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婚約破棄された魔法測量士は、辺境伯の白地図に春を描く  作者: 銀細工ナギ


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6/20

王都から届いた取り消し命令

 水門を開けた翌朝、宿場の広間には湿った土の匂いが残っていた。


 旧水路から戻った者たちが靴につけてきた泥は、床板の隙間で乾き始めている。暖炉の前ではマルタが濡れた手袋を並べ、若い番兵たちは水車小屋が三度鳴っただの、いや四度だのと小声で言い合っていた。


 エルナは窓辺の机で、白地図に昨日の記録を写していた。水門の位置、開放した時刻、流れた水量、立ち会った者の名。どれも王都の役所では面倒がられた細かな記録だ。だが、土地を守るのは華やかな式典ではなく、こうした消えやすい数字だと彼女は知っている。


「セルヴィック顧問」


 呼ばれて、胸が一拍遅れた。昨日交わしたばかりの肩書きは、まだ自分のものとして響ききらない。


 扉のそばに立っていたガルドが、外を顎で示した。


「王都の早馬だ。レイヴェル様宛てと、あんた宛てがある」


 広間の声が途切れた。


 雪を払って入ってきた使者は、旅装のまま膝をついた。差し出された筒には、王立測量局の青い封蝋が押されている。もう一つ、赤い封蝋にはクラインベル家の紋があった。


 エルナの指先が冷えた。


 オスカーは彼女より先に筒を受け取らなかった。ただ、静かに言った。


「宛名は」


「レイヴェル辺境伯閣下、ならびに元王立測量士エルナ・セルヴィック嬢」


 元、という一語が広間に落ちた。


 エルナは息を整え、青い封を切った。羊皮紙には整った役所文字で、彼女の辺境派遣を取り消すこと、王立測量士の資格を審査終了まで停止すること、白地図および作成中の原図を速やかに王都へ返納することが書かれていた。


 最後の行には、昨日開いた水門についても触れられている。


 無許可の旧施設開放により、国境堤への危険を増した疑いあり。


 エルナはそこだけを二度読んだ。水は東へ逃げ、堤への負担は減っている。それを現地で見もせず、危険が増したと断じている。


「なんだ、それ」


 ガルドが低くうなった。


「昨日は俺たちも見てた。水は暴れなかった。低地へ回った」


「声を荒げるな」


 オスカーが制したが、その目も冷えていた。彼は赤い封の書面を開き、すぐに口元を引き結んだ。


「こちらは、王都へ戻る馬車を用意するとの親切な申し出だ。差出人はジェラルド・クラインベル。同行の護衛付き、だそうだ」


 親切。護衛。どちらも、エルナには別の意味に聞こえた。


 広間の奥で、マルタが手袋を握りしめる。


「連れていく気なんですか」


「命令だけを見れば、そう読ませたいのだろう」


 オスカーは書面を机に置いた。


「だが、これは測量局の停止命令であって、レイヴェル領の契約を無効にするものではない。白地図は私が領主印で預けたものだ。返納先を王都と決める権限は、少なくともこの紙には書かれていない」


 エルナは羊皮紙の端を押さえた。爪の下に昨日の泥がまだ残っている。王都にいたころなら、命令の文字を見ただけで足がすくんだ。婚約者だった人の家紋を見れば、反論する前に謝罪の言葉を探した。


 けれど今、机の上には白地図がある。水門の青い線が、朝の光を受けてかすかに輝いている。彼女ひとりの名誉ではなく、この土地の春につながる線だった。


「測量士の資格が停止されれば、私の記録は公式の誓図として扱われません」


「公式にする道は別に探す」


 オスカーは即座に言った。


「君の仕事が正しいかどうかは、王都の机ではなく、土地と記録で確かめる。私の領で必要なのは、その二つだ」


 その言葉に、胸の奥の氷が少しだけ溶けた。


 使者が咳払いをする。


「返答を、本日中にいただきたいと」


「ならば、昼まで待て」


 オスカーは短く返し、エルナに向き直った。


「君の判断を聞きたい。王都へ戻る道を選んでも、私は君を責めない。だが残るなら、ここからは圧力も妨害も増える」


 広間にいる全員がエルナを見ていた。期待ではなく、不安を隠しきれない目だ。彼女はそれを重荷として受け取った。軽い言葉で安心させることはできない。


「命令に従って戻れば、昨日の水門は『危険な開放』として記録されます。旧水路が誓図から消されていた理由も、調べられないままになります」


 エルナは白地図の北西に指を置いた。旧水路から伸びた薄い青線は、途中で灰色の丘陵にぶつかって消えている。


「水はここで一度止まっています。丘ではなく、道です。古い峠道か、石を伏せた排水路があるはずです。そこを測れば、王都の誓図がどこで曲げられたのか、次の証拠になります」


「灰色峠か」


 ガルドが渋い顔をした。


「冬に入る場所じゃない。霧が濃いし、足場も悪い」


「だからこそ、机の上では分からない線が残ります」


 エルナは青い封の命令書を畳み、白地図の脇へ置いた。


「私は戻りません。王都の資格が止められても、土地を測る目まで返した覚えはありません」


 マルタが小さく息を吐いた。番兵たちの肩から力が抜ける。オスカーだけは表情を変えず、しかし目元にわずかな温かさを宿した。


「では返書を書く。レイヴェル領は独自調査を継続する。白地図は領内保全。原図の写しは、改竄防止の封印をして保管する」


「もう一通、私からも出します」


 エルナは言った。


「王立測量局へではなく、王立記録院のミラ・アストリ記録官へ。彼女なら、命令書の日付と水門の実測記録を別帳に残せます」


「信頼できるのか」


「王都で、最後まで記録の欄を空けなかった人です」


 それだけで十分だった。オスカーはうなずき、紙と封蝋を用意させた。


 昼前、使者は二通の返書を持って宿場を発った。雪道に馬蹄の音が遠ざかると、広間には再び水の気配を含んだ静けさが戻った。


 エルナは外套を取り、測量杖を手にした。


「灰色峠へ向かう準備をします。命令書が届いた日も、地脈は止まりませんから」


 オスカーが扉を開ける。冷たい風の向こうで、冬の山並みが白く沈んでいた。


 王都から届いた紙は、エルナの名を消そうとしていた。


 けれど白地図の上には、まだ誰にも消されていない道があった。

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