第3話 「熊男ヴァルツァー」
目が覚めた後、僕が領地視察に行きたい旨を母に伝えると、寝ぼけ顔の彼女が一瞬で覚醒し目に涙を貯めて絶対にダメと肩を揺さぶられたときは流石に面食らった。そのときはなんとか母を宥めることが出来たが、その後折りを見てお願いをする度に泣かれ、廷臣からもこぞって反対されて城を出る事は適わなかったのである。
「閣下、鍛錬のお時間ですぞ。」
「あら~、もうそんな時間なの? さぁさ、いってらっしゃいな。」
食後、領主食堂で母とお茶を飲んでいるとヒゲ面の廷臣が現れ恭しく礼をする。
鍛錬と聞いて僕は思わず顔を顰めた。相変わらず病弱な僕の身体にとって、この世界におけるスタンダード、要求される体力水準は極めて高い。
「ねぇヴァルツァー、……僕は急にお腹が痛くなってきたんだけど。」
もちろん仮病だが、実際その通りでもあったりする。
食後に蛮族を思わせる本物のヒゲ面ゲルマンが現れて、もじゃもじゃのヒゲに食物のカスを付着させ、ギトギトに脂ぎった額を光らせ、顔だけで子供が泣き出しそうな強面で、地を震わせるこれでもかと低い声で“鍛錬”なる言葉を告げられる。
視覚的な意味でも、これから起こる暑苦しい訓練の後継を思い浮かべるだけで、僕の貧弱な胃は十分胃もたれを起こすことが出来るのだ。――…食事は一時間以上も前に終わっていたのだとしても。
しかしそれを聞くや廷臣ヴァルツァーは蛮族顔を綻ばせ、心底嬉しそうにのたまうのだ。
「それはいけませんな閣下。では午前の鍛錬は中止して個室での座学に切り替えましょう……無論、それがしがマンツーマンで手取り足取り。」
危ない。非常に危ない、黄ばみぎらついた目が僕を舐めるように見ている。
ちなみにこの熊男、蛮族顔に相応しい巨漢なのだが戦場での功に加えて宮廷侍女らにとってのゴシップ提供者としても定評がある……主に穴掘り的な意味で。
「あぁうん、なんだか急に元気が沸いてきたな。午前の鍛錬がんばっちゃうぞー。」
貞操の危機を感じた僕は慌てて言うのだが、一方の熊男は疑うような視線を向けてくる。
「いやしかし、本当に無理はなさらぬ方が良いのではありませんかな。先々日も発熱されたとうかがっておりますぞ。」
確かに熱は出したし、正直言って身体もしんどいので訓練は休みたい。
しかしこの世界で生き延びるには白兵戦技能は必須だろうし、なにより個人教授を受けたりしたら訓練以上に消耗する何かをさせられそうな気がする。
「……。」
こんな時は身内に助けてもらおうと、ニコニコ顔でお茶を楽しんでいる母に視線を向けると何を勘違いしたのか笑みを深めて頷き、
「あらあら、ヴァルツァー卿に遠慮は要らないわ。彼は生まれたときから貴方の事が大好きなんですもの。」
「奥方様……いはやはこれは、ハッハッハ!」
そこ、そんな熊面で照れくさそうに笑わない。
ミリア、君の言う“大好き”と熊男の“大好き”は大分意味が違うように思うんだけど?
僕は内心で母の天然っぷりを呪いながら小首を傾げ、にっこりと微笑む。
「いいえ、親しき仲にも礼儀ありと古人は言います。彼に相応しい主君になるためにも体調不良などとは言っていられません。――ほら早く行こうよヴァルツァー。」
我ながら5歳児の吐く嘘とは思えない。
しかし物心付いたときから僕は敢えてこんな物言いをしていた。病弱だと分かったときから、僕が肉体分野で廷臣の信頼を勝ち得るのは難しいと思えたし、生き残る為にはせめて聡明さをアピールする必要があると思ったからである。
なので二人ともこれといって驚くでもなく母は息子の出来に上機嫌でお茶を楽しみ、ヴァルツァーは僕が手を取り促すと頬を緩めエビス顔でついてくる。
「では行ってきます母上。」
「いってらっしゃい。お昼も一緒に食べましょうね?」
こんな香ばしいやり取りを朝から行いながら、母に見送られて食堂を後にした僕達は歩いて5分の所にある城の中庭に設置された鍛錬場へと向かう。
石造りの廊下。きちんと切り出された石組みはわずかな歪みもなく、廊下は真っ直ぐに続いていく。右手の壁はアーチ状の窓が連なり、そこから陽光に照らされた中庭を眺められ、秋の日差しは良い具合に暖かい。
とにかく広い廊下に二人分の足音が反響する。
ここまでの描写だとまるで壮麗な城の廊下を思い浮かべるかもしれないが、それは大間違いで。というのも、この廊下を含め城内の設備には調度らしい調度がなく、これでもかと飾り気のない、素っ気ない光景が城内には続くのだ。
広い分、余計に寒々しい。
今は秋だから冬に比べれば暖かい。北国に位置するこの国の冬は毎年大勢の人間が凍死する程に寒いのだ。そのうえこの寂しい廊下を眺めていると石畳の中から強烈な冷えが心身を襲うことになるのだ。
だからだろうか、この国の人間は肉体を介したスキンシップを好む傾向がある。
君臣の間でもハグをするし、今もこうしてヴァルツァーは僕の手を引いている。尤も彼の場合は下心について警戒しなければならないので安心しては居られないのだが。
知らず知らずの内に警戒するような視線を向けていたのだろう、その視線に気づくやヴァルツァーはヒゲ面を綻ばせ、僕に視線を合わせてニカっと笑った。
「ハハハ、ベルトルド様はこのヒゲ面がお気に召しませんかな。」
はい。などとは言えないし言うつもりも無い。
確かに視覚的には褒められたものではないし、彼の噂や視線に警戒を持っているのは事実だが、それらを差っぴけば僕はこの蛮族顔のヴァルツァーが好きである。少なくとも、彼の笑顔に罪悪感を抱くほどには。
「そんなことはないよ、ただ僕自身がまだ弱いからかな。貴方のように勇敢な家臣を見ていると恐ろしい気持ちになるのも事実なんだ。」
一時期、年相応の幼児言葉を試みたこともあった。
しかしそれは一日で挫折した。羞恥プレイ以外の何物でもなかったし、この国の人間は概ね大雑把で、現代日本なら天才児と大騒ぎされる以前に精密検査を受けさせられそうなものだが、彼らは聡明な若君と喜ぶだけだったのである。
ともあれつい深刻になりがちな僕の言葉に、やはりというべきか、ヴァルツァーは底抜けに明るく笑った。
「ハッハッハ……、」
しかし次の瞬間には笑みに寂しげな色が混じる。
「力なき君主が野心ある臣下に討ち取られるはこの国の習いですからな。それについて警戒なさるのも無理はない。そのお年でお気づきになるとは、やはり若君は聡明な方だ。」
ヴァルツァーは苦しげな笑みを浮かべ、巨大な掌を僕の頭に乗せる。
一見して不敬な行為だったが、その逞しい掌がもたらす温かさは深い安心感をもたらしてくれた。しかし次に発せられた言葉が良くない。
「私はミリア様と若君様に惚れておりますからな。近隣に評判をとどろかせた器量良しの奥方様と、瓜二つの若君様。このお二人を手に入れる為であれば賊軍の一つや二ついくらでも蹴散らしてご覧にいれましょうぞ、ワハハハ。」
「……一応言っとくけど僕は男だし、母上は未亡人だよ?」
苦笑しながら上目に見上げて言うと、彼は逞しく笑った。
「なんの。この国では力が物を言いますれば、文句を言う輩などハルバードの一撃で退けてご覧にいれましょう。」
苦笑を深める僕に、ヴァルツァーはからかうように言う。
「気に入りませんかな?」
まるで悪戯中年というべきおどけた笑顔を浮かべる彼に、僕も楽しげな笑みを返してやる。
「気に入らないね。」
「では、どうすれば良いかわかりますな?」
毛むくじゃらの眉の奥、グリーンの瞳が挑発的に輝いた気がした。
僕の器量を試しているのだろう、だがその声色には否定的な気配はなく、若君ならばという信頼を感じた気がした。
「もちろんさ。」
だから僕はせいぜい憎たらしく、小生意気に言うのだ。
「目の前の大熊が母上と僕の地位を簒奪にやってきたら、猟師のごとく罠をかけ、十重二十重の防御陣で歓迎してあげる。――そのためには強くならなくっちゃね。」
その言葉に、ヴァルツァーは今日一番の笑みを見せ僕の頭をくしゃくしゃに撫でる。
満足げに頷き、僕を促して訓練場へと歩く。中庭へ続く階段を下り、まもなく鍛錬場へ付く頃だ。僕はヴァルツァーと並び立ちながら、いつかこの家臣に相応しい主君になる、その高揚感で次の訓練を頑張るやる気に満ちていた。
だけど、言わなきゃ良いのにこの熊男。
「しかしまぁ、私が狙っているのはなにも閣下の“地位”ではありませんからなぁ……。」
じとーっと絡みつくような視線。
恐らくは冗談だ、彼の忠誠心と愛着は彼の趣向を上回ってることに“殆ど”疑いはない。なのでこれは噂に恐れをなしたであろう僕の懸念をからかう意味の冗談なのだろうが、悪戯っぽく輝くグリーンの瞳を見ていると、案外本気なんじゃないかと恐ろしくなってくる。
「――これは本気で頑張らないとだ。」
「ハッハッハ、その意気ですぞ閣下。やはり適度な鍛錬をせねば“締まり”に欠けますからな。」
ノー、下ネタ。
流石に不敬に過ぎるその言葉に、鍛錬場に着くや否や手近な木剣を手にして彼の後頭部を思い切りなぐりつけてやる。
それを合図にして最初の打ち合いが始まり、お昼に母の元へ帰る頃にはヘトヘトになるほど訓練に打ち込んだ。5歳児だろうと病弱だろうと容赦のない訓練、それはこの先生き残るために必要という悲痛なまでに切実な事情なのだが不思議と思いつめるようなことはなかった。
それは恐らく、この不潔で毛むくじゃらで不敬な家臣のおかげなのだろう。一応感謝をしながら、僕は母との昼食に意識を戻すのだった。
蛇足というか冗長というか、訓練の厳しさを通してその先にある本番のシビアさを垣間見る……みたいなお話になる予定が、どうしてこうなった。