王都審理、開廷
王都の裁定院は、白い石でできている。
磨かれた床も、高い柱も、天井から垂れる銀の鎖も、雨に濡れた北堤とはまるで違った。けれどエルナは、そこに流れる空気が堤の水より冷たいことを知っていた。
審理の間の中央には、封印された誓図筒が三本置かれている。一本は王都提出図。一本は辺境側の古写し。もう一本は、あの雨の中でエルナが描いた現況誓図だった。
「北西国境堤測量不正ならびに国境事業費横領疑義に関する審理を開廷する」
主席裁定官の声が響くと、傍聴席のざわめきが消えた。
エルナは証人席の前で背筋を伸ばした。王都の貴族たちの視線が、濡れた泥より重く肩に乗る。かつて婚約破棄の夜に浴びせられた好奇と嘲りが、形を変えて戻ってきたようだった。
だが、今の彼女の隣にはミラがいる。少し離れた領主席にはオスカーがいる。彼は言葉をかけなかった。ただ、エルナが振り返った一瞬、静かに頷いた。
それだけで、胸の奥の線がまっすぐになる。
「まず、提出図の作成責任者を確認する。ジェラルド・クラインベル」
「はい」
ジェラルドは礼服の襟を正し、前へ出た。顔色は悪くない。むしろ、ここが自分の場所だと言うように顎を上げている。
「王都提出図は、王立測量局の正規手続きに従って保管されていたものです。辺境で示された図は、豪雨という異常条件下で一測量士が描いた暫定図にすぎません」
彼の声はよく通った。傍聴席の一部が小さく頷く。
「そして、その一測量士とは、国境堤崩落の責を問われていたセルヴィック嬢です。彼女には、自らの失態を覆す動機がある」
名を呼ばれても、エルナは息を乱さなかった。
「発言を許されたときに答えます」
ミラが隣でごく小さく頷き、記録筆を走らせた。
次に呼ばれたダリオ・メルクは、商会主らしい深い礼をした。だが指先は袖の中で落ち着きなく動いている。
「当商会は資材を納めただけでございます。測量線のことなど、専門外でして」
「では、工事完了印のついた請求書についても専門外か」
主席裁定官が合図すると、書記官が束になった羊皮紙を広げた。堤補修、旧水路閉塞、杭打ち替え。何年分もの名目が、同じ商会印で並んでいる。
ダリオの喉が鳴った。
「それは、現地代官の確認を受けて」
「現地代官は三年前に死亡している。その後の確認印も同じ筆跡だ」
審理の間に、乾いたざわめきが広がった。
ジェラルドが一歩踏み出す。
「請求の不備と測量図の正当性は別問題です。仮に商会に不正があったとしても、セルヴィック嬢の描いた線が真実とは限らない」
「その通りです」
エルナは初めて口を開いた。
意外そうな視線が集まる。ジェラルドの眉が動いた。
「雨の現況誓図だけでは、過去の改ざんを裁くには足りません。だから私は、北堤で描いた線を証拠の終点ではなく、入口として提出します」
ミラが封箱を掲げた。
「王立記録官ミラ・アストリ。裁定官立ち会いのもと、辺境側保管の古写し、王都保管台帳、公開測量記録の照合結果を提出します」
箱の封蝋が割られる。中から現れたのは、地図ではなく薄い記録板だった。測量士が誓図を定着させる際、杖の鳴りを刻む補助板。普段は地味で、貴族の目に触れることもない道具だ。
「王都提出図には、旧水路を消した痕跡があります。しかし問題は消し方です。通常の修正ではなく、別の地脈音を重ねて塗りつぶしている」
エルナは記録板に手を添えた。魔力を流すと、板の上に細い青線が浮かぶ。続いて、その上を不自然な灰色の線が覆った。
「この灰色の線は、地脈ではありません。人工の反響です」
「反響だと?」
「はい。水路も道もない場所に、杭だけを打って地脈に似せた音を作る技です。粗い偽装ならすぐ分かります。でも王都提出図の偽装は、測量局の作法を知る者が関わっています」
審理の間が静まり返った。
ジェラルドは笑った。けれど、その笑みは口元だけに残り、目には届いていない。
「言いがかりだ。測量局の作法を知る者など、君自身もそうだろう」
「ええ」
エルナはまっすぐ彼を見た。
「だから、私一人の証言で裁いてほしいとは申しません」
ミラが次の紙束を開く。
「測量局の夜間入庫記録です。王都提出図が正式保管庫へ入る前夜、原図室に入った者が二名います。一名は当時の担当補佐官ジェラルド・クラインベル殿。もう一名は、商会主ダリオ・メルク殿の使者です」
「捏造だ!」
ジェラルドの声が初めて荒れた。
主席裁定官は銀鎖を鳴らした。
「静粛に。クラインベル殿、記録官への威圧は審理妨害とみなす」
傍聴席の端で、誰かが息を呑む音がした。かつてエルナを責める側にいた王都の空気が、ほんのわずかに向きを変えた。
けれど、まだ足りない。
入庫記録は、扉を開けた証拠でしかない。誰が線を重ねたのか。誰が消えた工事費を受け取ったのか。誰がエルナに崩落の罪を着せたのか。真実の輪郭は見えていても、裁定に必要な最後の線がまだ引かれていない。
主席裁定官は三本の誓図筒を見比べた。
「セルヴィック嬢。あなたは、王都提出図に重ねられた人工反響を、この場で分離できるか」
エルナの指先が冷えた。
できる。だがそれは、偽りの線と本来の地脈を同じ紙面に呼び戻す作業だ。失敗すれば、彼らはまた言うだろう。縁起の悪い測量士が、王都の地図を壊したのだと。
その時、オスカーが席を立った。
「裁定官殿。辺境伯レイヴェル家は、分離測量に必要な白地図を提供します」
廷吏が白い筒を運ぶ。
エルナが初めて辺境で受け取ったものと同じ、何も描かれていない地図。命令ではなく、信頼として差し出された場所。
彼女は両手で受け取った。
「行います」
声は震えなかった。
「王都提出図に隠された線を、ここで引き直します」
主席裁定官が頷く。
「よろしい。次廷、公開分離測量を実施する。審理は続行とする」
銀鎖が鳴り、開廷の間に緊張が残された。
エルナは白地図を胸に抱いた。泥の上ではなく、王都の白い床の上で。今度こそ、消された真実を誰にも踏ませないために。




