行を果たした精鋭ですよ、和泉家の使用人を見抜けなかった以外にも心を揺さぶる出来事が起きたと思います」
「平常心を削ぐ出来事、……沙那か」
海舟は静かに頷く。そして言葉を添えた。
「おそらく任務開始前に沙那の異変に気付いたふたりが団結力を瓦解した」
「ロバートは分からんが、付き合いの長い総介ならば、沙那の秘密を何か握っていろう、追及するぞ」
慶喜は緑茶をグイッと飲み干した。
その時だった、女中たちの悲鳴が聞こえた。
慶喜は大慌てで障子を開けると、廊下に踏み出した。
「何事じゃ、騒々しい!」
廊下の右奧から聞こえてくる騒々しい足音と金切り声を上げる女中がこっちに逃げて来た。
「安房守」と慶喜は目配せをした。
二人は現場に向けて廊下を駈けた
辿り着くと女中が横一線に人壁を作っている。
怖じ気づく人壁が一歩また一歩とずるずる後退していく。
「どいてくれ」
人壁を掻き分けた慶喜と海舟が現場に足を踏み入れた。
鶴子嬢がいる。このとき慶喜は目の前に起きた出来事を疑った。
なんと、短刀を手にしているではないか。
「……何をしているのだ?」
頭から血の気が引いた慶喜は愕然とした。
慶喜は女中を庇った。
「ここは我らに任せろ、とりあえず仕事に戻れ」
しかし彼女たちの体が居竦んでいる。此処を離れるのに暫く時間が掛かりそうだ。
鶴子を見据えた慶喜は穏やかに接した。
「鶴子さん、いかがしました。光り物を持つとは只事ではなかろう。よかったら我々にもお話し下され」
鶴子嬢がこっちを睨んでくる。その眼光は彼女が手にした短刀の刃に匹敵する程の狂気が満ちていた。
「まずはその凶器を私にくだされ。由緒正しき令嬢には合いませぬ」
その言葉が不適切だった。鶴子の神経を逆撫でした。
「私が父と兄の敵を取りに行きます、あなた方では頼りになりません!」
感情の昂ぶりを抑制できない鶴子の声は上ずっていた。
目を瞑り、ゆっくりと頭を項垂れた慶喜は嘆息をする。そして左掌を後頭部に添えると物々しい口調で窘めた。
「馬鹿なことを申すな。返り討ちを食らったらどうする。父兄殿はあなたの幸せを願っているのであって、敵討ちなど望んでいないはずじゃぞ」
「今は怪物を斃すのが私の使命です。あなた方、武士風情に家族を亡くした気持ちが分かりますか?」
「なんだと?」
遺族とはいえ口が過ぎる。
幕末動乱に命を賭して本懐を遂げた武士たちの尊厳を、この跳ねっ返りなお嬢に何が分かる!
激高した慶喜は思わず右掌を振り上げる。そして勢いよく振り下ろした掌が鶴子の左頬を引っ叩く――、その直前だった
「待って下され」
二人の剣幕に海舟が割って入った。
海舟は顔を紅潮させると烈火の如く、お嬢を罵った。
「いい加減にしろ! 敵討ちは四年前に法令で禁じられている。あんたが罪を犯して、父兄が生き返ると思うか? それができるなら慶喜様も俺もやっている!」
お嬢は引かない。却って海舟に反抗するかのように円らな瞳で睨み返した。彼女の心を動かしているのは憎悪という反骨精神だ。
それでも海舟は諦めることなく説得にあたった。
「確かに争いのない平和な世を創るのは正直、難しい。それでも、多くの民を妖魔から救うのが我らの使命だ!」
「ですが、あなた方は民を守れなかった。ならば、遺された私が父兄を弔わなければなりません。私は死を覚悟しています。もはやこの世に未練などありません!」
悲愴に満ちた鶴子が激しく糾弾した。
かつて、維新三英傑のひとりだった西郷隆盛と江戸城無血開城を巡って会談した陸軍総裁が小娘ひとりにお手上げだ。官軍の猛攻に比べればどうってことないが……。
「ウ~ン」
慶喜は頑固なお嬢様に頭を悩ませる。
鶴子が周囲に刃先を向ける。鈍色に輝く切尖と共に殺気が漲る令嬢の素顔を見た女中らが震え声を上げて身を一歩引いている。
慶喜はぼやいた。
「擁護どころか討ち入りではないか」
慶喜は自分の頭を冷やした。そして、寸刻の間に頭の中で言葉を整理したあと、令嬢に向けて穏やかに諭し始めた。
「まずは落ち着きましょう。あなたの父兄は、本当にそんなことをお望みだろうか? あなたは若くて未来がある。そして活力がある。父兄の魂を供養したいなら復讐ではない、人を助けて生命の尊さを諭してあげるんだ」
「人助け……」
「そうじゃ。復讐からは何も生まれてこない。家族を失ったあなたにはまず、心の静養が必要だ。そして、家族愛を忘れてはいけない。気を落ち着かせ、今後の身の振り方を我々と共に考えよう」
鶴子の瞳が揺らいでいる。やがて緊張の糸が解けた彼女の手元から、短刀がぽろりと落ちた。
お嬢の隙を見た海舟が身柄を確保した。
「とりあえず、鶴子さんを寝室に引き上げなさい」
武器を拾った慶喜は女中らに命じた。
三人の女中に体を支えられながら覚束ない足取りで寝室へ向かう鶴子の後ろ姿を慶喜は目で追った。
これで一段落ついた。
慶喜は安堵した。
その束の間だった、奉公人が駆け足でやって来た。そして耳を疑う言葉が元締めの心を動かした。
「上野公園で、総介様とロバート様が決闘しております!」
「なに!」
慶喜は瞠目した。
海舟が顔を紅潮すると奉公人に向かって吼えた。
「こんな時に何をしとるか!」
とばっちりを食らって畏怖した奉公人を擁護したいが、だからといって現状を放っておくわけにはいかなかった。
苛立つ慶喜が後頭部を掻く。そして焦燥感を抑えつつ海舟に命じた。
「安房守、鶴子さんのことは頼んだ!」
慶喜は脱兎の如く屋敷を飛び出した。
任務の失敗、鶴子嬢の乱心、仲間割れと、妖魔討伐隊の船出は暗礁続きだ。