第5話
桜が散り、新緑の季節が過ぎ、セミが鳴き始め、そしてまた桜が咲いた。
そんなサイクルを適当にやり過ごし、僕は7歳になった。小学二年生だ。
7歳といえば、前世の記憶では九九を暗記させられたり、鍵盤ハーモニカで『カエルの歌』を吹かされたりする時期だ。
実に平和で牧歌的で、そして――死ぬほど退屈な時間である。
「はい、それじゃあ皆さーん。教科書の32ページを開いてくださーい」
先生の気の抜けるような声が、教室に響く。
窓の外は快晴。絶好のサボり日和だ。
僕は机の中に隠したスマホをいじりながら(もちろん先生からは見えない角度で)、大きな溜息をついた。
(……無理だ)
時々こうして気分転換に「本物」の体で登校してみるのだが、やはり一時間目が限界だった。
周りはガキばかり。会話の内容は「昨日のアニメ」か「給食のメニュー」の話しかない。
世界経済の話も、怪異討伐のトレンドも、Tierランキングの変動も、ここでは何一つ共有できない。
僕は席を立った。
「せんせー、トイレ」
「あら六式くん。いいわよ、ハンカチ持った?」
「うん」
僕は廊下に出ると、一目散に個室トイレへと駆け込み、鍵をかけた。
そして躊躇なく能力を発動する。
「――『実体分身』」
ポンッと軽い音と共に、便器の横に「もう一人の僕」が現れる。
見た目は完全に同じ。ランドセルも服のシワも再現されている。
中身(自我)は、僕の命令に従うだけの簡易プログラムだ。
「よし、交代。今日の給食はカレーだから、服にこぼさないようにね」
「リョウカイ。……リョウカイ」
分身くんは無表情に頷き、個室を出て教室へ戻っていった。
残された「本体」の僕は、ニヤリと笑う。
「さてと。……自由時間だ」
僕は『光学迷彩』のスキル(先日カメレオン型の怪異からコピーした)を展開し、透明人間となって校舎を抜け出した。
校門の監視カメラも、警備員のおじさんも、誰も僕には気づかない。
この解放感。
やっぱり学校なんて行くもんじゃない。サボるためにあるんだよ、あんな場所は。
***
八咫烏・第三能力者待機所『鳥籠』。
昼下がりのラウンジは、夜の殺伐とした雰囲気とは違い、どこかダルそうな空気が漂っている。
ここにいるのは、夜勤明けで仮眠をとる職員か、あるいは――僕のような「社会不適合者」たちだ。
「あーマジだりぃ……」
ラウンジのソファを占領して寝転がっているのは、金髪の高校生……いや、年齢的には高校生だが、制服を着崩しすぎて原形を留めていない男。
名前は剛田。通称『振動の剛田』。
手で触れたあらゆる物質を振動させ破壊する能力を持つ、Tier 3のエージェントだ。
「おい剛田。靴のままソファに上がるなよ。マナー悪いぞ」
「あ? ……なんだ虚かよ。また学校サボりか?」
剛田は気怠げに片目を開け、僕を見ると鼻で笑った。
「お前こそ高校はどうしたんだよ。今日平日だぞ」
「行ってねぇよ。あんなクソみてぇな場所。……つーかよぉ」
彼はガバッと起き上がり、羨ましそうに僕を睨んだ。
「お前のその『分身』能力、マジでいいなー。俺も欲しいわ」
「便利だよ。宿題もやってくれるし」
「だろ!? くっそ、俺の能力も『コピー』が良かったわ……。振動とか喧嘩以外に使い道ねぇんだよ。スマホのバイブ機能の代わりくらいにしかなんねぇ」
剛田は自分の手を忌々しそうに見つめる。
能力者あるあるだ。
戦闘特化の能力者は、日常生活での不便さを常に抱えている。
彼は以前、誤って彼女の手を握った時に能力が暴走し、骨折させかけた過去があるらしい。そりゃ学校にも行きたくなくなるだろう。
「分かるー。マジそれな」
会話に割って入ってきたのは、隣のテーブルで爪を磨いていた少女。
派手なメイクに短いスカート。髪の一部がピンク色に染まっている。
彼女はリナ。影を操る『影縫い』の使い手だ。
「学校なんて行っても無駄でしょ? 因数分解とかマジ意味不だし。それより怪異倒して稼いだ方が良くない? あたしら時給換算したらエグい額稼いでるし」
「それな。俺らのワンパンがサラリーマンの月収超えるんだぜ? やってらんねぇって」
剛田とリナが意気投合して、ハイタッチする。
典型的な「ドロップアウト組」の意見だ。
だが僕も、その意見には100%同意する。
「だよねぇ。なのにさ、ヤタガラスの上司たちは『学校行け』『学校行け』ってうるさいんだよ。何なの? 洗脳?」
僕がドリンクバーのコーラを飲みながら愚痴ると、二人は深く頷いた。
「世間体ってやつだろ。能力者だってバレないように、普通のガキのフリしろってか」
「マジうざい。あたし朝起きるの苦手だしぃ。夜型の怪異専門なんだから、昼間は寝かせろって話」
この場所は、学校という枠組みから弾き出された僕たちの、唯一の避難所だ。
ここでは「テストの点数」よりも「討伐数」が、「偏差値」よりも「Tier」が評価される。
居心地が良いに決まっている。
「……お前たちなぁ」
その時。
呆れを含んだ低い声が、降ってきた。
僕たちが振り返ると、そこには黒い胴着に袴姿、腰に日本刀を差した青年――ソウジさんが立っていた。
彼は腕を組み、僕たち「サボり組」を父親のような目で見下ろしている。
「学校に行けとは言わん。だがな、ここでダラダラ過ごすのが『正解』だとも思うなよ」
「出たよ優等生発言」
剛田が舌打ちする。
「いやいやソウジさん。俺らが学校行って何すんの? 体育に混ざれって? 俺が本気出したらドッジボールで死人が出るぜ?」
「手加減を覚えろと言っているんだ。……いいかお前たち。今はいい。今は『特別』でいられることが気持ちいいだろう」
ソウジさんは、静かに諭す。
「だがな、大人になった時ふと思うんだよ。『ああ、学校行って友達と遊べばよかったな』って。修学旅行の思い出も、文化祭の騒がしさも、お前たちにはない。その空虚さは、怪異を何匹倒しても埋まらんぞ」
ズキリ。
その言葉は、転生者である僕の古傷(前世の記憶)を少しだけ刺激した。
確かに前世の僕は「普通」だった。でも、その「普通」が楽しかった記憶もある。
今の僕は「特別」だ。でも、友達と呼べる同年代は一人もいない。
「……関係ないっしょ。あたしらにはこっちの世界のツレがいるし」
リナがふんと鼻を鳴らす。強がりだ。
「だから学校ぐらい行けよ。特に虚、お前はまだ小学生だろ」
ソウジさんの矛先が、僕に向く。
「え? 僕は行ってますからね」
僕はすました顔で即答した。
「今もほら、東京都内の某小学校の教室で真面目に給食のカレーを食べてますよ。おかわりジャンケンにも参加する予定です」
「分身がな!」
ソウジさんの鋭いツッコミが飛ぶ。
剛田とリナが「ギャハハ!」と爆笑した。
「分身じゃねーか! 本体が行けよ本体が!」
「本体は大事なリソースなんだよ。カレーの染みを作るわけにはいかないの」
「屁理屈を言うな! ……全くどいつもこいつも」
ソウジさんは頭を抱えた。
彼は真面目だ。剣の道に生きる武人だからこそ、こういう「筋の通らない生き方」が放っておけないのだろう。
「うるせぇーなーもう。説教は終わりだろ?」
剛田が立ち上がり、指の関節をボキボキと鳴らした。
その振動で、テーブルの上の空き缶がカタカタと震える。
「昼飯食って眠くなってきたんだよ。……おい虚。目覚ましに一丁遊ぼうぜ?」
「お? 模擬戦?」
「おうよ。ソウジさんの説教を聞いてたら、体がウズウズしてきやがった」
いい提案だ。
僕も退屈していたところだ。
この行き場のないエネルギーを消費するには、運動が一番だ。
「そうだな。でも、ただ殴り合うのも飽きたし……」
僕はニヤリと笑い、ソウジさんを見上げた。
「ソウジさんも参加してくださいよ。口だけじゃなくて、体で教えてくれないと」
「……何?」
「ルールは簡単。『重力10倍』で腕立て伏せ。途中で潰れたり、膝をついた奴の負け」
剛田とリナが、「げっ」という顔をする。
ソウジさんは眉をひそめたが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。
「ほう……。面白い。身体能力ならTier 1に近い俺に、勝てると思っているのか?」
「勝った方が、今日のラウンジのドリンクとお菓子、全員分奢りな!」
「乗った!」
***
場所を訓練フィールドに移す。
僕、剛田、リナ、そしてソウジさんの四人が、床に手をついて腕立て伏せの姿勢をとる。
周囲には、面白がったギャラリー(他の暇なエージェントたち)が集まってきていた。
「いいか? 僕が合図したら、重力魔法を発動するからね」
僕は片手を床についたまま、魔力を練り上げる。
使うのは、以前『重力使い』の星野さんからコピーした『重力制御』。
「範囲はこのマットの上だけ。強度は10G。……死ぬ気で耐えてね?」
「へっ、10倍程度かよ。余裕だろ!」
剛田が強がる。
「あたし筋力ないんだけど! ハンデないの!?」
リナが抗議するが、無視だ。戦場にハンデはない。
「いくよ……。よーい、スタート!」
ズンッ!!!!
世界が落ちた。
そんな錯覚を覚えるほどの圧力が、僕たちの背中にのしかかる。
10G。体重が10倍になる計算だ。
60キロの剛田なら600キロ。
20キロの僕でも、200キロの負荷がかかる。
「ぐおぉぉぉぉぉッ!?」
剛田の腕の血管が、ミミズのように浮き上がる。
床に敷いた強化ゴムのマットが、悲鳴を上げて軋む。
「あ、ありえない……っ! 爪割れる……ッ!」
リナが顔を真っ赤にしてプルプル震えている。彼女は魔法使いタイプ(後衛)だ。純粋な筋力勝負は分が悪い。
「……ふんッ!」
涼しい顔をしているのはソウジさんだ。
彼は息を吐きながら、綺麗なフォームで腕を曲げ伸ばす。
1回、2回。
600キロ以上の負荷がかかっているはずなのに、まるで空気でも押しているかのような軽やかさだ。
さすが剣客。インナーマッスルがおかしい。
(負けてられないな……!)
僕も腕を動かす。
重い。鉛のようだ。
だがここで負けたら「口だけのガキ」だと思われる。
僕はこっそりと別の能力を、多重起動させる。
(『身体強化』……出力全開! さらに『筋繊維操作』で、腕の筋肉密度を一時的に3倍へ!)
ズルじゃない。工夫だ。
使えるものは全部使うのが、僕の流儀だ。
「10回……! 20回……!」
ギャラリーがカウントを叫ぶ。
汗が滝のように流れる。落ちた汗が、重力で加速して床に叩きつけられる。
「オラァッ!!」
剛田が能力を使った。
腕に振動を纏わせ、床を微振動させることで摩擦係数を減らし、無理やり体を持ち上げている。
「おい振動! それは反則だろ!」
「うるせぇ! 生き残ったもん勝ちなんだよ!」
「なら私も……!」
リナが影を操り、自分の胴体の下に「影の支え」を作る。ジャッキアップだ。
「ちょ、リナ! それ完全にズル!」
「うるさい! あたし女の子なんだから優しくしなさいよ!」
カオスだ。
もはや腕立て伏せではない。
いかに能力を使って、この理不尽な重力下で「腕立て伏せのフリ」をするかの勝負になっている。
「……お前たちプライドはないのか」
ソウジさんが呆れながらも、ペースを崩さずに50回を突破する。
彼は能力を使っていない。純粋な肉体強度と氣による強化のみ。
本物だ。
(くそ、やっぱり基礎ステータスが違う……!)
僕は焦る。
子供の体は、骨格レベルで不利だ。いくら強化しても限界が早い。
このままじゃ負ける。
奢るのは嫌だ。お小遣いはあるけど、負けて奢るのはプライドが許さない。
その時。
ピシッ。
僕の視界の端で、剛田の腕が限界を迎えた。
「ぐああーーーーッ!! 無理ッ!!」
ドサッ!
剛田が潰れた。カエルのように床に張り付く。
「脱落一名!」
続いてリナ。
「あ、メイク崩れる! もうやだ!」
自ら影を解いて脱落。
残るは僕とソウジさん。一騎打ちだ。
「どうした虚。顔が赤いぞ?」
ソウジさんが余裕の笑みで、挑発してくる。
「まだ……いけるし……!」
僕は歯を食いしばる。
回数は90回。
腕が千切れそうだ。
どうする? 重力を弱めるか? いや、それはバレる。
ならソウジさんの重力だけ、局所的に強めるか?
……いや、それも美学に反する。
その時、ソウジさんがふっと息を吐いた。
「……ふぅ。まあ今日はこれくらいにしておくか」
彼は100回目を終えたところで、スッと立ち上がった。
10Gの結界内だというのに、平然と直立している。
「俺の勝ちでいいな? これ以上やると、お前の成長期に悪影響が出る」
「……ッ!」
気遣いだ。
完全に子供扱いされた。
悔しい。でも実際に腕はパンパンで、あと一回もできる気がしない。
「……まいりました」
僕は重力結界を解除し、大の字に寝転がった。
一気に体が軽くなる。
天井の蛍光灯が眩しい。
「よっしゃあ! ソウジさんの勝ち! 虚の奢り決定ー!」
復活した剛田が、ガッツポーズをする。
「あたしハーゲンダッツがいい!」
リナが叫ぶ。
「はいはい、分かりましたよ……。全員分買えばいいんでしょ」
僕はため息をつきながら起き上がる。
財布の中身を確認する。まあ足りるか。
「ほら行くぞ、敗者たち。コンビニへ連行だ」
ソウジさんが、僕の頭をガシガシと撫でる。
その手は大きくて、分厚くて、温かい。
「……次は負けないからな」
「ああ。十年早いな」
僕たちは汗だくのまま、ゾロゾロと出口へ向かう。
学校には行かなかった。
給食のカレーも食べなかった。
でも、こうして馬鹿な連中と汗を流して、アイスを買いに行く放課後も、まあ悪くはない。
「あ、剛田。お前300円以上のやつ禁止な」
「はあ!? ケチくせぇぞ最強!」
「うるさい、敗者に選択権はないんだよ」
騒がしい笑い声が、地下通路に響く。
僕の「普通じゃない」青春は、今日もこんな感じで過ぎていく。




