竜帝の番 ―呪われた番を断ち切るため、帝は恋を選ぶ―
雪の名残が庭の隅に白く積もる新春、蒼龍寺の大伽藍はひときわ清冽な気を放っていた。
青瓦と朱塗りの回廊には白い息を吐く群臣が並び、香炉から立ちのぼる煙は空へまっすぐに昇る。
年頭の大祭――天祈祭。竜帝みずから参拝するこの日こそ、民にとって一年の安寧を約束する象徴である。
竜神族の血を引く若き帝・黎翔は、黒地に赤龍を織り込んだ竜袍をまとい、蒼龍寺の奥殿に歩を進める。
まだ少年と青年のあわいにあるその容貌は、あまりに整いすぎて神威を帯びた美しさを漂わせていた。
腰まで流れる黒髪は玉で高く結われ、琥珀の瞳は光を宿しても揺らがない。
参列する群臣でさえ、彼の美貌に目を奪われ、同時に冷ややかな威圧に背筋を凍らせる。
掌を合わせ、天へ祈りを捧げると、堂内は静寂に包まれた。
竜帝が祈れば、天は必ず応える――民はそう信じている。
参拝を終え、広間へ姿を現すと、寺門の外には幾千の市民が身を寄せ合っていた。
誰もが拱手の礼で迎え、ただ帝の言葉を待つ。
息を呑む沈黙のなか、黎翔はゆるやかに視線を巡らせた。
そのときだった。
人波のただ中、ひとりの女がこちらを見上げていた。
平民らしい質素な麻衣、しかしその瞳は真っ直ぐに黎翔を射抜く。
刹那、胸を打つような衝撃が走り、息が詰まった。
――琥珀の瞳が、紅へと染まる。
帝自身の意思とは無関係に。
次いで、誰も手を触れていないはずの蒼龍寺の大鐘が轟き、空気を震わせる。
地を這うような低音に群衆がどよめいた。
さらに青空が翳り、陽は欠け、想定外の日蝕が広がっていく。
三重の兆し。
「番だ……!」
「帝に番が現れたぞ!」
市民が一斉に叫び、歓喜と畏怖の入り混じった声が広間を満たした。
大臣らは玉座の下へ膝行し、額を床に伏せる稽首の礼を取った。
婦人たちは両手を重ね、深く身を折る万福の姿勢で帝を迎える。
その列の中には、白銀の髪と氷色の瞳を持つ娘の姿があった。
雪豹族の名門、雪公家の令嬢にして、黎翔の幼き頃からの婚約者――雪玲。
氷像のように冷ややかに美しく、彼女もまた静かに万福して頭を垂れる。
ただ一人、黎翔だけは眉を顰め、拳を固く握りしめていた。
◇◇◇
蒼龍寺から戻った玉座の間は、まだ人々のざわめきを引きずっていた。
漆黒の玉座に座す黎翔は、片足を組み、肘掛けに肘を置いて顎を支えている。
長い黒髪は光を弾き、琥珀の瞳は獲物を狙う獣のように鋭い。
ただ玉座にあるだけで圧倒的な威を放つ姿に、誰も正面から視線を合わせられない。
「素晴らしい瑞兆にございます!」
「ただちに婚礼の儀を!」
「帝国は更なる繁栄を迎えましょう!」
先帝や大臣たちは口々に叫び、歓喜に沸いていた。
だが黎翔は冷たい瞳で彼らを見下ろし、ひとつの相槌すら打たない。
やがて白銀の髪を束ねた男が進み出る。雪豹族の名門、雪公家の当主であり雪玲の父――雪公である。
彼は膝をついて進む礼法、膝行で玉座の前に進み、深く頭を下げ、重々しく言った。
「恐れながら……雪公家は、婚約を辞退いたします」
広間の空気が一瞬にして凍りつく。
「雪玲!」
黎翔の声が響いた。
雪公の後ろに控えていた雪玲は、膝をつき、白い袖を揃えて万福の姿勢を取っていた。
白銀の髪が肩から流れ落ち、伏せた氷色の瞳は動かない。
雪豹族の娘――氷で彫られた姫君のように、息づいているのに冷たく、ただ美しかった。
「はい」
彼女は顔を上げぬまま、静かに答える。
「それがそなたの意思か!」
「竜帝陛下の瑞兆にございます。当然のことでございます」
氷のような声。
黎翔は拳で玉座の肘置きを打ちつけた。
その瞬間、外の空が翳り、雷鳴が轟いた。
大臣たちは青ざめ、慌てて額を床に伏せる稽首を取った。
「俺は雪玲と二人で話したい。皆、下がれ」
ざわめきが広がったが、黎翔は声を張り上げた。
「竜帝の言葉が聞けぬと申すか!」
一喝に群臣は慌てて退き、広間に残るのは二人だけとなる。
雪玲はまだ膝をついたまま、顔を上げない。
黎翔は玉座を降り、彼女の前に膝をついた。
「なぜ、俺から離れるなどと愚かなことを言うのだ」
「陛下のためを思えばこそ」
「これまで共に研鑽を積んできた日々を否定するつもりか」
「良き日々でした。しかし、番を娶られれば、さらなる力を得られる。……力をお求めください」
黎翔は両手で雪玲の頬を挟み、顔を上げさせた。
氷色の瞳は曇りなく、迷いも揺らぎもなかった。
「俺は、お前以外の女に価値など見出せない。俺の妻はお前一人だ」
「しかし……」
その言葉を遮るように、黎翔はそっと口づけを落とした。
「俺は天命など、ふざけたものは認めない」
雪玲は彼の手に触れ、静かに外した。
再び深く頭を下げる。
氷の姫君は、最後まで顔を上げることはなかった。
◇◇◇
竜帝の番とされた平民の女――杏花。
彼女は王宮の離れに留め置かれていた。
黎翔は気が進まないながらも、その部屋へ足を運ぶ。
従者たちは敷居をまたがず、扉の外に控えたまま。
内に入ったのは、帝と女と――二人きり。
杏花は椅子に腰掛け、俯いて震えていた。
質素な麻の衣が頼りなく、痩せた肩先はかすかに強張っている。
「恐れながら……私には、幼い頃から将来を約束した人が……」
「お互い哀れだな。俺にも婚約者がいる」
低い声に、杏花は小さく顔を上げた。
茶色の瞳が黎翔と交わった、その瞬間――胸の奥で強烈に鼓動が打ち鳴らされた。
黎翔の瞳は赤に染まる。
杏花の瞳もまた、淡く紅を帯びる。
まるで何かに操られるように、杏花は立ち上がり、黎翔へ駆け寄った。
その胸に手を置き、吐息混じりに呟く。
「……愛しい方」
理性をえぐるような響き。
黎翔の体から力が抜け、その場に腰を落とす。
杏花はその膝に身を沈め、肩を押し、帝を床へ押し倒した。
黒い長髪が絹のように散り、黎翔は冷たい石床に縫い止められる。
口づけを迫られ、顔を背ける。だが唇は首筋に触れ、熱が走った。
頭の奥が白く霞み、心は「やめろ」と叫ぶのに、体は甘美な酩酊感に絡め取られる。
快楽と嫌悪――正反対の感覚が一度に押し寄せ、理性を引き裂いた。
――これが、番の鎖。
黎翔は目を固く閉じ、渾身の力で杏花の肩を押しやった。
ほとんど投げるようにして、彼女を床へ引き離す。
ふたりは荒い息を吐き、呆然としたまましばし動けなかった。
やがて黎翔は彼女に背を向け、足音荒く、逃げるように部屋を出ていった。
残された杏花は床に崩れ、唇を強く拭いながら泣いた。
「……なにこれ……こんなの、私じゃない……」
◇◇◇
ガラガラと重たい音を立て、黎翔は占星台の扉を押し開けた。
従者たちは慌てて後ろに控えたが、黎翔は振り返りもせず、ひとりで戸を閉ざす。
部屋の中央には巨大な渾天儀が置かれ、星々を写した天球儀や巻物が散らばっている。
窓から射す光を受けて、金属の輪がゆっくり回り、壁には淡い影が揺れていた。
その中で、司衡が一冊の古文書をめくっていた。
ひょろ長い体を椅子に預け、狐めいた目を細めて笑う。青みを帯びた長い髪は頭頂で団子に結われ、揺れるたびに皮肉な色を帯びる。
「おやおや、陛下。ご結婚が決まられたそうで。おめでとうございます」
皮肉めいた口調に、黎翔は乱暴に近くの椅子へ腰を下ろす。
まだ青年になりきらぬ顔立ち、しかし琥珀の瞳はすでに赤の残滓を宿し、鋭く司衡を射抜いていた。
「お前までふざけたことを言うな。お前は番には懐疑的だったではないか」
「いやぁ、でもこうして現れましたしね」
司衡は本を閉じ、肘掛けに凭れて肩を竦める。
「もうお会いになったでしょう? どうでした?」
黎翔は喉を詰まらせ、無言で首筋を強く擦る。
そこに残るのは、触れられた時の熱と嫌悪の記憶だった。
「あんなもの……呪いだ」
吐き捨てるように言う。
「呪い、ですか。まぁ、番と契りを交わすと陛下の力が覚醒すると言われていますし。皆、それを望むでしょう」
「ちょっと雨を降らせたり、雷を呼ぶくらいだろう。今でもできる。必要はない」
黎翔は低く言い切った。
「……番を解消する方法はないのか」
司衡の目がわずかに細められる。
「ありますよ。古い記録に残る儀式が。『縁解』と呼ばれるものです」
「縁解……」
「ただし」
司衡は指先で机をとん、と叩いた。
「陛下は神力が強すぎる。負荷がすべて陛下にのしかかるでしょう。最悪、死にます」
「……相手の女はどうなる」
「平民で力も弱いようですし、せいぜい一日寝込む程度でしょうな」
黎翔の瞳が鋭さを増した。
「そうか。それならその儀を進めろ」
「……正気で?」
司衡は肩を竦め、呆れたように笑う。
「死ぬかもしれないんですよ」
「雪玲を呼んでくれ。彼女に会いたい」
「あぁ、はいはい。全く、わがままなんだから」
「何か言ったか」
「別に?」
司衡は軽く手を振ってごまかす。
窓の外では薄曇りの空を雷がかすめ、低く轟いた。
◇◇◇
司衡が呼びに出てからそう時間も経たぬうちに、占星台の扉が音を立てて開かれた。
雪玲が現れる。いつもは一歩一歩が静謐で、空気を揺らすことすらない彼女が、このときばかりは衣の裾を乱し、わずかに息を切らしていた。
「急いで来るようにと伺いましたが……どうされたのです」
胸元で細く呼吸を整え、雪玲はそう口にした。
黎翔は立ち上がり、彼女に歩み寄る。その瞳は真っ直ぐで、揺らがない。
「やはり、お前は美しいな」
唐突な言葉に、雪玲の瞳がかすかに揺れる。
黎翔はためらいもなく腕を伸ばし、氷の姫君を抱き寄せた。
白銀の髪が黒い衣に触れ、氷色の瞳が僅かに揺らめく。
烈火と氷刃が交わるように、ふたりの姿は映えた。
「……陛下」
雪玲の声は震えなかった。ただ、胸元に置かれた手にだけ力がこもる。
「俺は番を解消する儀を行う」
雪玲の目が見開かれる。次の瞬間、彼女は黎翔の胸を両手で強く押し返した。
「何をおっしゃるのです!」
「俺は死ぬかもしれん」
それでも黎翔は揺るがぬ声音で言い放つ。
「だが俺は、お前以外を妻に迎える気はない。お前を妻にできぬなら、竜帝である価値はない。乗り越えられぬなら、それまでの男ということだ」
「だから――何をおっしゃるのです!!」
雪玲は突き飛ばすように彼を押した。だが黎翔はその手を逃さず、逆に握りしめる。
その大きな手はわずかに震えていた。
「待っていてくれるな?」
黎翔の声は静かで、しかし鋼のように硬かった。
雪玲は息を呑み、しばし言葉を失う。
氷色の瞳が彼を映し、わずかに陰りを帯びた。
「……黎翔様」
その声はかすれ、ほんのわずかに柔らかさを含んでいた。
離れた椅子に座る司衡は、顎に手を当てて二人を眺めている。
「……よそでやってくれませんかね?」
雪玲が顔を背け、黎翔が舌打ちする。
占星台には、渾天儀の回転音と、三人の呼吸だけが残った。
◇◇◇
杏花は皇城の離れに閉じ込められていた。
高い格子窓からは、昼でも細い光しか差し込まない。外へ出ることは許されず、部屋の外には無言の女官が一人、常に控えている。
手元には粗末な木机と、温い茶が一杯。けれど、飲み干す気力すら湧かない。
彼女の心はここにはなく、遠い故郷に置いてきた。
「……どうして」
声は小さく震える。
杏花には愛する男がいた。幼い頃から共に育ち、将来を誓い合った相手。
名を呼ぼうとすれば唇が動くのに、喉からは声が出なかった。胸の奥が痛む。
その代わりに浮かぶのは、あの帝の姿。
黒髪の、赤に染まる瞳。
出会ったときの衝撃が、まだ体に残っている。
「違う……違うのに……!」
掌で顔を覆う。頬は熱い。
拒絶したいのに、思い出すだけで体が勝手に竜帝を求める。
心は愛する人を叫んでいるのに、肉体は異なる誰かに縛られている。
その矛盾が、彼女の心を少しずつ削っていく。
「これ以上……会いたくない……」
囁く声は、誰にも届かない。
女官は一瞥すらくれず、ただ扉の外で控えている。
部屋の空気は重く、冷たい。
杏花は身を丸め、唇を噛んだ。
涙が頬を伝って落ちても、誰も慰めはしない。
ここから出られない限り、あの瞳にまた囚われる。
それが恐ろしくて、たまらなかった。
◇◇◇
夜はまだ浅い。皇城の廊下には油灯の淡い揺らめきが並び、石の床に影を落としている。黎翔の私室には蒼い月光が差し込み、帳の向こうで彼は書物に目を落としていた。まだ少年の輪郭を残す顔。思考は忙しく、身体は眠りを拒んでいた。
戸が乱暴に開き、冷気が吹き込む。黎翔が顔を上げると、先帝が無造作に入ってきた。白髪を交えたその姿は、退いてなお威を誇り、従う武官の影を引き連れている。唇には皮肉な笑み。
「何やら悪巧みでもしているようだな」
「さあ、何のことか分かりかねますが」
黎翔は淡々と答える。
先帝は鼻で笑った。
「そんなに番が気に入らぬか。平民、しかも人族の血など、本来なら竜帝に交わる資格はない。だが――番は我が時代には叶わなかった悲願だ。必ず契りを交わせ」
「なぜ竜帝である俺が、貴方の思いどおりにならねばならぬのだ」
先帝の顔が険しくなる。憎悪に歪んだ笑みが浮かぶ。
「契りさえ交わせばよい。気に入らぬなら、その後で殺してしまえ。どうせ人族だろう」
その言葉に空気が凍りついた。
黎翔の胸の奥で、何かが砕ける。怒りと軽蔑が燃え上がり、琥珀の瞳が紅に閃いた。
「とんだクズだな――」
だが声は途中で途切れた。
先帝の合図とともに、武官たちが一斉に襲いかかる。黎翔は素早く身をかわし、刃を受け止める。長い黒髪が宙を切り、床に散った書物が舞う。竜帝としての膂力は圧倒的で、数人を一瞬で弾き飛ばす。
しかし――。
先帝は袖の中から小柄な短剣を抜き放った。刃先には黒い光が宿る。毒。
目にも止まらぬ一閃が黎翔の胸を穿った。
鋭い痛みが走り、息が詰まる。
次の瞬間、先帝は満足げにその短剣を雑に引き抜いた。
ずるり、と肉を裂く音。温かな血が飛沫となり、黎翔の白い頬を赤く染めた。
毒が血に混じり、全身へと広がっていく。
手足が鉛のように重くなり、指先が震えた。胸の内側に冷たい鎖が絡みつき、力を締め上げていく。
先帝は冷酷に笑った。
「死にはせぬだろう。竜の血は強い。だが足を鈍らせるには十分だ。監禁しておけ。丁重にな」
武官たちが縄で黎翔の四肢を縛り上げる。帝はなお抗うが、毒に力を奪われ、次第に動きは鈍くなる。
最後に、先帝は突き放すように言った。
「まったく、愚かな息子だ」
◇◇◇
毒に痺れた体を武官たちに抱えられ、黎翔は暗い部屋の床に無造作に投げ込まれた。
「……くっ」
呻きながら無理やり上体を起こすと、灯りの乏しい室内に女の影が立っていた。
「……嘘でしょ」
その声を聞いた瞬間、黎翔の瞳が赤く染まる。ここがどこかを悟り、血の気が引いた。
「嵌められた……」
燭台を掲げた杏花の瞳も、ゆっくりと紅に染まっていく。
「気を確かに持て! 国に、好きな男がいるのだろう!」
黎翔の叫びに、杏花は燭台を机の上に置き、ふらふらと歩み寄った。
「いるわ……いたの」
その声を聞くだけで心が囚われそうになる。黎翔は目を閉じ、必死に抗おうとするが、体は痺れて言うことをきかない。
次の瞬間、杏花は黎翔の腹の上に跨り、涙に濡れた顔で笑った。
「……いないわ、そんな人」
至近距離で真紅の瞳を見てしまい、体は完全に動かなくなった。
「血の匂いがする……」
頬についた血を杏花が舌で舐め取る。涙を流しながら、その舌は乾いた血を探るように衣の胸元へと這った。
日頃の黎翔なら、女一人など容易に払い除けられたはずだ。だが今は毒が全身を蝕み、頭の奥まで痺れが回り、考えは散り散りになる。
視線が交わる。杏花は泣いていた。
泣きながら、嗚咽を洩らしながら、それでも抗えず、黎翔の首筋に指を這わせ、そのまま食らいつくように噛みついた。
「うっ……!」
鋭い痛みと、抗い難い快楽が一度に押し寄せ、視界が白く弾ける。
血が溢れ、杏花は涙と共にその温もりを啜った。
「やめろ! やめてくれ! 思い出せ! 将来を誓った男のことを!」
必死の叫びは空気を震わせるが、杏花の耳には届かない。
虚ろな瞳は血に縋りつき、帯へと伸びる。黎翔の理性は崩れ落ちかけていた。
――その刹那、扉が破られた。
「はいはい、そこまでそこまで。あーあ、全く」
軽い声とともに司衡が踏み込む。狐めいた目は細められ、声色は軽いが、動きは鋭かった。
彼女の額に札を叩きつけ、薬瓶を無理やり口に流し込む。杏花は短く痙攣し、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
司衡が視線を移すと、黎翔は血に濡れ、衣は乱れ、首元には赤黒い噛み跡が浮かんでいた。
「うわぁ……痛そうだねぇ」
その軽口に、黎翔の瞳から赤が引いていく。
「……助かった。礼を言う」
そう口にしながら、頬を伝う涙には気づきもしない。
司衡は静かに息を吐いた。
「番とは、こうも醜いものか。……陛下、縁解の儀を進めましょう。私も覚悟を決めます。命以上に大切なものが壊れる前に」
黎翔は掠れた声で呟いた。
「……雪玲に……会いたい」
司衡は苦笑を浮かべ、散らかった空気を払うように手を振った。
「……夜が明けたらね」
◇◇◇
夜半。蒼龍寺の地下宝殿。
普段は封ぜられている石の回廊に、松明の火が点々と揺れていた。湿った空気に古い血の臭いが混じり、石壁に刻まれた龍紋は煤に黒ずみ、影の中でうごめいているように見える。
広間の中心には、二つの魔術陣が刻まれていた。血のように赤い線は、すでに司衡が龍血を媒に描いたものだ。
その円のひとつに、椅子に座らされた杏花がいた。目隠しをされ、手足を緋色の紐で縛られ、小さく震える肩が松明の明かりに照らされる。
広間の空気は張り詰め、吐息すら重い。
雪玲は一歩下がり、背筋を伸ばして立っていた。氷色の瞳は凪いでいる。だがその白い指先は、わずかに強く握り込まれていた。
やがて、黎翔が入る。黒衣の裾を引き、足取りは確かだが、その影は揺らいでいた。
彼が雪玲を見ると、その瞳がわずかに揺れる。しかし、次の瞬間には雪玲は静かに万福の姿勢を取り、彼女の瞳を覗くことはできなかった。
黎翔は無言で空いている方の陣に進み出ると、立ち止まった。
「……三つ、言っておきたいことがある」
その声に、雪玲も司衡も口を閉ざす。
「一つ。この儀が成功しようがしまいが、番の女の命は狙われるだろう。彼女を逃してやれ。……彼女もまた、天命に翻弄された一人だからな」
雪玲は静かに答える。
「我が雪公家が命を賭して守ると誓います」
「二つ。儀が成ったなら、俺は雪玲と即刻、婚儀を交わす」
その言葉に、司衡は口元を吊り上げ、にやりと笑う。
雪玲は眉をほんのわずかに動かしただけで、すぐに氷の仮面を戻した。
「三つ。成功の暁には、俺は先帝を殺す。俺はこの国ただ一人の竜帝だ。俺を脅かすものを、生かしてはおけぬ」
杏花の身体が縛めの中で小さく震えた。だが、雪玲も司衡も声を揃えてただ一言。
「御意」
黎翔は深く息を吐き、陣の中央に座した。瞳を伏せると、空気がぴたりと凍るように静まった。
司衡は二つの陣の間に立ち、両手に竜珠と鐘芯を掲げた。符がひとりでに宙を舞い、低く重い音が鳴り響く。
――ゴォォン……
鐘の響きが石壁を震わせ、細く開いた黎翔の瞳が、紅に閃いた。
――儀式が始まる。
杏花と黎翔の胸元から、紅の糸が現れる。光を帯びたそれは絡み合い、やがて血管のように脈動し、鎖のごとき束となって二人を繋ぐ。
鎖は呻き声を上げるように軋み、竜帝の体へと巻きついていく。
「くっ……!」
黎翔の全身が燃え立つように熱を帯び、腑が裂け散るような痛みが奔る。腕で自らの体を抱きしめ、必死に意識を保とうとする。
紅の鎖は容赦なく締め上げ、彼の体を焼き焦がす。
雪玲が思わず駆け寄ろうとするが、司衡が片手を上げて制した。
「まだだ」
詠唱の声が低く響く。
「――天を量り、地を鎖す衡を解け」
その瞬間、鎖がさらに赤く脈動し、黎翔の体は床に叩きつけられた。
口から鮮血を吐き、爪が石に食い込む。
「……破っ!」
司衡が鋭く叫んだ。
紅の鎖が破裂するように弾け飛び、光の粒となって散る。杏花の体も震え、椅子ごと倒れ込んだ。
地下宝殿には、鐘の余韻と、荒い呼吸だけが残った。
◇◇◇
儀の後、杏花は雪家の者の手によって、地方の寺に恋人と共に匿われたという。
天命に翻弄された少女の運命は、そこでひとまず途切れる。
一方で、竜帝・黎翔は――。
高熱にうなされ、意識は深い淵の底に沈んでいた。
時折、苦しげな呻き声をあげる彼の額に、雪玲は白い指をそっと添える。
「……黎翔様」
血を知らぬ雪肌の頬を、一粒の涙が伝い落ちていった。
「本当に……昔から無理をなさるのだから」
濡らした布を丁寧に絞り、彼の額へ静かに置く。熱気がすぐに布を乾かし、雪玲はまた新しい水で濡らしては彼の肌を拭った。
乱れた黒髪を指先で梳き、汗を払う。その髪は夜の闇のように濃く、触れるたびに彼女の胸を締め付ける。
「黎翔様……どうか、早く目を開けてくださいませ……」
涙は次から次へとこぼれ落ち、彼の大きな手を握る。熱にうなされる身体に反して、その手は氷のように冷たかった。
「……お慕いしております。黎翔様。どうか雪玲を、一人にしないでください……」
その静かな泣き声は、夜の帷に呑まれていった。
◇◇◇
幾日かが過ぎた。
薄く青白い光が障子の隙間から差し込み、遠くで鳥の囀りが聞こえる。
黎翔は、重い瞼をゆっくりと開けた。
その瞬間、部屋に射す光が濃くなったように見えた。琥珀の瞳にかすかな赤が灯り、深淵から戻ってきた証のように輝き始める。
傍らでうつらうつらしていた雪玲が、それに気づき息を呑む。
「黎翔様! お目覚めになられたのですね!」
まだ虚ろな眼差しでありながらも、黎翔は彼女を映すと、日頃の苛烈さとは違う柔らかな微笑みを浮かべた。
それは彼が人前で決して見せぬ笑み――雪玲にだけ、幼き頃から向けられてきたものだった。
雪玲が彼の頬に手を添え、それを黎翔の指がしっかりと握る。
「俺は……どれほど眠っていた」
「三日ほど……」
「そんなにか」
黎翔は上体を起こし、腕を伸ばして雪玲の腰を掴む。その動作には、病の名残をものともせぬ力があった。
「なっ……! 何をなさるのです!」
「今すぐ契りを交わそう」
朗らかに笑いながら、耳元で低く囁く。
途端に雪玲の頬は真っ赤に染まり、必死に暴れた。
「本当に無茶をなさる! つい先程まで寝込まれていたのですよ!?」
「お前は俺を慕っていると言っていたではないか」
「……聞こえてらしたのですか!?」
黎翔は頷き、声を落として告げる。
「俺が思っていた以上に、俺はお前に愛されていた……。それが嬉しくて堪らない」
雪玲はじりじりと後ずさりし、やがて膝をついて顔を手で覆った。
「本当に……貴方という方は!!」
その姿に、黎翔は声を上げて笑った。
それは稲妻のように鋭い威圧でも、雷鳴のような怒りでもなく、ただ若さを持つ男の無邪気な笑いだった。
雪玲の胸は痛むほどに熱くなり――高熱にうなされていた数日の苦しみは、確かに遠い夢のように消えていった。
◇◇◇
玉座の間へ続く石畳を、竜帝・黎翔は真っ直ぐに歩いていた。
冷たい石床に靴音が響き渡る。黒衣の裾が翻り、長い黒髪が揺れるたび、後に従う者たちは無言でその背に従った。
その先に立ち塞がったのは、先帝と数名の大臣たち。
道を塞ぐように居並ぶ姿は、最後の抵抗のつもりか。
先帝は腕を組み、憎悪を隠そうともしない眼差しを息子に向けた。
「お前……なんということをした」
黎翔は足を止め、冷ややかな視線を投げかけた。
「おやおや。わざわざお出迎えいただけるとは、光栄ですね」
「ふざけるな! 私はお前に問うているのだ、何をしたのかと!」
声は怒気に震えていた。
「下劣で、浅ましい……」黎翔は低く吐き捨てる。
「竜帝である俺を好きにできるとでも? 恥を知れ、愚か者」
その瞬間、黎翔の瞳が赤く光り、頭上の天が曇天に覆われた。
低い雷鳴が轟き、大地が震える。
腰巾着のような大臣たちは恐怖に顔を歪め、背を向けて逃げ惑った。
「私はお前の父親だ!」
先帝の叫びはもはや威厳ではなく、哀れな執念にすぎなかった。
「俺は、貴方よりはるかに強い神力を持つがゆえ、この若さで竜帝を名乗っている。……意味は理解できるな?」
「き、貴様!」
「それでは――さようなら、“お父上”」
天が裂けるような雷鳴と共に、稲妻が地を穿った。
衝撃と閃光に包まれた瞬間、そこに立っていたはずの先帝は、もはや黒焦げの塊と化していた。
焦げた匂いが広間を覆い、石床にはまだ電流が奔り、黎翔の黒髪をふわりと浮かせる。
竜帝は振り返りもしなかった。
何事もなかったかのように歩を進め、後についていた雪玲や司衡も一瞥することなくその場を去った。
◇◇◇
玉座の間。
黎翔は玉座に身を預け、尊大に足を組んだ。誰もその威圧の前に逆らうことはできない。
「婚儀を執り行いたい。……いつできる」
その声に、雪公が一歩進み出て答える。
「一ヶ月後に……」
震える声が別の大臣から上がった。
「しかし陛下! 一年は喪に服さねばなりません!」
黎翔の冷ややかな眼差しが、その声の主を射抜いた。
「喪? 何故だ」
「せ、先帝陛下が……」
「俺に父などいなかった。……先ほど炭のようなものは見かけたが、誇り高き竜の血を継ぐ者が、あのように無様に死ぬはずがない」
声は静かだったが、雷鳴に等しい威圧が広間を満たす。
「よって、喪に服す必要はない。婚儀は二週間後だ。……やれるな?」
雪公は無言で深く頭を垂れた。
黎翔はわずかに口角を上げた。
◇◇◇
やがて婚儀は、かつてないほどの盛儀として執り行われた。
白銀の髪を持つ雪玲は、氷のごとき清廉さを保ちながらも、黎翔の隣に立つその姿に、誰もが心を奪われた。
赤き瞳を宿す竜帝と、白き妃。寄り添う姿は烈しくも美しく、民衆には新たな時代の象徴として映った。
その人々の目に映らぬところで、黎翔がほんの一瞬だけ雪玲に微笑み、彼女の氷色の瞳がかすかに揺れた。
後に、この竜帝は「最も苛烈な帝」と呼ばれることになる。
だが不思議なことに、その治世は長く、そして意外なほど穏やかに続いた。
赤き竜帝と白き竜帝妃。
その寄り添う姿は、今もなお美しい伝説として語り継がれている。




