第11話 「熊男の不在」
ノートPCでせっせと執筆中、ネット接続可能なPCにUSBを介してコピペしつつ投稿です。
村の周囲一面を覆う雪野原。夜の間も月明かりに照らされてぼんやりと浮き上がる白化粧は、東の空から上るまだ弱々しい朝日に照らされて薄茜色に染まっていく。
村の東側、雪野原の上には幾つかの天幕が並び、戸口には歩哨が立って森の方角を油断なくにらんでいた。その天幕達の中でも中央に位置する一際大きな天幕が、この土地の幼少領主が寝泊りする天幕であった。
「……すぅー。すぅー。」
薄暗い天幕の中。天井の部分には木の梁が巡らされ、布の部分は雪が積もってやや沈んでいる。雑多な物が詰まれた入り口付近を越えると薄いカーテンの向こうに簡易な寝台が置かれ、その上に眠る人影。
規則正しい寝息に合わせて上下する胸、白いシーツの上に広がり、顔と華奢な体を覆い包むチャコールの長い髪は今や寝相でクシャクシャであった。髪の間から覗く小さな顔は、その少年の母親に瓜二つの美少女めいた風貌で、今はその長い睫毛も無防備に閉じられている。
「……ぅ、うぅ。注射はイヤだ……。」
この世界では存在しない単語の含まれた寝言をつぶやく。
聞かれたとしてもなんのことかわからないので問題は無いが、そもそもそれを聞く人間が居ないはずなので気にする必要すら無かったろう。しかし悲しいかな、安らかに眠るこの少年の場合に関しては、少々危機感が足りなかったのかもしれない。
「……チュウシャ、とは耳慣れぬ単語ですな。」
早朝の薄暗い天幕。耳が痛くなりそうなほどの静寂を破ったのは、オークですらはだしで逃げ出しそうな低く野太い声。熊男と称され、戦場と同じくらい宮廷侍女達のゴシップ上で武功を重ねるヴァルツァー卿その人であった。さも当然、と言わんばかりに領主の寝所に佇み、カーテンを押しのけて寝顔をまじまじと眺めながら腕組み、首をかしげる。
数秒ほど考える熊男だったが、考えても詮無きこととすぐに顔を綻ばせる。幼少の頃はいくらでも許された領主鑑賞タイムも、最近では視界の外から観察してもなぜか視線を察知され、キツイ視線を向けられた後そっぽを向かれてしまうのでなかなか時間が取れないでいる。
赤い顔をしながらキっと精一杯の怒った顔を浮かべる領主様はそれはそれで愛らしいのだが、嫌がられずに眺めるには、こうして寝込みを襲うのが一番なのであった。
「……ふむ、齢を重ねられればいくらかは先代様に似られるかと思ったが。」
節くれだった手を領主の小さな頭に添え、顔に掛かっているチャコールの髪をそっと払う。
あらわになる額を撫でながら、熊男は口の端を吊り上げて笑った。
「ふははは! ……これは驚きよの、年を経るごとにミリア様に似ていきなさる!」
小ぶりな鼻とシャープな顎。薄く開かれた桜色の唇が、額の感触を察知してまるで抗議をするかのように歪められた。起こさないように固まる熊男だったが、領主は言葉になってない音を発すると毛布を巻き込んで反対側を向いてしまう。
「……娘に生まれておれば先代様は溺愛されたであろう。いや、息子でも大して変わらぬか。――ハハ、むしろ息子のほうが嫁に行く心配がないと喜んだやもしれぬな。」
視界に入るのは緩くウェーブした長く豊かな髪。
シャンプー剤などない世界だが、ほのかに香る匂いは生来の匂いか、はたまた奥方様がなにかしらの香をつけさせたのかもしれない。微かな汗の匂いと混じったそれを嗅ごうと、熊男はそのモジャモジャの髭面を近づけていく。
あと少しで鼻が髪に埋もれるくらいのところで静止する。
髪に手を差し入れて動かせば、白い項が目を楽しませてくれる。本当に姫御でなくて良かったかもしれない、もし王の目に止まれば後宮に押し込められても不思議はなかったろう。
だが今は自分の手の内にある、熊男は顔を綻ばせると目と鼻と、そして耳で寝息を聞きながら、今度は残る感触で、あわよくば味覚で堪能しようと更に顔を近づけていく。
はたから見れば、いや、どこからどう見ても犯罪者そのものである。
しかしその目は優しげで、欲情などどこにも……。
「――…うむ、やはりイィな。」
――訂正、鼻息荒くしっかり欲情している熊男だった。
とはいえ今日のそれはソレばかりではないようでもある。
「……、」
すんでの所で犯罪を犯しそうになる熊男、しかしその顔は静止し、節くれだった大きな手は領主の頭にそっと添えられる。危うく飛びかけた理性を全力で押し戻すことに成功した彼の顔に浮かんだ表情は、どこか寂しげなようで、同時にこれから悪戯をしようとする子どものような不敵な笑顔。
「――ヴァルツァー卿。」
ふと気がつけば中年の騎士クリストファーが神妙な面持ちで天幕の戸口に佇んでいる。
人目など気にしない熊男であったが、美少女が野生の熊に襲いかかられる画など朝から見て気分の良いものではないので、クリストファーにとっては熊男が理性を働かせた事は幸運だったろう。
何も知らないクリストファー、今日の表情はいつものふざけた様子とは違っている。まるで全身に棘を纏っているような、長年鞘に収められてきた名刀が、今や抜き身で血煙の中を走っているかのような、どこか刺々しい雰囲気を放っていた。
そんな戦友の様子にヴァルツァーはニヤリと笑って頷きを返す。
お楽しみの時間はこれで終わり、"ベルトルド様分”も補給十分に完了した。後は征き、愛する少年の敵を討ち果たすのみである。
「うむ、やはりそなたは戦場が似合いだな。 ――…さて、ヨハンの坊主はベルトルド様を抑えられるかな。」
鷹のように笑ってクリストファーを褒めた熊男だったが、傍らに眠る少年の頭をそっと撫でると、父親のような……と表現するには聊か欲情が混じりすぎていたが、概ね"父親のような”と言えないことも無い表情で呟く。
そんな微妙な顔に笑いながら、クリストファーは熊男と違ってよく整えられた白髭を撫でながら言う。
「なに、我々とていつ亡き友人どもを追うことになるか分からんのです。――これからは若い世代に頑張ってもらわなくては。」
この中年の騎士は険のある顔ながら整った鼻筋に立派な白髭を持ち、不敵な笑みがイチイチダンディーに映える男である。そんな姿を好ましく思いながら熊男は嬉しそうに頷いた。
「そうだな。……そもそも私が居なくなることでベルトルド様が狼狽してくださるとも限るまい、いつも嫌がられておるからナ。」
片目を閉じながら、悪戯っぽく笑う。おどけた語尾が実際にはベルトルドの反応を既に知っている事を示しており、ある意味では壮絶な"惚気”であった。
言葉の意味を察したクリストファーは一瞬マズイモノを食べたかのように顔をしかめたが、しかし次の瞬間には反撃とばかりに不敵に笑う。
「ふ、その蛮族面をご自覚なさるべきでしょう。獣を見慣れた農民娘ならともかく、高貴な"姫御”には視覚的にキツイものがありますな。 ……さて、時間ですぞ。」
ふん、戦場では背中に気をつけるんだな。と笑う熊男だったが、最後の言葉には深く頷き、傍らの少年へ視線を移す。今度こそ、その視線は"殆ど”慈愛に満ちていた。
「それでは行ってまいります。私が居なくても良い子で待っているのですぞ。 ――! ……、ベルトルド様?」
最後にそっと頭に触れた手、離そうとしたそれが、寝ているはずのベルトルドの小さな手に掴まれる。熊男は掛け値なしにその表情を驚愕に歪めるが、次の言葉に見るものが馬鹿馬鹿しくなるほど緩んだ笑みを浮かべる。
「……ヴぁるつぁー。」
たどたどしい口調ではあったが、しかし愛してやまぬこの少年は寝ていてさえ自分の名前を読んでくれるのだ。
ごちそうさま、とばかりにイヤな顔をして手を払うクリストファーにドヤ顔を向けると、ようやく熊男はベルトルドの手をそっと解き、やさしく毛布を直してやり、領主の大きな天幕を後にするのだった。
「馬をもてぃ! 昨夜伝えた者どもは森の西側に集結せよ!」
「角笛は鳴らすな、領主様を起こすわけにはいかんからな。」
「ヴァルツァー卿~、ずいぶんお別れの時間が長かったですね? 疚しいこととかしてませんよね?」
「後始末するなら今のうちっすよ、待っててあげますから、もしバレたりしたら戦場で生き延びてもミリア様に殺されますぜー。」
「バカモノッ! 今はそんなことを言ってる場合ではないわッ。 無駄口叩かんと動けこのチンピラども!」
グワハハハ、といつもより若干控えられた不敵な笑いが朝の空に響き渡っていく。騎士の鉄甲冑が、拍車が、軍馬の嘶きが響く。兵たちの革鎧がこすれる音、フレイルの鎖が硬質な音をたて、剣が留め金にあたる金属音が響く。
ヴァルツァーはかつて共に戦ってきた古参の騎士、兵のみを抽出。
大半の兵を領主と村の護衛に残していた。昨日、村長と歓談していた彼は情報を聞き出し、斥候を森に放ってオーク軍の大まかな駐留場所を割り出していたのである。表情はふざけていても、手ではちゃんと仕事をしている。熊男ヴァルツァーとはそういう男であった。
「ナハハハ! しかしオーク相手なのは久しぶりですね。最近は人間、それも反乱農民ばかりでしたからなぁ。」
「いやはや全く、腕がなまってしまう。久しぶりに"食いごたえ”のある相手と戦えるというのは戦士には嬉しいことです。――留守番の若い連中に申し訳ないくらいですなぁ!」
命のやり取りをする前だというのに、少なくとも表面上は彼らに緊張の色は見えない。
なぜならこれが彼らにとっての日常。呼吸するように命を奪い、瞬きする間に命を奪われる。死が向こうからやってくるものなら、せいぜいその時まで楽しく生きる。それが彼らの当たり前なのだから。
――――――――――――――
「んん……ぅ、なんだろ。……? ――…なまぐさい。」
天幕から差し込む朝日が少し強くなったころ、ようやくベルトルドは目に光の刺激を感じて苦しげに呻きながら目を覚ます。意識が覚醒して最初に感じたのは、首筋に感じる乾燥感と、微妙に残る生臭くどこか獣臭い匂い。
「……さてはあの変態、なにか悪戯したね。 寝込みを襲うのだけはやめてってあれほど言ったのに……。」
恨めしく思いながら首筋を撫でる。
さりげなく熊男から変態に呼び方がアップグレードしているが、寝起きに変な匂いがすれば誰だって嫌な気持ちになるのだから仕方が無いと納得するベルトルド。
頭にもたげてくる説明しがたい感情を抑えながら、傍らに控えられた洗面器で顔を洗い、簡単に口を濯ぐと甲冑の下に着込む間着に着替え、剣を腰にさしてふと思う。何かが足りない……。
「……?」
あたりを見渡す。耳を澄ます。匂いをかげば微かに熊男の獣臭が残っているものの、いつもなら朝一番にそのムサイ髭面を近づけてくるくせに今日に限って現れないのも妙だ。それになぜか胸の中がスースーする、朝が憂鬱なのはいつものことだが、なぜ今日はこんなにも落ち着かないのだ。
「誰か、誰かいないかっ!」
だから人を呼ぶ声には不安が混じる。
いつも呼ばなくてもやってくる男が今日は居ない。ただそれだけの事だったが、ベルトルドの薄い胸は不安にかき乱れていた。
「あ、おはよっすベルトルド様。」
「おはようヨハン。ところでヴァルツァーを見なかった?」
尋ねた瞬間、おそらく無表情を装うとしているのだろう。
ヨハンはどことなく居心地の悪そうな微妙な表情をしながら「今日は見てないっすねぇ」などと呟いている。目が泳いでいる……。
その瞬間、ベルトルドの背を名状しがたい悪寒が襲った。
ぞわりと総毛立ち、長い髪がぶわっと広がるような感覚。指先の末端まで緊張し、頬がこわばり、背筋を嫌な汗が伝うのを感じて……気がつけばヨハンの胸倉を掴みあげていた。
「ベ、ベルトルドさま!?……げほっ」
「っ! ……ごめん。」
苦しげに呻くヨハンの声を聞いてようやく我に帰る。
息が苦しい、頭が痛い……。良くわからない不快な感情、前世で高熱を出したとき、母が買い物に行ってしまいなかなか帰ってこなくて不安になったときと似ているが、何かが明確に"違う”のを感じていた。
「ヨハン、もう一度聞くよ……、ヴァルツァーはどこ?」
ヨハンは全身が警鐘を鳴らすのを感じていた。
見知っていたはずの少女めいた少年、その瞳の輝きがない。その暗い色を彼は見たことがある、寒く貧しい自分の村、両親に売られると分かったときの、年頃の娘の目に同じ暗さを見たのだ。
喉を鳴らす、普段頼りない者もこの目をしているときは途方も無いことを仕出かすものだ。逆らってはいけない、半人前とはいえ戦士の訓練を積んだヨハンの本能がそう告げていた。
「け、今朝方オーク軍の討伐に出征しましたっす。ベ、ベテランのおっさん連中ばかり連れて。」
「……ッ! ――…っ。」
「ベルトルドさまッ!」
ほんの一瞬の出来事だった。
ヨハンの言葉を聞くや驚愕とも怒りとも取れぬ表情を浮かべたベルトルドは、次の瞬間には顔から力を無くして崩れ落ちてしまう。それを慌てて抱きとめたヨハンは、焦点の合わぬ目でブツブツと呟く声をハッキリと聞きとめてしまった。
「……これは罠だ、クソ! クソ……、どうして気づかなかったんだ。彼の性格だったら僕の代わりに行くことくらい十分に有り得た事だし、そろそろ"彼女”が仕掛けてきたっておかしくない頃合なのに……!」
(……罠? 彼女? どういうことっすか。)
領主を抱きとめながら謎の言葉に戸惑うヨハン、ともかくも落ち着かせなくてはと口を開いた刹那、その声が領主の耳に届くことは無かった。突如として鳴り響いた角笛の音と、それに続いて軍馬の嘶きに混じり斥候の悲鳴じみた大声があたり一面を覆ったからだ。
「敵襲ーっ! オークの一隊がこちらへ向かってくるぞ、武器を取れ! 連中はもうすぐそこだ。村の前哨が攻撃を受けている!」
その知らせは陣地を、そして少し離れた村を文字通り揺るがした。
前哨とは村の西側に位置する森の際、取水地の傍に作られた見張り塔のことだ。そこから村まではせいぜい歩いて30分、まごまごしている暇はこれっぽっちもありはしない。
ヨハンは指示を求めて自然と顔を上げたが、そこにあるはずの熊男や、クリストファーら古参の騎士らはあらかた出払っている。残っているベテランも居ないことは無かったが、天幕の外から聞こえる喧騒の中で指揮系統を確立するのは難しいだろう。
今こそ領主の名と紋章を染め抜いた旗を必要とするときだ。ヨハンは天幕の外を忙しく駆け回る男達の喧騒を聞きながら必死の表情で、呆けた顔をしているベルトルドを揺さぶった。
「ベルトルド様! 敵です、敵がきたんです! ヴァルツァー卿もおっさん連中も居ない、俺たちがしっかりしないと殺されるっすよ! みんな、村人だってあの女の子だって皆殺されてしまうっす!」
「……敵、やっぱりか。……でも僕、そんな、僕にはなにもわからない。」
「そりゃそうっす、ベルトルド様はまだ幼いっすから誰も細かいこた期待しちゃいません!普通ならヴァルツァー卿のお役目っすけど、"彼は今居ないんです!”」
強く肩を揺さぶりながら発せられた言葉。
逆ハの字に固められたヨハンの神妙な顔、そして声。最後の一言がベルトルドの怯えきった心にようやく生きた心地をつけさせた。深く息を吸い、吐き、そして震えながら自嘲気味に笑う。
「……ごめん、僕、細かいことは一切分からないから教えて。――で、まず最初に何をすればいい?」
目元にはまだ涙が残り、鼻は赤らみ唇は震えている。
指揮官とか、戦士とかいうより。それは可憐な姫御が、蛮族の襲撃に手折られかけているような……どこからどう見ても頼りない光景だった。しかし、その瞳には光がある。
ベルトルドの自嘲気味な笑みに、「それでこそ領主様っす」とヨハンも不敵な笑みを返す。それは中年騎士連中が浮かべるあの笑みで、その不敵な根性は確かにヨハンにも受け継がれているのであった。
「そんじゃー手始めにコレからいきましょっか!」
外では大の大人が悪態をつき、半裸で寝ていた男があたふたと鎖鎧を装着したりする音が響いてくる。更に遠くの村では女、子どもの悲鳴が聞こえ、まさに阿鼻叫喚といった様相を呈していた。
しかし天幕の中ではまるで遠足に行く前のように軽やかな声でヨハンが笑い、手際よく領主を"御輿に担ぐ”為の準備を進めている。そんなどこか現実離れした光景、初めての命の奪い合いの予感に青ざめるベルトルドも少しだけ、ほんの少しだけ明るく笑うことができたのだった。
次こそ戦闘! とか言ってたくせにここで切りますorz
この続きは今から書きますので、うー! 甲冑と斧がかち合う火花とか書きたい。中世モノを書く利点はまさにこの点だと思うのですよ。