#0 ブロローグ
立春を迎えたあとでも暫く残っていた余寒がようやく過ぎ去り、春嵐が吹く春日がおとずれる。麗かな陽光がカーテンの隙間から自室に差し込みとても眩しい。直射日光に負けじと、まぶたを開いた陸奥悠はベットの上で背伸びをする。
「ん〜っ、よく寝た〜」
伸びをした悠は壁に掛けられているピンク色の時計に目を向けて、今が朝の八時だということを知る。手元に目線を戻すと、そこにはベットに手枕を作り、床であひる座りをして、眠る妹の真夏の姿があった。くぅくぅと子犬さながら可愛らしい寝息をたてて眠る真夏の睡眠の邪魔をするつもりはなかったが、こんなところで寝ていると風邪を引くかもしれない。そう考えた悠は差し指を真夏の頬に押し当てーー
「んふっ」
る前に、突然笑いだした真夏のほうに向いている指を戻した。起きているらしかった。だから指を戻したら、してくれないの?と眉根を寄せて、寂しそうな顔を見せてくる。もう一度、指を向けてみると、やはり笑う。戻すと寂しそうにする。悠は一連の動作にはまったり、連続して五回ほど繰り返す。充分真夏をからかうのに満足したところで、いきなり真夏が開眼。
「まったく、どうして指を頬に当ててくれないの? せっかく三時に起きて待ってたのに!」
腰に手をあて、ぷんすかぷんぷん、怒り心頭に発する真夏が、こうしてほしかったとばかりに、今度は自分の人差し指を頬に当ててくる。
「いはぃいはぃ!」
ぐりぐり、頬に当てた指を回され、悠は半泣き状態。叫んだおかげで、やっとのこさ解放される。頬を手で擦りながら、真夏を睨むも、悠の睥睨は幼気な少女そのもので、むしろ逆効果。抱きつかれてしまう。
「可愛いよ〜、ハァハァ。悠お姉ちゃんどうしてそこまで可愛いの?」
「可愛くなんかないんだから。それにさっき然り気無く受け流そうとしていたけれど、受け流せなかったから言うけどさ。真夏ちゃん、早起きにもほどがあるでしょ!?」
すりすりすりすり、頬っぺたを悠の胸に当てる真夏に悠のツッコミが届くはずもない。聞く耳を持たない真夏は頬っぺたに感じる成長途中のかすかな膨らみで楽しみ続ける。傍目で見れば、百合にも見える仲睦まじいじゃれあいは、悠が暴れても何しても終わらず、今や真夏がその場を制しているとさえ言えた。
「にゃーふふん♪私の鼻孔を通じてお姉ちゃんの甘美なる体臭が身体の芯にまで広がっていくにゃん」
「体臭って何だか嫌な響きだよね……」
せめて匂いにしてほしかった、と内心思う悠はじたばた再度暴れてみる。が、いつもの妹ならまだしも暴走モードの妹に太刀打ちできるほど体力に自信がない。
「離さないよ〜」
意地悪そうな顔を見せ真夏は、抱き締める強さを増やしてきた。さっきまで健全然りだった顔色をみるみるうちに青白く染めながら、悠は苦しむ。悲鳴にすらならないか弱い声で真夏に訴えかけるもまったく離してくれない。唯一空いていた両手で真夏の脇を持ち、力任せに押す。
離れてくれた。
「はぁ、はぁ。真夏ちゃん!自分の“お兄ちゃん”いじりは楽しい?」
いじりよりも、いじめに近かったが、そう聞く悠の瞳には、
「うん!」
という、眩しすぎて直視できないほどの輝きを放つ真夏の笑顔が映った。そこまで明るく言われては言い返せなくなる。
「……満面の笑みで返されたら怒るに怒れないね」
「でもさ、悠ねぇ」
「僕は真夏ちゃんのお兄ちゃんであって、お姉ちゃんを表すであろう『〜ねぇ』の使い所が間違っているとどうやら説明しなければならないようだ!」
「悠ねぇは私にいじられるの、まんざらでもないようだね」
「僕の熱弁を無視しないで!」
「そんなに可愛いお姉ちゃんを持てて、
私幸せ者だよ」
「話を聞いてくれない妹を持った僕は不幸せだ!」
学校が日曜日で休みだから良いものの、早朝からどうしてこんなに息を荒らくしないとならないんだろう。ツッコんだせいで乱れた呼吸を整えながら、そう思う。そして何故、真夏は息を荒げることもなく、平然としていられるのか、気になり、真夏を凝視していた時。
「で、お兄ちゃん」
「お姉ちゃんだよ」
墓穴を掘った。
「……で、お兄ちゃん」
あれ、揚げ足とらないの? 揚げ足とりされないことへの安堵とともに、わき出てきた残念な想いを感じつつ、悠は問い掛けた。
「何?」
「今日、月曜だけど、学校良いの?」
「……ふぇ?」
「いや、だから。今日、月曜だよ?」
真夏の言った言葉の意味があまりにも突飛すぎて、理解に苦しむ。理解するのに一分ほど脳が要したが、それから脳の到着を果たした言葉の意味は、遅刻しちゃうよ? という意味だった。
(いやいや、今日は日曜日だろう?昨日アニメ好きの妹に女の子向け朝アニメを無理矢理見せられたのを記憶してーーって!)
「遅刻じゃん!」
時刻は現在八時十分。学校まで徒歩三十分。授業開始が八時二十五分だから、どんなに急いでも遅刻は絶対免れない。それはすなわち、朝ごはんを食べずに登校しても遅刻は確定事項していることを意味していた。
何があっても遅れない、をモットーとする悠はベットから起き上がると急ぎ足に部屋の隅に掛けられてある学生服を取り、着替え始める。
「真夏ちゃん、今から着替えるから出ていってくれないかな! かな!」
と言う間にも、真夏の肩を押して部屋から追い出す。が、
「気にしなくていいよ、私別にお姉ちゃんの裸見ても興奮くらいしかしないし」
と悠が黒地のズボンをはいている最中でも、否、最中だからこそそう言わずにはいられなくなるような、爆弾発言をした真夏は、堂々と入ってきた。
「十二分に問題だからそれ!」
「にゃふふん。お姉ちゃん、いよいよずいぶんグラマラスな体つきになってきたね」
回転椅子に座ってぐるぐる回転する真夏がーー本来なら中学二年である真夏が思春期最盛期の男子さながらの台詞を面白そうに言う。
「なってたまるか!僕は男の子だよ」
恥ずかしそうに顔を赤く染めながらそう言い返す悠だが、端から見ると、真夏の言うようにグラマラスでは断じてないが、確かに中性的な体つきをしていた。
「パジャマのボタンを外していくと、そこには豊満に実る大きなメロンが二つありました」
「真夏ちゃんの将来が心配になってきました」
「お、お姉ちゃんのお……おっ……お胸触ってもいい? 私は貴女に尋ねます」
「いちいち言い方やらしいよ。いい加減やめよっか。と僕は丁寧に断ります」
「セーラー服を身に纏うその姿は実にけしからん」
「学ランね」
本来なら中学二年ーーとは、そのままの意味で真夏は中学に上がるはおろか、小学校に入学することもなかったのだ。義務教育の小中学校を入らなかった理由は、入れなかったから。昔から兄の悠ばかりを見続けてきたせいで、人との接し方が分からず、出会った人や悠と親しくなろうとする女性を暴走モードといわれる、所謂他の人格に頼って夜な夜な殴り続けてきた真夏。だから外出することをも親からはある条件を除いて基本的に禁止されていた。そのある条件とは、悠と一緒に行動すること。悠と一緒にいる限り、好き勝手に暴れまわることはないと真夏が誓ったからこそ、成立まで漕ぎ着けた条件だ、そうそう破ることはないだろう。そんなこんなで、この世で一番悠が好きだから真夏はすぐに悠を抱きついて、問題発言を息するよりも簡単に発言するのだ。
「着替え、終了! 真夏ちゃん学校行ってくるよ!」
素早く部屋を出た悠は自室のある二階から一階へ降りようと階段を一歩踏み出す。
「行ってらっしゃい、お姉ちゃん」
悠が部屋を飛び出すのを見守っていたはずの真夏の声が耳元で聞こえた。悠は「ん、行ってくる」と二回目の行ってきますを告げるため後ろを振り向こうとした、その時。
バンっと、真夏は後ろから悠を押しーー
頭の打ち所が悪かったのか、真夏が狙ったからなのか、それとも運命の悪戯か。
ーー悠は階段の一番上から転がり落ちた。
一回、二回、三回と階段の踏み場に頭をぶつけながら。
そしてそのまま階段の途中で留まることなく階下へと転落した。
「い……った……」
割れたようにズキズキと痛む頭を押さえる。
生温い液体が手につくのを感じる。
見ると、掌一面に赤く輝く血がべったりと付いていた。
(血ってこんなに赤かったんだ)
頭痛によって目の焦点が定まらないというのに、血だけはやけにはっきりと見ることができる。
「あぁ…………ああぁ」
(僕、もう死ぬんだ。
そんなことなら、いつも通り早起きすればよかった。どうして夜更かしなんてしちゃったんだろう)
頭から流れる血が目尻までくると、あとは自然に涙と絡まって口元にまで垂れる。ペロリ、血の涙を舐めた。
「あぁ、あぁ。ああああああぁぁぁぁぁぁぁっ!」
絶叫。悠は自分が死ぬことを受け止められず、力の続く限り叫んだ。
やがて力をすべて使いつくしてしまった悠は。
死んだ。