第4話 「10歳の冬」
物語的にそろそろ一山入ります。
「――…っ、はぁッ!」
セレスティオ伯領にも長い冬の波が訪れた。
空は灰色の雲に覆われ吹雪が鍛錬場の木壁を叩きつける音がする。採光窓からは白く眩い光が差し込み、庭の木々も城の屋根も皆一様に雪化粧を施され、白一色の光景が広がっている。
木床から伝わる冷たさは、靴をも浸透して冷たいを通り越して痛いほどである。
雪に閉ざされる北国の男が冬にやる事などそう多くはない。
服を着込もうが暖炉に薪をくべようが寒さは身体をじわじわと蝕んでいく。それを払うには身体を動かすこと、生き残るための実益を兼ねた鍛錬が一番好まれる冬の過ごし方なのだ。
「踏み込みが甘いですぞッ、相手の武器ではなく目を、身体全体の動きを見るのです。」
あれから更に5年の月日が流れた。
領内情勢不穏とのことで領内視察を許されることはなかったが、この五年の間も鍛錬を続けたことで背は伸び、細身ながらそれなりに筋肉もついてきた。なにより嬉しいのは熱を出す間隔が一週間に一度から一ヶ月に一度になったことで……まだ病弱なことに変わりはないにしても進歩はあった。
轟音と共に上段から木剣が振り下ろされる。
木剣とはいえ下手に当たれば骨折は免れない、思いきり腰を落とせば頭上を剣が掠めていく。大降りで生じた隙を詰めようと、左腕を刀身に添えながら地を蹴り、熊男の腹部に突き立てんとする。
熊男の巨体が攻撃の動作を中止し防御行動に移ろうとするのを感じるが、もう遅い。懐に入り込んだ以上、外側から剣で有効打を与えるには振りかぶる、振り下ろすという2アクション必要で、一方の僕は突き立てるだけで良い……勝利を確信した刹那、地をひっくり返すような衝撃を感じ次の瞬間に僕は宙を舞っていた。
懐に入られ、剣で防ぐことも倒すことも侭ならぬ。その状況で熊男の下した選択は単純明快、思いっきり蹴り上げるというものだった。
「――…かはっ。」
刹那の浮遊感の後、思いっきり背中から地面に叩きつけられる。
――動け! 僕は骨に響く痛みを無視して間髪居れず右へ転がる、一瞬前まで僕の頭があった場所に熊男の振り下ろした木剣が刺さった。
追撃の一太刀、更に転がり避ける。
もう一撃を剣の柄を蹴って機動を逸らし、前転して姿勢を起こせばその勢いに任せて熊男の後方へ。姿勢を起こせば休む間もなく熊男が振り返りざまに肘を顔面めがけて突き出し、すんでのところで顔を後方へ逸らす。
熊男の蹴りは戦況をダイナミックに変化させた。
不利な姿勢を強いられた事で回避行動の動きは大きくなり、戦いは消耗戦の様相を呈す。案の定僕は息を切らし始め、エルボーを回避し揺れる頭を持ち直した頃には首筋に剣を突きたてられていた。
思わず息を止めながら、剣の腹に手を沿え降参の意を込めて苦笑する。
「負けてしまった。ヴァルツァーにはまだまだ適わないね。」
熊男は戦闘の気迫を嘘のように消すと人好きのする暖かい笑みを浮かべ、見守る騎士らの一人へ手にした木剣を投げ渡す。
「なんの、10歳の若君に負けたとあっては家臣として今後働き甲斐が無くなりますからな。」
相変わらずの減らず口、グリーンの瞳が帯びるおどけた色がなんとも憎たらしくもあり、微笑ましくもある。負けた悔しさを込めて熊男のわき腹を抓りながら僕達は鍛錬場を後にした。
昨年城内に与えられた僕の個室に向かう。
個室を与えられるまでプライベートの時間の殆どを母と過ごしてきたのだが、政務の最終認可の一部を任されることとなって個室が与えられた。ベルと過ごす時間が減るー、と母に泣かれた物のこればかりは仕方ない、その分まめにお茶をしにいくことで許してもらっている。
がらん、とした室内。
重厚な木材で作られた部屋の一角には緻密な装飾の描かれた暖炉、暖炉を囲むようにソファーと本棚が置かれ、部屋中央には僕専用の巨大なデスクが置いてある。
「はふぅ……。」
濡れた布で身体を拭った後、柔らかいソファーに寝そべって脱力し目を閉じる。限界まで鍛錬したあとでソファーの柔らかさを全身で堪能するのだ……ヴァルツァーが毛布をかけてくれた、目を開け感謝の笑みを浮かべると、彼はしゃがんで暖炉に薪をくべ、対面のソファーに腰掛けた。
「……。」
薪のはぜる音、壁に吹き付ける風の音、耳を澄ませば吹雪に混じって城下の町の生活音も聞こえてくる。この雪の中でも教会は鐘を鳴らし、鍛冶師は鉄を鍛える。雪で舗装された道を丁稚の子供が寒さに震えながら使いで駆け回っているだろう。
しばし想像に身を委ね、ヴァルツァーは腕を組みながら炎を眺めている。
穏やかな時間、しかし休憩ばかりしているわけにもいかない。
「ヴァルツァー、そろそろ仕事に取り掛かろう。」
「確か今日中に閣下の認可を必要とする書類の束が……うむ、これですな。」
毛布に身体を包みながらクッションを支えに背だけ起こして書類の束を受け取る。
雪明りと暖炉のゆらぐ炎を頼りに文字列を目で追う、城下町の街灯整備状況、衛視の活動報告、街道の盗賊出没情報一覧、領民の被害一覧……。
「相変わらず……酷いな。」
羊皮紙を捲るたびに飛び込む報告の数々に、僕は思わず顔をしかる。
犯罪抑止の為の街灯は貧民が暖を取るための薪代わりに根こそぎ奪ってしまう。むろん罰則はあるのだが、彼らも生きるために止むを得ず一向にとどまる気配がない。
街を守る衛視は比較的金持ちの住む北部地区をピークに、貧民の住む南部に行くにつれて影響力を失う。過酷な税の取立てに反発した民衆が反乱分子となり、盗賊や傭兵崩れを抱きこんで税の支払いを拒否した区画も少なくない。
しかしそれでも市壁に囲まれた城下町はまだまだ良いほうで、一歩壁の外に出れば賊徒が跋扈し、森の境を越えたオーク軍が隊商や、時には人里までやってきて焼き討ち、女性を巣へ浚っていく。更に悪いことに西部の男爵領からは内戦で敗北した豪族が一党を引き連れ領内に侵入、山岳地帯に砦を築き周辺の村を力で屈服させて独立を宣言する始末。
「……、市壁の中の北側半分ぐらいかな、家が実効支配しているのは。」
笑うしかない、肩を竦めて苦笑すると、熊男のグリーンの瞳が愉快そうに輝く。
「いやいや、それすら怪しいですな。北部地区の小金持ちどもも、これ以上反乱分子が増えるようでは安心して店を開けますまい。」
「食糧不足にかこつけて売り渋りをする小麦商などは夜も眠れないだろうね。連中は気に入らないが……しかしそういう欲深い連中ですらやっていけなくなったら、いよいよこの国は終わりなんだろうね。」
書類をサイドテーブルに放って後頭部で腕を組み苦笑する。
なんとかしたい、生きるために盗んだ者が罰せられ、親を罰せられた子が更に生きるために盗みを働くような悲劇がこの報告の中から容易に想像されるからだ。
でも僕は前世はただの病人で、今も実権のない子供領主に過ぎない。
なるべく軽く、おどけた表情を浮かべたつもりだったのだが、考え込んでいるのが表情に出たのだろう、熊男のグリーンの瞳がにわかに悪戯っぽい光を帯びる。
「ハッハッハ、心配めされますな。万一そのような事態になりましたらば、私が奥方様と若君様を養って差し上げましょう。」
さらっと言いやがったなこの野郎。というか未だに諦めていなかったのか……。
若干呆れながらも、深刻に結ばれていた口元が思わず綻ぶのを感じた。彼は考え込む癖のある僕を、こうしてしばしば笑わせてくれるのである。
笑ったら気持ちが軽くなり、気持ちが軽くなれば身体も軽くなる。暖炉とソファーと毛布のお陰で冷え切った足もぬくぬくだ。軽やかに立ち上がり、ヴァルツァーに明るい視線を向けて腰元に腕を立てる。
「よし、それじゃ今日も叔父上に外出許可を貰いに行こうか。」
ニヤリ、と笑うヴァルツァーの表情は少し嬉しそうだ。
「毎日お願いされては拒否し続ける宰相閣下の鉄壁、今日こそは破れると良いですな。」
さて、どうかな。
幼少の僕に代わり政治を執る叔父、厳格な宰相として知られる彼は日々冷視線と共に言葉少なく僕の申し出を却下する。母に言いくるめられているのか、或いは他の理由か。忙しい中尋ねる僕にキツイ視線を向けるのは、単に仕事を邪魔されたから……というわけではないようだけど。
「なに、遠慮なさることはないですぞ。甥の教育も家長代理の勤めですからな、果たさせて差し上げましょう。」
「了解、それじゃ今日も視線の刃で血を流すとしようか。」
明るくおどけて、流れるような動作で足を踏み出す。
クツクツと笑いながらヴァルツァーが扉を開け、吹き込む外気に震えながら叔父の執務室を訪れる僕達。
だけどその返答は予想しなかったもので。
「……バグンシュドゥールの村へ騎士団が出征する。北方オーク軍の迎撃が任務だ。……、ベルトルド、お前が指揮官だ。ヴァルツァーは補佐をしろ。判ったらこの書類に判子を押せ、出発は明後日の早朝だ。」
執務室を訪れれば、べとべとした黒髪を伏せながら机に向かう叔父。
そんな彼に二人そろってニヤニヤしながら“いつものお願い”を申し出た僕らは、これらの返答に面食らって硬直していた。
「兎がキツネに食われたような顔をしているな。……ふん、病弱な貴様と、戦場よりも宮廷侍女の話題の中で活躍するような男には荷が勝ちすぎるかもしれん、辞退しても構わんぞ。」
ミリアの馬鹿も煩いしな。遠い目をしながら呟く叔父だったが、毒舌を浴びてようやく我に帰った僕は顔を輝かせると完璧な所作で恭しく、かつ元気良くお辞儀をする。
「承りましてございます! ついに許可して頂けるとは、叔父上、ありがとうございます。必ずや成し遂げてご覧に入れます。」
こちらの熱気を鬱陶しそうに手で払う叔父。
面倒臭そうに口元をゆがめ、書類に視線を落としままこちらを見ることもなく呟く。
「当たり前だ。そもそも騎士団は熟練、貴様らの指揮など要らん。ようは飾りというわけだな……まぁ、当主というよりは姫御といった貴様には相応しい。」
こちらの表情を確かめようと一瞥を向けてくる。
しかしこの手の皮肉は僕には通用しないのだ、なぜなら。
「はい!初陣の僕の不安を慮ってくださるとは……きっと頑張ります!」
そしてキラキラと輝く瞳で尊敬の眼差しを向けるや、叔父は居心地悪そうにたじろぎ咳払い、あさっての方向を向いてボソりと呟く。
「……、せいぜい気をつけるが良い。ミリアを悲しますことは許さん。」
この5年のやり取りで学んだ事、それはこの叔父が重度のシスコンだと言うことだ。といっても義理の妹なのでシスコンという呼称が正しいかは知らないが、この人物、性的ではない方面で母にぞっこんなのである。
そして母と僕は瓜二つ、なので基本おだてておけばまんざらでもなさそうにしてくれる。……とはいえ、この言葉には僕も冗談を潜めて神妙に頷いた。
「――はい、吉報をお待ちください。それでは早速支度に取り掛かりますので。」
事あるごとに皮肉を言うこの叔父を僕はあまり好きではない。
好きではないが、この絶望的な国で政務の苦労を一手に引き受け、そればかりか家族を慮る彼の姿勢はなかなかできることではないと思う。
叔父の役に立ちたい、いずれは皮肉なしで褒められたい。
心の中でそっと呟きつつ、カカトを揃えてお辞儀をして僕とヴァルツァーは執務室を後にした。
ぜひ、ぜひ……ッ(息も絶え絶えな呼吸音)
どうにか日付の変わらぬうちに更新できました、ギリギリすぎる……体調が最悪なので今日はこの辺でベッドにダイブします。