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婚約破棄された魔法測量士は、辺境伯の白地図に春を描く  作者: 銀細工ナギ


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20/20

春を描く測量士

 北西辺境に本当の春が来た日、エルナは夜明け前から測量室にいた。


 窓を細く開けると、雪解け水の匂いが冷たい空気の奥でほどけている。机の上には、もう白いままではない地図が広がっていた。水門から畑へ走る青、峠を越える灰、辺境市へ続く琥珀の道、国境堤を支える銀の線。どれも一度は失われ、歪められ、そして測り直されたものだった。


 最後の余白は、城下から春祭りの広場へ向かう小さな道筋だけだ。


「眠っていないのか」


 扉の向こうから、オスカーの声がした。


「少しだけです。今日で北西の誓図が一区切りつくと思うと、目が覚めてしまって」


「俺も同じだ」


 入ってきた彼の手には、王都から届いた封書があった。赤い封蝋は裁定院のものだ。エルナは杖を置き、静かにそれを受け取った。


 偽測量に関わったダリオの商会は解体され、隠していた資産は国境堤と水路の修繕に充てられる。ジェラルドは測量局の職を解かれ、クラインベル家も監査下に置かれる。エルナへの罪状は正式に消え、王立記録庫には公開測量の原図が正本として収められた。


 何度も願ったはずの報せだった。けれど胸に湧いたのは、勝ち誇る熱ではなかった。


「堤を直せますね」


 エルナが最初にそう言うと、オスカーは穏やかにうなずいた。


「ああ。君が守った線で、今度は石を積める」


 誰かを落とすための証明ではない。土地を戻すための証明だった。それで十分だと、エルナは思えた。


 朝鐘が鳴る頃、城下の広場には人々が集まり始めていた。春祭りの旗はまだ新しく、風に揺れるたび、青と若草色が混ざって見えた。水門で働いた職人、峠の測量隊、市場の商人、畑から来た家族たち。誰もが厚い外套を脱ぎかけ、冬が終わるのを確かめるように空を見上げている。


 広場の中央には、大きな板の上に白地図が据えられていた。


「セルヴィック測量士、杭の確認、終わりました」


 測量隊の少年が息を弾ませて駆けてくる。彼の後ろでは、かつてエルナの手元をおそるおそる覗いていた若者たちが、今は自分の杖と記録板を持って並んでいた。


「では、最後は皆で測りましょう」


 エルナが言うと、少年の顔がぱっと明るくなる。


「私たちもですか」


「誓図は一人で描くものではありません。土地を見る目が多いほど、嘘は入りにくくなります」


 広場の空気が静まった。エルナは杖を掲げ、測量隊に合図を送る。水門、峠、市場、堤。それぞれの地点に立つ仲間から、光の粒が返ってきた。地脈の響きは、以前よりずっと澄んでいる。塞がれていた水は流れ、曲げられていた道は正され、人の暮らしが土地の呼吸と重なり始めていた。


 最後の道筋へ杖先を置く。


 細い緑の線が生まれた。広場から畑へ、畑から水路へ、水路から国境堤へ。線はゆっくりと地図の上を進み、これまで描いた青や銀や琥珀に触れるたび、淡い花のような光を咲かせていく。


 子どもが歓声を上げた。誰かが泣き、誰かが笑った。春祭りの鐘が鳴り、辺境の空へ音が広がっていく。


「北西誓図、定着」


 エルナの声は、思ったよりもよく響いた。


「ここに住む人々と、この土地のために」


 光が収まったあと、地図には空白が残っていた。まだ測っていない森、名もない泉、季節ごとに姿を変える牧草地。完成したのに、終わっていない。その余白が、エルナにはひどく愛おしかった。


 式が終わると、オスカーが人々の前へ一歩出た。


「レイヴェル辺境伯として告げる。今日より北西誓図の主任測量士を、エルナ・セルヴィックに任じる」


 拍手が起きる。けれど彼はそこで言葉を切らなかった。


「そして、これは領主としてではなく、俺個人の願いだ」


 広場が一瞬で静かになる。エルナは息をのんだ。オスカーは彼女に向き直り、深くはっきりと告げた。


「エルナ。君の仕事を、誇りを、選ぶ自由を、これからも尊びたい。俺と共に、この地図の先を歩いてくれないか」


 かつて王都の広間で投げつけられた婚約破棄の言葉が、遠い過去のようにほどけていく。あの時、エルナは居場所を失ったのだと思った。けれど本当は、誰かが決めた線から外れただけだった。


 今、目の前には自分で選べる道がある。


「はい」


 エルナは杖を胸に抱き、まっすぐ答えた。


「測量士としても、一人の私としても、あなたの隣を歩きます」


 次の瞬間、広場は割れるような拍手に包まれた。ミラが記録板の陰でほんの少し笑っている。測量隊の少年は、なぜか自分のことのように胸を張っていた。


 昼を過ぎると、雪解けの水路に最初の水車が回った。市場には新しい店の柱が立ち、堤の上では石工たちが修繕の印を刻んでいる。エルナはオスカーと並んで丘へ上がり、広がる領地を見渡した。


「白地図ではなくなったな」


「はい。でも、余白はあります」


 エルナは微笑み、春風に揺れる地図を押さえた。


「明日も測れます。間違えたら、また確かめられます。だから、この地図は生きていけるんです」


 オスカーの手が、そっと彼女の手に重なった。


 王都で失った名も、濡れ衣も、偽りの線も、もう彼女を縛らない。エルナが描いた春は、紙の上だけでなく、人々の暮らしの中へ流れ始めている。


 遠くで鐘が鳴った。


 エルナ・セルヴィックは、春を描く測量士として、選んだ未来へ歩き出した。

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