第二章 逃れられぬ運命(4)
頭から落下した総介は、そのまま床へ激突した。
ところが、緩やかな衝撃に違和感を覚えた。床へ目を向けると、紺色の制服を着た大男が下敷きになっていた。
「何をやってる。お、俺のことよりも……、自分のことを考えろ」
「安西……さん?」
献身的な救護に総介は息を呑んだ。
「この木偶の坊が、警部補殿を座布団代わりにするとはどういう了見だ!」
血相を変えたひとりの男が、こっちへ向かって来るなり怒声を浴びせた。そして、警部補の背中に尻餅をついている妖剣士の体を衝き飛ばした。
「風間! 持ち場を離れるな」
大声を上げた安西がよろめきながら、立ち上がった。
「俺は無事だ。それよりも、この妖術士殿は長い英国生活で戦の勘が鈍っているようだ、援護してやれ」
「この男をですか?」
風間と呼ばれた男が目を丸くしていた。
総介は羞恥の念が全身に込み上がってくると、心が欠落した感覚に陥った。
何かがおかしい。
父との記憶と和泉親子の絆が重なったということもあるが、ひとつひとつの動きが重すぎる。その結果、妖魔に主導権を握られてしまった。
「……忝ない」
総介は言葉に悔しさを滲ませた。
広間に残った六人を相手に、溢れんばかりの屍鬼が辺りを囲っていた。そのなかには屍鬼へ変貌した警官も数多くいた。
総介たちは屍鬼の動きを警戒しながら後退すると、背中合わせで円陣を組んだ。
風間が釘を刺してきた。
「勘違いするなよ、俺らは警部補をお守りするために援護に出たんだ、あんたは我らの足を引っ張ったお荷物だ」
「止めろ風間」
安西が怒気を孕んだ声で部下を制すると、その矛先がこっちへ向いた。
「英国仕込みの力はどうした?」
「そ、それは……」
狼狽した姿を見た安西が「フン!」と鼻で笑った。
「過去に何があったかは知らんが、あんたは心の中で迷いが生じているようだ。その迷いが動きを鈍らせているんだ」
「迷い……」
総介は絶句した。
「厳しい言葉を掛けるが、失うのはあんたひとりの命じゃねえ、国民の命だ。いい加減に覚悟を決めねえと俺が斬り捨てるぞ」
安西の一喝が乱れた心に浸透した。
屍鬼たちが短い歩幅でじわりじわりと詰め寄る。奴らの体から醸し出す禍々しい殺気が襲ってきた。
それは総介だけでなく警官隊も感じ取ったようだ。警部補の強面から恐怖心が滲み出ていた。同じ戦場にいる者だからこそ、共有できる感覚だ。
安西が気炎を吐いた。
「我々は、妖魔を斃すために結成された精鋭隊である。たとえ西洋刀が折れても心は折れるな! 敵を斃して生き残るんだ!」
「おお!」
その言葉に触発された警官隊は気勢を上げた。
総介は心を昂ぶらせると、炎の刀身が赤々と輝いた。
凶悪な群衆が緩慢な歩みで迫って来るなか、右隣から荒々しい呼吸音が聞こえてきた。
安西が青ざめた顔で巨体を震わせていた。
動乱を生き抜いたこの男も、ひとりの人間だ。未知なる恐怖心が体を蝕んでいるのだろう。
武骨ではあるが、温情屋な安西がこれからの日本には必要だ。この男を中心に帝都の治安を守っていく光景が、総介の脳裏を過ぎった。
総介は安西に向けてボソリと呟いた。
「さっき、あんたがみんなを鼓舞したのは新撰組の局中法度の掟だな。俺も幕府に仕えていたからな聞いたことがある」
「……フン」
安西が鼻で笑うと面白くない顔で詰め寄った。
「青二才が面白いことを。ならば、この危機を乗り越える策はあるのか?」
「俺がこいつらを撹乱させる、混乱に乗じて攻めるんだ」
総介は構えを解くと、魔刃丸を上下逆にした。
火勢が次第に衰えた刀身は、柄へ吸収されるように消滅すると、真紅の柄糸が輝いた。そして、柄頭から一個の火球を召喚した。
それを見た安西が目を丸くした。
「それは何だ?」
「これは鬼火といって、人間や動物の呼吸と気配を感じ取ることができる。特に屍鬼は炎が弱点だからな、奴らの周囲を旋回して撹乱させることが可能だ」
火力が増幅した鬼火は、機敏な動きで群衆の隙間を縫うように駆け回った。
耳を押さえたくなる程の粘着質な絶叫が、部屋一帯を木霊した。
「今だ!」
総介が掛け声を上げると、六人が一目散に群衆へ斬り込んだ。
総介は魔刃丸を大きく振りかぶると、屍鬼の頭上を目掛けて一気に振り落とした。さらに手首を返すと、炎の刃は二体目の上半身を逆袈裟に斬り裂いた。
踵を返した総介は屍鬼の懐に飛び込むと、頸部を水平に薙ぎ払った。
鬼火が仕掛けた火炎攻撃と剣撃によって、屍鬼たちが浮き足だっていた。
その時だった、眩い光が無数に降り注いできた。それは、妖魔の額を寸分狂わずに射貫いた。傷口から発した高熱が上頭部を覆うと血の蒸気が上がった。
「これは?」
目を見張った総介は、光の矢が飛来した方向へ顔を向けた。
血染めの白衣に緋袴姿の女と、小銃を構えた執事が吹き抜け廊下から加勢してくれた。
桜宮沙那と大田原だ。
大田原が間髪を入れずに速射していた。
二人の援護射撃に戦況が好転した――、と思えた。
ところが想定外の事態が起きた。弾丸が総介の右頬を掠めた。
それは流れ弾ではなかった。こっちへ銃口を向けた大田原が標準を合わせていた。
銃口が再び火を噴くと、総介の足元を撃ち抜いた。
「血迷ったか!」
総介は怒号を上げた。
連発式の小銃が相手では、弾道を瞬時に見極め、銃弾を躱すことが最善の手段だ。弾が切れて、装填している隙を狙うしかない。
突如、けたたましい硝子の破裂音が木霊した。
なんと大田原が沙那に動きを押し止められた反動で、銃口が吊下式多灯器具へ向いたのだ。
「沙那!」
胸騒ぎがした総介は、行く手を妨げる群衆を斬りつけながら、二人の場所へ疾走した。
吹き抜け廊下まであと五mに差し掛かった総介は、高々と跳躍した。
大田原との間合いが二mまで迫った時だった、砲弾を吹き飛ばす程の強力な風圧が全身を襲った。
紙屑のように飛ばされると、腰部を床に激しく打ちつけた。
「こ……この力は?」
総介が上半身を起こしたその刹那、頭上から重々しい気配が迫ってきた。見上げると巨大な吊下式多灯器具が、荒々しい音を立てて落下してきた。
「クッ!」
総介は身を翻した。
脳を抉るくらいの派手な爆発音と共に、体を溶かす程の熱風を背中に浴びた。
後ろを振り向くと、大火に包まれた照明器具が、黄赤色の閃光を放っていた。
「これは?」
総介は瞠目した。
「何をやってる、おまえらしくもナイ!」
艶を帯びた張りのある男の怒声が、脳に響いた。
召喚士のロバートだ。
この男の足元には、低級召喚獣の火蜥蜴が身構えていた。炎の飛礫を照明器具に浴びせたことで、落下の軌道を変えたのだ。
相棒が怒気を孕んだ顔で駆け寄ってきた。
総介は執事の異変を伝えた。
「執事が妖魔ダト?」
「ああ、俺の体を飛ばす程の妖気を放った魔物だ」
「つまりあの男が黒幕カ?」
二人は、沙那を盾にしている大田原を睨みながら、前へ進んだ。
ガシャンと廃棄物が崩れるような音が耳に入った。
床へ落下した吊下式多灯器具だ。どうやら、二人の人間が燃え立つ器具の下敷きになっていたようだ。
総介は二人を見て言葉を失った。
和泉親子だ。
吹き抜け廊下を飛び越えて、吊下式多灯器具に飛び込んだ親子は、体重をかけて一気に落下したのだ。
二体の屍鬼を見たロバートが訝しんだ。
「これは主人ではないカ?」
「ああ。執事と一緒に寝台の下へ隠れていたが、その代償が大きかった。もうひとりは主人の息子だ。長年、音信不通だった息子とこのような形で再会したわけだ」
「その息子は絶命しているナ」
ロバートが冷静な口調で言った。
和泉仙一郎の下敷きになっていた誠一が、息を吹き返すことはなかった。全身火傷を負ったうえに頭部が半壊していたのだ。
「あ……、有馬……、さん」
息を吹き返した仙一郎が総介を呼んだ。
二十体を越える屍鬼が、重々しい歩みで押し迫ってきた。
「行ってやるンダ、此処は俺に任セロ」
ロバートがそう告げたあと、火蜥蜴に命令を下した。
「火蜥蜴よ、紅蓮の炎で屍鬼どもを焼き尽くセ!」
火蜥蜴は猛々しい咆哮を上げると、全身から炎の飛沫を拡散した。
総介は仙一郎を仰向けにしたあと、上半身を優しく起こした。
右目付近が醜く焼け爛れていた仙一郎が、魂を搾り出す程の掠れた声で呻いた。
「わ……、私は、もう駄目だ。……ま、まさか……せ、誠一が……あのような姿で帰ってくるとは……、無念だ」
仙一郎の悔し涙が頬を伝ったその刹那、頭部が紙風船のように膨張すると、軽い破裂音を上げた。
仙一郎の亡骸から発生した血の蒸気が、天に向かって立ち昇った。
床一面には、この戦いで命を散らした者たちの亡骸が夥しく散在していた。
窓硝子の割れ目から、緩やかな冷風が入ってきた。饐えた腐敗臭と血臭が合わさった匂いが気流に乗って、辺りを充満していた。
総介は吹き抜け廊下に目を向けた。
沙那は大田原の上半身にグッタリと凭れ掛かっていた。
総介が怒声を上げた。
「沙那を放せ!」
「クッククク……」
総介は、含み笑いをする執事の異変に気付いた。
執事の顔の皮膚が、ボロボロと剥がれていく。皮膚の下に現れた素顔は、半獣人型の妖魔だった。
「吸血人狼か」
総介は苦虫を噛み潰したような顔をした。
吸血人狼は、死者に狼の毛皮を纏って甦った人狼である。変化を遂げた妖魔は、牛馬や豚、そして人間の血を吸う吸血鬼として活動する。
「吸血屍鬼と一線を置いた妖気を感じたが、あんただったとはナ」
ロバートが忌ま忌ましげに言い放った。
吸血人狼は高らかに声を上げた。
「明治政府に傅く妖術士どもよ、この日を待っていたぞ。この小娘が戦場に現れるのを!」
「それは、どういう意味だ?」
「徳川魔方陣を完全に崩壊するには、魔方陣以上の妖力を持つ術者でなければならない。この沙那という小娘が身に着けている鉱物は、紛れもなく魔術師乃血統石だ」
「なんだと?」
総介は眉を顰めた。
吸血人狼が不敵な笑みを浮かべた。
「おまえたちも知ってるだろ、魔石の力と融合することで、小娘の妖力が増幅することを。それを利用すれば、間違いなく結界は破れ、妖魔を解放することができる。おまえたちが参戦すれば必ず、小娘も動くと睨んでいたのよ」
「それで無差別殺人か、丁寧な講釈だナ。つまり、我々を焚きつける黒幕もいるということカナ?」
ロバートの拳が怒りに震えていた。
「その通り、なかなか頭が切れるではないか、ロバート君。君たちにこれ以上、話すわけにはいかない」
沙那を左肩に担いだ吸血人狼が、超人的な跳躍力を見せた。
「そうはさせるカ」
ロバートの執念深さが発揮した。淡い橙色に染まった右手人差し指を、天井に向けた。
人差し指の先端から出現した直径三十㎝の輪刃を、妖魔の背後に向けて放った。
吸血人狼が、振り向き際に手刀で輪刃を破壊すると、勢いよく窓を飛び越えた。
もはや、誰も妖魔を追う気力は残っていなかった。
窓枠に残っていた硝子の破片が、風によって揺れ落ちる。夥しく横たわる死体に、冷たい風が容赦なく吹き付けた。