表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

竜帝の番 ―呪われた番を断ち切るため、帝は恋を選ぶ―

作者: かも ねぎ
掲載日:2025/11/01

挿絵(By みてみん)


 雪の名残が庭の隅に白く積もる新春、蒼龍寺(そうりゅうじ)の大伽藍はひときわ清冽な気を放っていた。

 青瓦と朱塗りの回廊には白い息を吐く群臣が並び、香炉から立ちのぼる煙は空へまっすぐに昇る。

 年頭の大祭――天祈祭(てんきさい)。竜帝みずから参拝するこの日こそ、民にとって一年の安寧を約束する象徴である。


 竜神族の血を引く若き帝・黎翔(れいしょう)は、黒地に赤龍を織り込んだ竜袍をまとい、蒼龍寺の奥殿に歩を進める。

 まだ少年と青年のあわいにあるその容貌は、あまりに整いすぎて神威を帯びた美しさを漂わせていた。

 腰まで流れる黒髪は玉で高く結われ、琥珀の瞳は光を宿しても揺らがない。

 参列する群臣でさえ、彼の美貌に目を奪われ、同時に冷ややかな威圧に背筋を凍らせる。


 掌を合わせ、天へ祈りを捧げると、堂内は静寂に包まれた。

 竜帝が祈れば、天は必ず応える――民はそう信じている。


 参拝を終え、広間へ姿を現すと、寺門の外には幾千の市民が身を寄せ合っていた。

 誰もが拱手の礼で迎え、ただ帝の言葉を待つ。

 息を呑む沈黙のなか、黎翔はゆるやかに視線を巡らせた。


 そのときだった。


 人波のただ中、ひとりの女がこちらを見上げていた。

 平民らしい質素な麻衣、しかしその瞳は真っ直ぐに黎翔を射抜く。

 刹那、胸を打つような衝撃が走り、息が詰まった。


 ――琥珀の瞳が、紅へと染まる。

 帝自身の意思とは無関係に。


 次いで、誰も手を触れていないはずの蒼龍寺の大鐘が轟き、空気を震わせる。

 地を這うような低音に群衆がどよめいた。

 さらに青空が翳り、陽は欠け、想定外の日蝕が広がっていく。


 三重の兆し。


 「番だ……!」

 「帝に番が現れたぞ!」


 市民が一斉に叫び、歓喜と畏怖の入り混じった声が広間を満たした。

 大臣らは玉座の下へ膝行(しっこう)し、額を床に伏せる稽首(けいしゅ)の礼を取った。

 婦人たちは両手を重ね、深く身を折る万福(ばんぷく)の姿勢で帝を迎える。


 その列の中には、白銀の髪と氷色の瞳を持つ娘の姿があった。

 雪豹族の名門、雪公家(せつこうけ)の令嬢にして、黎翔の幼き頃からの婚約者――雪玲(せつれい)

 氷像のように冷ややかに美しく、彼女もまた静かに万福して頭を垂れる。


 ただ一人、黎翔だけは眉を顰め、拳を固く握りしめていた。


◇◇◇


 蒼龍寺から戻った玉座の間は、まだ人々のざわめきを引きずっていた。

 漆黒の玉座に座す黎翔は、片足を組み、肘掛けに肘を置いて顎を支えている。

 長い黒髪は光を弾き、琥珀の瞳は獲物を狙う獣のように鋭い。

 ただ玉座にあるだけで圧倒的な威を放つ姿に、誰も正面から視線を合わせられない。


「素晴らしい瑞兆にございます!」

「ただちに婚礼の儀を!」

「帝国は更なる繁栄を迎えましょう!」


 先帝や大臣たちは口々に叫び、歓喜に沸いていた。

 だが黎翔は冷たい瞳で彼らを見下ろし、ひとつの相槌すら打たない。


 やがて白銀の髪を束ねた男が進み出る。雪豹族の名門、雪公家の当主であり雪玲の父――雪公である。

 彼は膝をついて進む礼法、膝行で玉座の前に進み、深く頭を下げ、重々しく言った。


「恐れながら……雪公家は、婚約を辞退いたします」


 広間の空気が一瞬にして凍りつく。


「雪玲!」

 黎翔の声が響いた。


 雪公の後ろに控えていた雪玲は、膝をつき、白い袖を揃えて万福の姿勢を取っていた。

 白銀の髪が肩から流れ落ち、伏せた氷色の瞳は動かない。

 雪豹族の娘――氷で彫られた姫君のように、息づいているのに冷たく、ただ美しかった。


「はい」

 彼女は顔を上げぬまま、静かに答える。


「それがそなたの意思か!」


「竜帝陛下の瑞兆にございます。当然のことでございます」


 氷のような声。

 黎翔は拳で玉座の肘置きを打ちつけた。

 その瞬間、外の空が翳り、雷鳴が轟いた。

 大臣たちは青ざめ、慌てて額を床に伏せる稽首を取った。


「俺は雪玲と二人で話したい。皆、下がれ」


 ざわめきが広がったが、黎翔は声を張り上げた。

「竜帝の言葉が聞けぬと申すか!」


 一喝に群臣は慌てて退き、広間に残るのは二人だけとなる。


 雪玲はまだ膝をついたまま、顔を上げない。

 黎翔は玉座を降り、彼女の前に膝をついた。


「なぜ、俺から離れるなどと愚かなことを言うのだ」


「陛下のためを思えばこそ」


「これまで共に研鑽を積んできた日々を否定するつもりか」


「良き日々でした。しかし、番を娶られれば、さらなる力を得られる。……力をお求めください」


 黎翔は両手で雪玲の頬を挟み、顔を上げさせた。

 氷色の瞳は曇りなく、迷いも揺らぎもなかった。


「俺は、お前以外の女に価値など見出せない。俺の妻はお前一人だ」


「しかし……」


 その言葉を遮るように、黎翔はそっと口づけを落とした。

「俺は天命など、ふざけたものは認めない」


 雪玲は彼の手に触れ、静かに外した。

 再び深く頭を下げる。

 氷の姫君は、最後まで顔を上げることはなかった。


◇◇◇


 竜帝の番とされた平民の女――杏花(きょうか)

 彼女は王宮の離れに留め置かれていた。


 黎翔は気が進まないながらも、その部屋へ足を運ぶ。

 従者たちは敷居をまたがず、扉の外に控えたまま。

 内に入ったのは、帝と女と――二人きり。


 杏花は椅子に腰掛け、俯いて震えていた。

 質素な麻の衣が頼りなく、痩せた肩先はかすかに強張っている。


「恐れながら……私には、幼い頃から将来を約束した人が……」


「お互い哀れだな。俺にも婚約者がいる」


 低い声に、杏花は小さく顔を上げた。

 茶色の瞳が黎翔と交わった、その瞬間――胸の奥で強烈に鼓動が打ち鳴らされた。


 黎翔の瞳は赤に染まる。

 杏花の瞳もまた、淡く紅を帯びる。


 まるで何かに操られるように、杏花は立ち上がり、黎翔へ駆け寄った。

 その胸に手を置き、吐息混じりに呟く。


「……愛しい方」


 理性をえぐるような響き。

 黎翔の体から力が抜け、その場に腰を落とす。

 杏花はその膝に身を沈め、肩を押し、帝を床へ押し倒した。

 黒い長髪が絹のように散り、黎翔は冷たい石床に縫い止められる。


 口づけを迫られ、顔を背ける。だが唇は首筋に触れ、熱が走った。

 頭の奥が白く霞み、心は「やめろ」と叫ぶのに、体は甘美な酩酊感に絡め取られる。

 快楽と嫌悪――正反対の感覚が一度に押し寄せ、理性を引き裂いた。


 ――これが、番の鎖。


 黎翔は目を固く閉じ、渾身の力で杏花の肩を押しやった。

 ほとんど投げるようにして、彼女を床へ引き離す。


 ふたりは荒い息を吐き、呆然としたまましばし動けなかった。

 やがて黎翔は彼女に背を向け、足音荒く、逃げるように部屋を出ていった。


 残された杏花は床に崩れ、唇を強く拭いながら泣いた。


「……なにこれ……こんなの、私じゃない……」



◇◇◇


 ガラガラと重たい音を立て、黎翔は占星台の扉を押し開けた。

 従者たちは慌てて後ろに控えたが、黎翔は振り返りもせず、ひとりで戸を閉ざす。


 部屋の中央には巨大な渾天儀が置かれ、星々を写した天球儀や巻物が散らばっている。

 窓から射す光を受けて、金属の輪がゆっくり回り、壁には淡い影が揺れていた。


 その中で、司衡(しこう)が一冊の古文書をめくっていた。

 ひょろ長い体を椅子に預け、狐めいた目を細めて笑う。青みを帯びた長い髪は頭頂で団子に結われ、揺れるたびに皮肉な色を帯びる。


「おやおや、陛下。ご結婚が決まられたそうで。おめでとうございます」


 皮肉めいた口調に、黎翔は乱暴に近くの椅子へ腰を下ろす。

 まだ青年になりきらぬ顔立ち、しかし琥珀の瞳はすでに赤の残滓を宿し、鋭く司衡を射抜いていた。


「お前までふざけたことを言うな。お前は番には懐疑的だったではないか」


「いやぁ、でもこうして現れましたしね」

 司衡は本を閉じ、肘掛けに凭れて肩を竦める。

「もうお会いになったでしょう? どうでした?」


 黎翔は喉を詰まらせ、無言で首筋を強く擦る。

 そこに残るのは、触れられた時の熱と嫌悪の記憶だった。


「あんなもの……呪いだ」

 吐き捨てるように言う。


「呪い、ですか。まぁ、番と契りを交わすと陛下の力が覚醒すると言われていますし。皆、それを望むでしょう」


「ちょっと雨を降らせたり、雷を呼ぶくらいだろう。今でもできる。必要はない」

 黎翔は低く言い切った。

「……番を解消する方法はないのか」


 司衡の目がわずかに細められる。

「ありますよ。古い記録に残る儀式が。『縁解えんげ』と呼ばれるものです」


「縁解……」


「ただし」

 司衡は指先で机をとん、と叩いた。

「陛下は神力が強すぎる。負荷がすべて陛下にのしかかるでしょう。最悪、死にます」


「……相手の女はどうなる」


「平民で力も弱いようですし、せいぜい一日寝込む程度でしょうな」


 黎翔の瞳が鋭さを増した。

「そうか。それならその儀を進めろ」


「……正気で?」

 司衡は肩を竦め、呆れたように笑う。

「死ぬかもしれないんですよ」


「雪玲を呼んでくれ。彼女に会いたい」


「あぁ、はいはい。全く、わがままなんだから」


「何か言ったか」


「別に?」


 司衡は軽く手を振ってごまかす。

 窓の外では薄曇りの空を雷がかすめ、低く轟いた。


◇◇◇


 司衡が呼びに出てからそう時間も経たぬうちに、占星台の扉が音を立てて開かれた。

 雪玲が現れる。いつもは一歩一歩が静謐で、空気を揺らすことすらない彼女が、このときばかりは衣の裾を乱し、わずかに息を切らしていた。


「急いで来るようにと伺いましたが……どうされたのです」

 胸元で細く呼吸を整え、雪玲はそう口にした。


 黎翔は立ち上がり、彼女に歩み寄る。その瞳は真っ直ぐで、揺らがない。

「やはり、お前は美しいな」


 唐突な言葉に、雪玲の瞳がかすかに揺れる。

 黎翔はためらいもなく腕を伸ばし、氷の姫君を抱き寄せた。

 白銀の髪が黒い衣に触れ、氷色の瞳が僅かに揺らめく。

 烈火と氷刃が交わるように、ふたりの姿は映えた。


「……陛下」

 雪玲の声は震えなかった。ただ、胸元に置かれた手にだけ力がこもる。


「俺は番を解消する儀を行う」


 雪玲の目が見開かれる。次の瞬間、彼女は黎翔の胸を両手で強く押し返した。

「何をおっしゃるのです!」


「俺は死ぬかもしれん」

 それでも黎翔は揺るがぬ声音で言い放つ。

「だが俺は、お前以外を妻に迎える気はない。お前を妻にできぬなら、竜帝である価値はない。乗り越えられぬなら、それまでの男ということだ」


「だから――何をおっしゃるのです!!」

 雪玲は突き飛ばすように彼を押した。だが黎翔はその手を逃さず、逆に握りしめる。

 その大きな手はわずかに震えていた。


「待っていてくれるな?」

 黎翔の声は静かで、しかし鋼のように硬かった。


 雪玲は息を呑み、しばし言葉を失う。

 氷色の瞳が彼を映し、わずかに陰りを帯びた。


「……黎翔様」


 その声はかすれ、ほんのわずかに柔らかさを含んでいた。


 離れた椅子に座る司衡は、顎に手を当てて二人を眺めている。

「……よそでやってくれませんかね?」


 雪玲が顔を背け、黎翔が舌打ちする。

 占星台には、渾天儀の回転音と、三人の呼吸だけが残った。



◇◇◇


 杏花は皇城の離れに閉じ込められていた。

 高い格子窓からは、昼でも細い光しか差し込まない。外へ出ることは許されず、部屋の外には無言の女官が一人、常に控えている。


 手元には粗末な木机と、温い茶が一杯。けれど、飲み干す気力すら湧かない。

 彼女の心はここにはなく、遠い故郷に置いてきた。


「……どうして」


 声は小さく震える。

 杏花には愛する男がいた。幼い頃から共に育ち、将来を誓い合った相手。

 名を呼ぼうとすれば唇が動くのに、喉からは声が出なかった。胸の奥が痛む。


 その代わりに浮かぶのは、あの帝の姿。

 黒髪の、赤に染まる瞳。

 出会ったときの衝撃が、まだ体に残っている。


「違う……違うのに……!」


 掌で顔を覆う。頬は熱い。

 拒絶したいのに、思い出すだけで体が勝手に竜帝を求める。

 心は愛する人を叫んでいるのに、肉体は異なる誰かに縛られている。


 その矛盾が、彼女の心を少しずつ削っていく。


「これ以上……会いたくない……」


 囁く声は、誰にも届かない。

 女官は一瞥すらくれず、ただ扉の外で控えている。

 部屋の空気は重く、冷たい。


 杏花は身を丸め、唇を噛んだ。

 涙が頬を伝って落ちても、誰も慰めはしない。


 ここから出られない限り、あの瞳にまた囚われる。

 それが恐ろしくて、たまらなかった。



◇◇◇


 夜はまだ浅い。皇城の廊下には油灯の淡い揺らめきが並び、石の床に影を落としている。黎翔の私室には蒼い月光が差し込み、帳の向こうで彼は書物に目を落としていた。まだ少年の輪郭を残す顔。思考は忙しく、身体は眠りを拒んでいた。


 戸が乱暴に開き、冷気が吹き込む。黎翔が顔を上げると、先帝が無造作に入ってきた。白髪を交えたその姿は、退いてなお威を誇り、従う武官の影を引き連れている。唇には皮肉な笑み。


「何やら悪巧みでもしているようだな」


「さあ、何のことか分かりかねますが」

 黎翔は淡々と答える。


 先帝は鼻で笑った。

「そんなに番が気に入らぬか。平民、しかも人族の血など、本来なら竜帝に交わる資格はない。だが――番は我が時代には叶わなかった悲願だ。必ず契りを交わせ」


「なぜ竜帝である俺が、貴方の思いどおりにならねばならぬのだ」


 先帝の顔が険しくなる。憎悪に歪んだ笑みが浮かぶ。

「契りさえ交わせばよい。気に入らぬなら、その後で殺してしまえ。どうせ人族だろう」


 その言葉に空気が凍りついた。

 黎翔の胸の奥で、何かが砕ける。怒りと軽蔑が燃え上がり、琥珀の瞳が紅に閃いた。


「とんだクズだな――」


 だが声は途中で途切れた。

 先帝の合図とともに、武官たちが一斉に襲いかかる。黎翔は素早く身をかわし、刃を受け止める。長い黒髪が宙を切り、床に散った書物が舞う。竜帝としての膂力は圧倒的で、数人を一瞬で弾き飛ばす。


 しかし――。

 先帝は袖の中から小柄な短剣を抜き放った。刃先には黒い光が宿る。毒。

 目にも止まらぬ一閃が黎翔の胸を穿った。


 鋭い痛みが走り、息が詰まる。

 次の瞬間、先帝は満足げにその短剣を雑に引き抜いた。

 ずるり、と肉を裂く音。温かな血が飛沫となり、黎翔の白い頬を赤く染めた。


 毒が血に混じり、全身へと広がっていく。

 手足が鉛のように重くなり、指先が震えた。胸の内側に冷たい鎖が絡みつき、力を締め上げていく。


 先帝は冷酷に笑った。

「死にはせぬだろう。竜の血は強い。だが足を鈍らせるには十分だ。監禁しておけ。丁重にな」


 武官たちが縄で黎翔の四肢を縛り上げる。帝はなお抗うが、毒に力を奪われ、次第に動きは鈍くなる。


 最後に、先帝は突き放すように言った。

「まったく、愚かな息子だ」



◇◇◇


 毒に痺れた体を武官たちに抱えられ、黎翔は暗い部屋の床に無造作に投げ込まれた。

「……くっ」

 呻きながら無理やり上体を起こすと、灯りの乏しい室内に女の影が立っていた。


「……嘘でしょ」


 その声を聞いた瞬間、黎翔の瞳が赤く染まる。ここがどこかを悟り、血の気が引いた。

「嵌められた……」


 燭台を掲げた杏花の瞳も、ゆっくりと紅に染まっていく。

「気を確かに持て! 国に、好きな男がいるのだろう!」

 黎翔の叫びに、杏花は燭台を机の上に置き、ふらふらと歩み寄った。


「いるわ……いたの」


 その声を聞くだけで心が囚われそうになる。黎翔は目を閉じ、必死に抗おうとするが、体は痺れて言うことをきかない。


 次の瞬間、杏花は黎翔の腹の上に跨り、涙に濡れた顔で笑った。

「……いないわ、そんな人」


 至近距離で真紅の瞳を見てしまい、体は完全に動かなくなった。


「血の匂いがする……」


 頬についた血を杏花が舌で舐め取る。涙を流しながら、その舌は乾いた血を探るように衣の胸元へと這った。

 日頃の黎翔なら、女一人など容易に払い除けられたはずだ。だが今は毒が全身を蝕み、頭の奥まで痺れが回り、考えは散り散りになる。


 視線が交わる。杏花は泣いていた。

 泣きながら、嗚咽を洩らしながら、それでも抗えず、黎翔の首筋に指を這わせ、そのまま食らいつくように噛みついた。


「うっ……!」

 鋭い痛みと、抗い難い快楽が一度に押し寄せ、視界が白く弾ける。

 血が溢れ、杏花は涙と共にその温もりを啜った。


「やめろ! やめてくれ! 思い出せ! 将来を誓った男のことを!」

 必死の叫びは空気を震わせるが、杏花の耳には届かない。

 虚ろな瞳は血に縋りつき、帯へと伸びる。黎翔の理性は崩れ落ちかけていた。


 ――その刹那、扉が破られた。


「はいはい、そこまでそこまで。あーあ、全く」


 軽い声とともに司衡が踏み込む。狐めいた目は細められ、声色は軽いが、動きは鋭かった。

 彼女の額に札を叩きつけ、薬瓶を無理やり口に流し込む。杏花は短く痙攣し、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。


 司衡が視線を移すと、黎翔は血に濡れ、衣は乱れ、首元には赤黒い噛み跡が浮かんでいた。

「うわぁ……痛そうだねぇ」


 その軽口に、黎翔の瞳から赤が引いていく。

「……助かった。礼を言う」

 そう口にしながら、頬を伝う涙には気づきもしない。


 司衡は静かに息を吐いた。

「番とは、こうも醜いものか。……陛下、縁解の儀を進めましょう。私も覚悟を決めます。命以上に大切なものが壊れる前に」


 黎翔は掠れた声で呟いた。

「……雪玲に……会いたい」


 司衡は苦笑を浮かべ、散らかった空気を払うように手を振った。

「……夜が明けたらね」


◇◇◇


 夜半。蒼龍寺の地下宝殿。

 普段は封ぜられている石の回廊に、松明の火が点々と揺れていた。湿った空気に古い血の臭いが混じり、石壁に刻まれた龍紋は煤に黒ずみ、影の中でうごめいているように見える。


 広間の中心には、二つの魔術陣が刻まれていた。血のように赤い線は、すでに司衡が龍血を媒に描いたものだ。

 その円のひとつに、椅子に座らされた杏花がいた。目隠しをされ、手足を緋色の紐で縛られ、小さく震える肩が松明の明かりに照らされる。


 広間の空気は張り詰め、吐息すら重い。

 雪玲は一歩下がり、背筋を伸ばして立っていた。氷色の瞳は凪いでいる。だがその白い指先は、わずかに強く握り込まれていた。


 やがて、黎翔が入る。黒衣の裾を引き、足取りは確かだが、その影は揺らいでいた。

 彼が雪玲を見ると、その瞳がわずかに揺れる。しかし、次の瞬間には雪玲は静かに万福の姿勢を取り、彼女の瞳を覗くことはできなかった。


 黎翔は無言で空いている方の陣に進み出ると、立ち止まった。

「……三つ、言っておきたいことがある」


 その声に、雪玲も司衡も口を閉ざす。


「一つ。この儀が成功しようがしまいが、番の女の命は狙われるだろう。彼女を逃してやれ。……彼女もまた、天命に翻弄された一人だからな」

 雪玲は静かに答える。

「我が雪公家が命を賭して守ると誓います」


「二つ。儀が成ったなら、俺は雪玲と即刻、婚儀を交わす」

 その言葉に、司衡は口元を吊り上げ、にやりと笑う。

 雪玲は眉をほんのわずかに動かしただけで、すぐに氷の仮面を戻した。


「三つ。成功の暁には、俺は先帝を殺す。俺はこの国ただ一人の竜帝だ。俺を脅かすものを、生かしてはおけぬ」


 杏花の身体が縛めの中で小さく震えた。だが、雪玲も司衡も声を揃えてただ一言。

「御意」


 黎翔は深く息を吐き、陣の中央に座した。瞳を伏せると、空気がぴたりと凍るように静まった。


 司衡は二つの陣の間に立ち、両手に竜珠と鐘芯を掲げた。符がひとりでに宙を舞い、低く重い音が鳴り響く。

 ――ゴォォン……

 鐘の響きが石壁を震わせ、細く開いた黎翔の瞳が、紅に閃いた。


 ――儀式が始まる。


 杏花と黎翔の胸元から、紅の糸が現れる。光を帯びたそれは絡み合い、やがて血管のように脈動し、鎖のごとき束となって二人を繋ぐ。

 鎖は呻き声を上げるように軋み、竜帝の体へと巻きついていく。


「くっ……!」

 黎翔の全身が燃え立つように熱を帯び、腑が裂け散るような痛みが奔る。腕で自らの体を抱きしめ、必死に意識を保とうとする。

 紅の鎖は容赦なく締め上げ、彼の体を焼き焦がす。


 雪玲が思わず駆け寄ろうとするが、司衡が片手を上げて制した。

「まだだ」


 詠唱の声が低く響く。

「――天を量り、地を鎖す衡を解け」


 その瞬間、鎖がさらに赤く脈動し、黎翔の体は床に叩きつけられた。

 口から鮮血を吐き、爪が石に食い込む。


「……破っ!」


 司衡が鋭く叫んだ。

 紅の鎖が破裂するように弾け飛び、光の粒となって散る。杏花の体も震え、椅子ごと倒れ込んだ。


 地下宝殿には、鐘の余韻と、荒い呼吸だけが残った。


◇◇◇


 儀の後、杏花は雪家の者の手によって、地方の寺に恋人と共に匿われたという。

 天命に翻弄された少女の運命は、そこでひとまず途切れる。


 一方で、竜帝・黎翔は――。

 高熱にうなされ、意識は深い淵の底に沈んでいた。


 時折、苦しげな呻き声をあげる彼の額に、雪玲は白い指をそっと添える。

「……黎翔様」

 血を知らぬ雪肌の頬を、一粒の涙が伝い落ちていった。


「本当に……昔から無理をなさるのだから」


 濡らした布を丁寧に絞り、彼の額へ静かに置く。熱気がすぐに布を乾かし、雪玲はまた新しい水で濡らしては彼の肌を拭った。

 乱れた黒髪を指先で梳き、汗を払う。その髪は夜の闇のように濃く、触れるたびに彼女の胸を締め付ける。


「黎翔様……どうか、早く目を開けてくださいませ……」


 涙は次から次へとこぼれ落ち、彼の大きな手を握る。熱にうなされる身体に反して、その手は氷のように冷たかった。


「……お慕いしております。黎翔様。どうか雪玲を、一人にしないでください……」


 その静かな泣き声は、夜の帷に呑まれていった。


◇◇◇


 幾日かが過ぎた。

 薄く青白い光が障子の隙間から差し込み、遠くで鳥の囀りが聞こえる。


 黎翔は、重い瞼をゆっくりと開けた。

 その瞬間、部屋に射す光が濃くなったように見えた。琥珀の瞳にかすかな赤が灯り、深淵から戻ってきた証のように輝き始める。


 傍らでうつらうつらしていた雪玲が、それに気づき息を呑む。

「黎翔様! お目覚めになられたのですね!」


 まだ虚ろな眼差しでありながらも、黎翔は彼女を映すと、日頃の苛烈さとは違う柔らかな微笑みを浮かべた。

 それは彼が人前で決して見せぬ笑み――雪玲にだけ、幼き頃から向けられてきたものだった。


 雪玲が彼の頬に手を添え、それを黎翔の指がしっかりと握る。


「俺は……どれほど眠っていた」

「三日ほど……」

「そんなにか」


 黎翔は上体を起こし、腕を伸ばして雪玲の腰を掴む。その動作には、病の名残をものともせぬ力があった。

「なっ……! 何をなさるのです!」

「今すぐ契りを交わそう」


 朗らかに笑いながら、耳元で低く囁く。

 途端に雪玲の頬は真っ赤に染まり、必死に暴れた。

「本当に無茶をなさる! つい先程まで寝込まれていたのですよ!?」

「お前は俺を慕っていると言っていたではないか」

「……聞こえてらしたのですか!?」


 黎翔は頷き、声を落として告げる。

「俺が思っていた以上に、俺はお前に愛されていた……。それが嬉しくて堪らない」


 雪玲はじりじりと後ずさりし、やがて膝をついて顔を手で覆った。

「本当に……貴方という方は!!」


 その姿に、黎翔は声を上げて笑った。

 それは稲妻のように鋭い威圧でも、雷鳴のような怒りでもなく、ただ若さを持つ男の無邪気な笑いだった。

 雪玲の胸は痛むほどに熱くなり――高熱にうなされていた数日の苦しみは、確かに遠い夢のように消えていった。


◇◇◇


 玉座の間へ続く石畳を、竜帝・黎翔は真っ直ぐに歩いていた。

 冷たい石床に靴音が響き渡る。黒衣の裾が翻り、長い黒髪が揺れるたび、後に従う者たちは無言でその背に従った。


 その先に立ち塞がったのは、先帝と数名の大臣たち。

 道を塞ぐように居並ぶ姿は、最後の抵抗のつもりか。


 先帝は腕を組み、憎悪を隠そうともしない眼差しを息子に向けた。

「お前……なんということをした」


 黎翔は足を止め、冷ややかな視線を投げかけた。

「おやおや。わざわざお出迎えいただけるとは、光栄ですね」


「ふざけるな! 私はお前に問うているのだ、何をしたのかと!」

 声は怒気に震えていた。


「下劣で、浅ましい……」黎翔は低く吐き捨てる。

「竜帝である俺を好きにできるとでも? 恥を知れ、愚か者」


 その瞬間、黎翔の瞳が赤く光り、頭上の天が曇天に覆われた。

 低い雷鳴が轟き、大地が震える。

 腰巾着のような大臣たちは恐怖に顔を歪め、背を向けて逃げ惑った。


「私はお前の父親だ!」

 先帝の叫びはもはや威厳ではなく、哀れな執念にすぎなかった。


「俺は、貴方よりはるかに強い神力を持つがゆえ、この若さで竜帝を名乗っている。……意味は理解できるな?」


「き、貴様!」


「それでは――さようなら、“お父上”」


 天が裂けるような雷鳴と共に、稲妻が地を穿った。

 衝撃と閃光に包まれた瞬間、そこに立っていたはずの先帝は、もはや黒焦げの塊と化していた。

 焦げた匂いが広間を覆い、石床にはまだ電流が奔り、黎翔の黒髪をふわりと浮かせる。


 竜帝は振り返りもしなかった。

 何事もなかったかのように歩を進め、後についていた雪玲や司衡も一瞥することなくその場を去った。


◇◇◇


 玉座の間。

 黎翔は玉座に身を預け、尊大に足を組んだ。誰もその威圧の前に逆らうことはできない。


「婚儀を執り行いたい。……いつできる」


 その声に、雪公が一歩進み出て答える。

「一ヶ月後に……」


 震える声が別の大臣から上がった。

「しかし陛下! 一年は喪に服さねばなりません!」


 黎翔の冷ややかな眼差しが、その声の主を射抜いた。

「喪? 何故だ」


「せ、先帝陛下が……」


「俺に父などいなかった。……先ほど炭のようなものは見かけたが、誇り高き竜の血を継ぐ者が、あのように無様に死ぬはずがない」

 声は静かだったが、雷鳴に等しい威圧が広間を満たす。


「よって、喪に服す必要はない。婚儀は二週間後だ。……やれるな?」


 雪公は無言で深く頭を垂れた。

 黎翔はわずかに口角を上げた。


◇◇◇


 やがて婚儀は、かつてないほどの盛儀として執り行われた。


 白銀の髪を持つ雪玲は、氷のごとき清廉さを保ちながらも、黎翔の隣に立つその姿に、誰もが心を奪われた。

 赤き瞳を宿す竜帝と、白き妃。寄り添う姿は烈しくも美しく、民衆には新たな時代の象徴として映った。

 その人々の目に映らぬところで、黎翔がほんの一瞬だけ雪玲に微笑み、彼女の氷色の瞳がかすかに揺れた。


 後に、この竜帝は「最も苛烈な帝」と呼ばれることになる。

 だが不思議なことに、その治世は長く、そして意外なほど穏やかに続いた。


 赤き竜帝と白き竜帝妃。

 その寄り添う姿は、今もなお美しい伝説として語り継がれている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ