春祭りの招待状
メルク商会の帳簿箱が市庁舎の地下庫へ運び込まれた翌朝、辺境市には春祭りの旗が立ち始めた。
雪解けを待っていたように、通りの軒先には若草色の布が掛けられ、鍛冶屋の前では子どもたちが小さな風車を回している。昨夜まで偽図の灰と鉄粉を追っていたエルナには、その明るさが少し眩しかった。
「春は、来るのですね」
彼女がぽつりと言うと、隣で荷台の封印を確かめていたオスカーが顔を上げた。
「来させるために、冬の間ずっと働いてきた」
実務的な言葉なのに、胸の奥が温まった。水門を開き、峠道を測り、旧街道の嘘を暴いた。そのすべてが、今朝の旗につながっている。エルナは白地図を抱え直し、小さく頷いた。
その時、市門のほうから早馬の蹄音が響いた。
届けられた封書は二通あった。一通は王都の紋章で封じられた正式な招待状。春祭りの中央広場で、辺境伯領の復旧状況を諸侯へ報告せよ、という丁寧な命令だった。末尾には、王立測量局臨時監査官としてジェラルド・クラインベルの名がある。
もう一通は、同じ王都から来たものなのに、封蝋の色が違っていた。澄んだ灰色の蝋に、記録官の細い羽根印。
「ミラ・アストリ……」
エルナは名を読み上げ、指先を止めた。王都測量局にいたころ、彼女の申請書をいつも正しい棚へ戻してくれた記録官だ。派手な味方ではなかった。けれど、間違った記録を見過ごさない人だった。
封書には短い文だけが記されていた。
『春祭りの招待は、公開の場であなたを再び沈黙させるためのものです。けれど公開の場は、記録を残す場でもあります。原図と帳簿を持参してください。私は王都側の記録席を押さえます』
最後に、小さく追伸があった。
『今度は、あなたの発言を削らせません』
エルナは紙面を見つめたまま、しばらく息を忘れた。夜会で婚約破棄を告げられた時、誰も自分の言葉を記録しなかった。聞かれなかった言葉は、初めからなかったものにされる。その痛みを、ミラは覚えていてくれたのだ。
「行きます」
言ってから、声が震えていないことに気づいた。
オスカーは招待状を読み終え、静かに問い返した。
「測量士としてか」
「はい。偽図の証拠を示し、旧道と水路の正しい線を説明します。辺境の復旧は遅れていません。遅れていたのは、正しい地図を認めることです」
「では、俺からも招待状を出す」
思わぬ言葉に、エルナは瞬いた。
オスカーは執務机へ向かうと、新しい羊皮紙を広げた。領主印を置き、迷いのない筆致で書き始める。その横顔は、いつものように険しい。けれど耳のあたりだけ、ほんの少し赤く見えた。
「王都の招待状は、おまえを証人として呼んでいる。俺の招待状は違う。春祭りの復旧報告において、レイヴェル辺境伯領の主任測量士エルナ・セルヴィック殿の同席を求める」
「同席、ですか」
「隣に立ってもらう。背後でも、端でもない」
その言葉は、どんな称賛よりもまっすぐにエルナの胸へ届いた。彼女は王都では、いつも誰かの後ろに置かれていた。婚約者の隣に立つ日でさえ、便利な家名と測量の腕だけを求められ、自分の意見は余計なものとして扱われた。
けれどこの人は、白地図を差し出した時からずっと、彼女に線を引かせてくれた。
「オスカー様」
呼ぶと、彼の筆が止まった。
「私は、王都へ戻るのが怖くないと言えば嘘になります。あの広間の光や、笑い声や、ジェラルド様の声を思い出すと、まだ手が冷えます」
「当然だ」
短い返事だった。慰めの言葉ではないのに、不思議と楽になった。怖がる自分を責められないだけで、足元の地面が少し固くなる。
「それでも行きます。私が沈黙したままだと、辺境の線まで黙らされたことになりますから」
オスカーは立ち上がり、机越しではなくエルナの前へ来た。厚い手袋を外した手が、白地図を抱える彼女の指先に触れる。ほんの一瞬だったが、冷えていた手に熱が移った。
「ならば俺は、おまえが話し終えるまで黙らせない」
低い声だった。命令でも誓約でもない。ただ、彼の領地を守る時と同じ重さで告げられた約束だった。
エルナは視線を落とした。自分の指先が、まだ彼の温度を覚えている。それが恥ずかしくて、けれど手を引きたくはなかった。
市庁舎の窓の外で、春祭りの鐘を試す音が鳴った。軽く、明るく、遠くまで届く音だ。
その日の午後、エルナは測量隊とともに広場の下見へ向かった。中央には祭壇が組まれ、周囲には商人の屋台が並び始めている。メルク商会の旗は外されていたが、空いた場所だけが不自然に広く、そこへ王都の使節席が置かれる予定だという。
ガルドが渋い顔で石畳を蹴った。
「ここで詰問されりゃ、声の大きいほうが勝つ」
「いいえ」
エルナは測量杖を石畳に立てた。春の地脈はまだ浅い。けれど水門から戻った流れと、旧道へ伸びる細い力が、広場の下で確かにつながっている。
「ここで測れば、嘘の線は響きません」
白地図の端に、淡い若草色の光が走った。春祭りの招待状は、彼女を辱めるために届いたのかもしれない。けれど今、エルナの手の中で、それは別の意味を持ち始めていた。
王都へ戻る道ではない。
自分の仕事で、王都へ線を引き返すための招待状だった。




