第1話
「オギャア! オギャアアア!!」
……うるさい。誰だ、こんな大声で泣き叫んでいるのは。耳元で喚くな、鼓膜が破れるだろうが。
そう文句を言おうとして、気づいた。
喉が熱い。空気が肺に突き刺さるように痛い。そして何より、自分の手足が意思通りに動かない。
泥のように疲れて帰った満員電車。吊り革に掴まったまま意識が飛び、気づけばこのザマだ。
過労死。
その単語が脳裏をよぎるのと同時に、視界に飛び込んできたのは、無影灯の眩い光と、マスクをした数人の大人たちだった。
「――確認しました。脈拍、呼吸共に安定」
「魔力回路のパス、全通しています! 閉塞箇所見当たりません!」
「おお……ついに。ついに完成したのか、我ら六式家の悲願が……」
彼らの目は、生まれたばかりの赤子に向ける慈愛のそれではない。
もっとドロドロとした、狂気じみた執着と歓喜。まるで、数百年かけた実験の結果を確認するマッドサイエンティストの目だ。
(……魔力回路? 六式家?)
聞き慣れない単語。だが、言語中枢は日本語としてそれを理解している。
僕は自分の手を見た。
小さく、赤く、皺くちゃな手。
なるほど。状況は理解した。認めたくはないが、生前現実逃避のために読み漁ったウェブ小説の知識が、この状況を「転生」だと告げている。
マジかよ。
勘弁してくれ。もう一度オムツからやり直せって? 義務教育を受けて、受験戦争をして、就活をして、またあの社畜の日々に戻るのか?
絶望で目の前が真っ暗になりそうだった時、看護師らしき女性が動いた。
彼女が僕の腹部に手をかざすと、その指先が淡い緑色の燐光を放ち、へその緒の切断面を一瞬で癒合させたのだ。
(……は?)
幻覚じゃない。
窓の外、巨大なデジタルサイネージには、アイドルの新曲リリースのニュースと並んで『本日関東地方の以太濃度は安定。怪異発生確率は10%以下』という、天気予報のようなテロップが流れている。
現代だ。
でも、僕の知っている現代じゃない。
ここは、魔法や異能が科学の裏側で、あるいは公然の秘密として機能している『現代ファンタジー』の世界らしい。
「名前は……そう、『虚』だ」
厳格そうな初老の男――どうやら僕の父親らしい――が、重々しく告げた。
彼は、日本政府の要人とも繋がりのある、裏社会の顔役のようなオーラを纏っている。
「あらゆる理を飲み込み、己が物とする空虚なる器。六式 虚。それが、この子の名だ」
虚。
なんとも中二病くさい名前を付けられたものだ。
だが、その名前が意味する重さを、僕はまだ知らなかった。
とりあえず今の僕にできることは、ミルクを飲んで寝ることくらいだ。
僕は「オギャア」と適当に相槌を打ち、意識をシャットダウンした。
*
それから時が経ち、僕は3歳になった。
この3年間で僕は、この世界の、そしてこの「六式家」という特殊な環境の情報を収集した。
まずこの国には、『八咫烏』という組織が存在する。
内閣情報調査室に属する能力者管理組織。
我が六式家は、その創設期から関わる名門中の名門であり、代々強力な能力者を輩出してきた『血統書付き』の家系らしい。
広い日本庭園、無数の使用人、そして異常なまでの英才教育。
どうやら僕は、数百年にわたる品種改良の末に生まれた『最高傑作』として、一族の期待を一身に背負わされているようだ。
「若様、本日の訓練メニューです」
「……あい」
幼児語で答えながら、僕は内心で舌打ちする。
3歳児にさせるメニューじゃない。古武術の型稽古に、魔力操作の座学。普通の子供なら泣き出すレベルだが、生憎と中身は三十代のサラリーマンだ。
上司の理不尽なパワハラに比べれば、肉体的な苦痛などどうということはない。
淡々とノルマをこなし、僕は「天才児」としての評価を固めていった。
だが、最大の問題はそこじゃない。
僕の『能力』だ。
ある日の稽古中。
教育係の能力者が、手本として『火遁』のような術を見せてくれた時だった。
「いいですか若様。魔力を丹田で練り上げ、発火のイメージと共に――」
ボッ。
男の掌に、テニスボール大の火球が浮かぶ。
その瞬間。
僕の頭の中で、カチリと何かが嵌まる音がした。
(――プロセス解析完了。構成要素:酸素、熱量、指向性魔力。保存しますか? Y/N)
脳内に浮かんだウィンドウ(幻覚ではない、脳の処理領域が見せているイメージだ)に対し、僕は無意識に『Yes』を選択した。
すると。
「……こう?」
僕が小さな手を突き出すと、そこには教育係のものと全く同じ……いや、それよりも一回り大きく、青白く、燃焼効率の良さそうな火球が浮かんでいた。
「なっ……!?」
教育係が腰を抜かす。
「む、無詠唱で!? しかも、初めて見た術式を一瞬で!?」
騒ぎになる大人たちを他所に、僕は冷静に分析を進めていた。
僕の能力は、どうやら『万象模倣』。
視認した超常現象を解析し、自分のスキルとしてインストールする。
ただし、制限があった。
その日の夜、もう一度火を出そうとしたが、不発に終わったのだ。
(時間制限……か?)
体感だが、コピーした能力が保持されるのは数時間程度。
メモリ(RAM)上のデータが揮発するように、時間が経つとアプリが消えてしまうらしい。
なんだ、完全無欠のチート能力ってわけじゃないのか。
少しガッカリしたが、逆に燃えてきた。
僕は元々、ゲームでは効率厨のきらいがある。
仕様の穴を突き、制限の中で最強を目指すプレイスタイルは大好物だ。
それから僕は、家中の人間を使って検証を繰り返した。
庭師の『土壌操作』。
メイドの『静電気』。
護衛の『身体硬化』。
結果分かったこと。
1. 対象制限なし:今のところ、コピーできなかった能力はない。
2. 重複可能:複数の能力を同時にストックできる。
3. 成長性:最初は数時間だった保持時間が、使えば使うほど伸びている。今は丸一日くらい持つようになった。
なるほどね。
スノーボール式(雪だるま式)に強くなるタイプか。
前世では、誰かの代わり(コピー)のような仕事ばかりして、使い捨てられた。
だが今世では、その「コピー」こそが僕の武器になるらしい。
(悪くない。モブから主人公へのジョブチェンジ、受けて立とうじゃないか)
*
そして現在。
僕は6歳になった。
来春には小学校に入学するピカピカの一年生だ。ランドセルは何色にしようかな、なんて悩む時期だ。
なのに。
「――目標、新宿区裏路地に出現。推定脅威レベル:Tier 4。下級妖魔です」
「人払い完了。結界展開済み。一般人の視界からは遮断されています」
「了解」
僕は今、夜の東京のビル風に吹かれている。
服装は、六式家があつらえた特注の戦闘用スーツ(生意気にもアルマーニ製だ)。
耳にはインカム。
眼下には、立ち入り禁止区域のテープが貼られた、繁華街の裏路地。
「おいおい、労働基準法はどうなってるんだよ。6歳児を夜勤させるな」
『戯言を言わないでください、虚様。これは八咫烏からの正式な依頼および実地訓練です』
インカムの向こうから、教育係の冷淡な声が聞こえる。
実地訓練。
要するに、「最高傑作の実力を実戦で試してみようぜ」という、一族の悪趣味なイベントだ。
僕は溜息をつき、ビルの屋上から飛び降りた。
ヒュオオオオと風切り音が耳を打つ。
普通なら死ぬ高さだが、僕は事前にコピーしておいた『風圧操作』の能力を展開し、ふわりと着地する。
着地した先には、化け物がいた。
全身が泥と汚泥で構成されたような人型。目が四つあり、口からは腐食性のガスを吐いている。
『妖魔』。この世界に湧く因果の淀みから生まれた害虫だ。
「ギシャアアアア!!」
妖魔が僕を見つけ、威嚇の叫び声を上げる。
汚い唾液が飛んできた。
僕は眉をひそめ、一歩横に避ける。
「汚いなぁ。クリーニング代、経費で落ちるんだろうね?」
僕は冷静に、敵を観察する。
あの腐食性ガス……触れると金属すら溶かす強力な酸か。
なるほど、物理攻撃は効きにくそうだ。泥の体だから、打撃も吸収されるだろう。
(プロセス解析。対象能力:『強酸生成』および『流体ボディ』。……インストール完了)
脳内で、いつもの処理が終わる。
僕は右手を掲げた。
「ギィッ!?」
妖魔が動揺したように身を強張らせる。
本能で悟ったのだろうか。目の前の小さな子供が、自分よりも「濃い」同質の力を宿したことを。
「君の能力、便利そうだね。でも――」
僕は掌から、妖魔が吐いていたものよりも数段濃度の高い、黄金色の酸の霧を噴射した。
「出力が低すぎるよ」
ジュワアアアアアアッ!!
酸が酸を焼く、奇妙な音が響く。
僕が放った酸は、妖魔の『強酸耐性』すらも貫通し、その泥の体を一瞬でドロドロの液体へと還元していった。
「ギャアガ……ッ!?」
断末魔は一瞬。
路地裏には鼻を突く異臭と、完全に溶解した黒いシミだけが残った。
『――戦闘終了確認。お見事です、虚様。討伐タイム、わずか十二秒』
インカムから称賛の声が届くが、嬉しくもなんともない。
僕はポケットからハンカチを取り出し、手についた煤を拭った。
「雑魚すぎる。コピーする価値もないな、これじゃ」
僕は酸の能力を、脳内の『ゴミ箱』フォルダへ放り込み、能力の保持を解除した。
こんな汚い能力、持っていたくないしね。
さて、これで今日の仕事は終わりか?
家に帰って、録画しておいたアニメでも見よう。
そう思った矢先、インカムが再び鳴った。
『虚様、次です。港区の方でTier 3反応が――』
「……は?」
『一族の長老たちも、貴方の活躍をもっと見たがっておられます。さあ、移動車を回しました』
僕は夜空を見上げた。
結界の向こう側、東京の空は明るくて、星なんて見えやしない。
(結局異世界に来ても社畜かよ……)
だが不思議と、悪い気分ではなかった。
前世ではどれだけ働いても、「誰でもできる仕事」だった。
でも今は違う。
僕にしかできない。僕こそが最強。
八咫烏の連中も、一族の大人たちも、僕のご機嫌を伺いながら仕事を持ってくる。
「まあ、いいか」
僕は迎えの黒塗りの高級車に乗り込みながら、ニヤリと笑った。
窓に映る6歳児の顔は、とても子供とは思えないほど、不遜で傲慢な笑みを浮かべていた。
モブは卒業だ。
このふざけたファンタジー世界を、僕という主人公のためのステージに変えてやる。
まずは手始めに――この世界の「最強」の座でも頂くとしようか。




