盗まれた原図
記録庫の扉は、内側から黒い煙を吐いていた。
エルナが階段を駆け下りると、番兵たちが雪を詰めた桶を運び、マレナは濡れ布を口元に当てて鍵束を握りしめていた。地下へ続く石段の途中で、オスカーが振り返る。
「エルナ、無理はするな」
「原図が下にあります。あれを失えば、旧道が消された証拠も失われます」
言い終える前に、彼女は測量杖を床へ突いた。石の下を流れる細い水脈へ意識を澄ませ、杖先から青白い光を落とす。水の気配は古い井戸へつながっていた。エルナが線を引くと、井戸からくみ上げられた水が霧となって階段を満たし、煙の熱を押し返した。
その隙にガルドが扉を蹴り開ける。中は煤と焦げた革の匂いで満ちていた。壁際の棚が一つ崩れ、台帳の端が赤く燃えている。番兵が布で火を叩き消し、オスカーは迷わず中央の石机へ向かった。
「十五年前の通行帳はここだ。税帳も残っている」
安堵した声が聞こえた。けれどエルナの胸は冷えたままだった。
石机の奥、古い地図筒を並べていた棚だけが、不自然に空いている。埃の跡が丸く残り、封緘に使われた青い蝋の欠片が床に落ちていた。
「……原図がありません」
マレナが息を呑む。
「北西街道の原図ですか」
「はい。王都の測量役が来る前、市で保管していた写しではなく、初代レイヴェル卿と市の測量師が重ねて封じた原図です」
エルナは床に膝をつき、蝋の欠片を拾った。そこには市章の麦穂ではなく、測量局で使う星形の細工がうっすら残っている。犯人は原図の場所を知っていた。火は帳面を焼くためではない。盗み出したことを煙で隠すためのものだった。
「出口を固めろ。市門もだ」
オスカーの声が低く響く。番兵が走り去り、ガルドは焦げた窓枠を押し上げた。外の雪面に、黒い煤を踏んだ足跡が続いている。人ひとり分の幅。足跡は裏路地へ向かい、荷馬車の轍に重なって消えていた。
「馬車を替えられたな」
ガルドが舌打ちする。
エルナは白地図を開いた。辺境市の灯点は先ほどより弱く、まるで盗まれた原図の空白を感じ取っているようだった。地脈の流れを読むと、裏路地の端に微かな乱れが残っている。測量紙に触れた者だけがまとう、乾いた銀粉の匂い。
「まだ近くにあります。完全には離れていません」
「追えるか」
「地脈には残り香があります。ただ、長くはもちません」
オスカーは頷き、マレナへ振り向いた。
「残った台帳を封じて守ってくれ。原図は我々が追う」
「どうか、取り戻してください。あれは市の記憶です」
マレナの声に、エルナは深く頷いた。
雪の裏路地を抜けると、灯りの消えた染物小屋に着いた。表の扉は閉まっているのに、裏口の錠だけが新しく傷ついている。ガルドが斧の柄で戸を押すと、内側から冷えた油の匂いが流れ出した。
床には粗布が散らばり、荷造り用の縄が切られていた。窓辺の机には、小さな羊皮紙が一枚だけ残されている。エルナが手袋越しに拾い上げると、そこには旧北西街道の一部が描かれていた。
けれど線が違う。
市で見た古い帳面と、昨日エルナが測った地脈の線なら、峠から市までは緩やかに北へ曲がる。羊皮紙の線は途中で断ち切られ、代わりに赤い印で「雪崩跡」と書き込まれていた。存在しない崩落。王都の誓図に載る嘘の線そのものだった。
「これは原図ではありません」
「偽図の下書きか」
「おそらく。原図を盗んだ者は、これと照らし合わせるつもりです」
エルナは紙の端を見つめた。右下に、細い癖のある筆跡で短い指示が残っている。
『原線は残すな。星杭の記録と合わせよ』
星杭。王立測量局が公式測量の起点に用いる杭だ。だが辺境市の古い測量では、市章の麦穂杭が使われていたはずだった。
「十五年前、誰かが王都の星杭を持ち込み、市の原線を上書きしたんです」
エルナの声は、自分で思うより硬かった。王都で学んだ誓図の作法。正しい線を守るためにあるはずの印が、土地の記憶を消すために使われている。
そのとき、外で馬の蹄が鳴った。ガルドが窓へ飛びつく。
「北門だ。軽馬車が一台、柵を抜けた」
オスカーは即座に剣帯を締め直したが、エルナは白地図の端を押さえた。北門の先には凍った河原がある。夜に追えば、盗人も追う者も足を取られる。
「待ってください。原図には古い封印が残っています。水脈を越えると反応が変わるはずです」
「なら、先回りする」
オスカーは迷わなかった。
彼らは市壁の内側を走り、凍った井戸のそばに出た。エルナが杖を掲げると、白地図の北端に淡い光が浮かぶ。細い光は河原へ向かわず、北門を出てすぐ東へ折れた。
「逃げていません。隠したんです」
灯りを消した倉庫の陰で、雪が不自然に盛り上がっていた。ガルドが掘ると、油布に包まれた地図筒が現れる。青い蝋封は半分削られていたが、中の紙は無事だった。
マレナが見れば泣くだろう。エルナは胸を撫で下ろしかけて、指を止めた。地図筒の底に、別の紙片が押し込まれている。
そこには王都へ送る短い書き付けがあった。
『原図回収失敗。セルヴィック嬢が旧線を読んだ。偽図作成者の名は、まだ伏せる』
署名はない。けれど封紙に残った香は、王都で何度も嗅いだ高価な青墨のものだった。ジェラルドが好んで使っていた、見栄えだけはよい墨。
エルナの手が震える。
「私を追い出しただけでは、足りなかったのですね」
「違う」
オスカーは静かに言った。
「君を恐れたんだ。だから原図を盗み、火を放った」
その言葉は、雪夜の中で小さな杭のようにエルナの心へ立った。折れないための杭だ。
エルナは原図を抱え、白地図へ視線を落とした。盗まれかけた古い線は、まだ消えていない。ならば次にすることは一つだった。
「偽図を描いた者を、見つけます」
北門の外では、空の馬車だけが闇へ走っていた。けれど真実の線は、もう王都へ向かって伸び始めていた。




