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[短編]優しい女子大生

「ふあっ!あああああああ!あぁ・・・」

私の前に並んでいた中年男性は、突如大声をあげると膝から崩れ落ちた。


大阪駅のトイレは行列ができていた。

普段、駅の片隅に位置するこの場所は、ほとんど利用する者もいない穴場だ。

しかし、なにかのイベントの影響か、今朝に限って混みあっていたのだ。

そのため、私を含めこのトイレをあてにしていた者たちは皆、多かれ少なかれ動揺し、それぞれが己の便意という生理的欲求と思いがけず格闘することとなっていた。

彼はその戦いに敗れてしまったのだ。


スーツのズボンをじっとりと濡らし、四つん這いの姿勢でかすかに呻いている。

整った身なり。

おそらくそれなりの立場にあるのだろう。

しかし、失禁という予想外の事態に陥った彼のプライドは崩壊してしまった。

いい歳をして情けないという思い、周囲に迷惑をかけてしまったという後悔もあるだろう。

その目元にはうっすらと涙すらにじんでいた。


こぼれだした悪臭に周囲の人間たちはざわめいた。

「マジかよ・・・」

「駅員さん、呼んでくるね・・・」

聞こえてくる囁き。

誰も彼を責める言葉は口にしなかった。

しかし、直接声をかけたり、手助けをしようとする者もまた皆無であった。


真後ろに並んでいた私は迷った。

今年、40歳になった自分には彼の姿は他人事とは思えなかった。

加齢によって、排泄を堪えられる時間が徐々に短くなってきているという自覚がある。

まさに明日は我が身。

四つん這いになって屈辱と悲しみ、情けなさに耐える姿は、自分自身だったかもしれないのだ。

様々な考えが頭を巡る。

手助けをするべきだろうか?

だが、何ができるのだろう。

彼はもう一線を越えてしまったのだ。

触れない優しさもあるのではないか?

それに一度、手を貸して最後まで付き添うなどという事になったら、どれほどの時間がかかるのだろう?

仕事に遅刻してしまうかもしれない。

きっと、駅員が駆けつけてなんとかしてくれるだろう。

下手に業務を妨げることになるかもしれない。

結局、私も少し離れて彼を見ていることしかできなかった。


そんな時、一人の美しい女子大生が通りかかったのだ。

しっかりと手入れされているのだろうサラサラのロングヘア。

清楚に、だが決して手を抜くことなく施された化粧。

流行に遅れることもなく、また過敏すぎるという事もない、落ち着いた服装。

我々、中年男性とは違う。

まさに世間というステージの主役であると思わせるような人種。


そんな彼女がふと何かに気づいたように足を止めた。

周囲に立ち込める悪臭だろうか、あるいは四つん這いで涙を流す男性の姿だろうか。

すぐに状況を把握したのだろう、彼女は一瞬眉をつりあげた。

その表情を見て私は、窮地に陥っている人間に手を差し伸べない周囲の者への憤慨を感じ取った。

しかし、彼女もまた彼を救うことはできないだろう。

それに年頃の女性にとって失禁している中年男性など最も関わりたくない存在に違いない。


そんな私の予想に反して、なんと彼女はゆっくりと男性の方へと歩み寄っていく。

その顔は柔らかな笑みを浮かべていた。

それは、助けを差し伸べようという確かな慈愛の意思が感じられる表情だった。


私は驚愕し、また己を恥じた。

なにが、触れない優しさか。

なにが、仕事に遅刻か。

なにが、業務の妨げか。

全て、やりたくないことをやらないための口実ではないか。

明日は我が身と感じながらも面倒ごとを避けるための、己への言い訳をせっせと拵えていただけだ!

なんの関係もない他者に、偏見も差別も損得勘定すらなく、ただ親切に接しようとする彼女の高尚さを目の当たりにして、自分がひどく卑小な存在であると感じた。

なぜ、自分は彼に大丈夫ですか?の一言すらかけることができなかったのか?

持っていたタオルを渡すことも、医務室の場所を調べて連れて行くこともできたはずだったのだ。

だが、何もできなかった自分。

いや、何もしなかった自分。

いつからか保身ばかりを考え、他人を慈しむことができなくなっていたという事実に、情けなさと怒り、そして悲しみを覚えた。

叫びだしたいような気持だった。

しかし、その自覚が生まれた今こそ何かできる事はあるのではないか。

そうだ、彼女が彼をたすけようとする時に自分もきっと歩み寄って手を貸そう。

それは彼だけではなく自分自身をも救う行いであるように思えた。


歩み寄る彼女に気づいた周囲の者がすっと道をあける。

皆、複雑な表情を浮かべていた。

それぞれの中で比較される、他者を救わんとする彼女と何もしなかった自分。

偽善と言われるかもしれない。

親切な自分に酔っているなどと心無い中傷に晒されるかもしれない。

しかし、助けが必要な人間をただただ救いたいという純粋な善意がそこにはあった。

私も皆も目に涙を浮かべていた。

ぼんやりと滲んだ視界。

他者に冷たくなったなどと言われる現代社会。

そして、大阪という大都会。

そんな状況において、思いもかけず人間だけが持つ最も人間らしい美徳に触れて、心が打ち震えていた。


ついに彼女が彼の近くへとたどり着いた。

悪臭も床の汚れすらも意に介さず、膝をつく。

もはやその姿は慈愛の女神とも言うべき神々しさすらあった。

彼女はそっと彼の耳元へと口を寄せた。

一体、どんな思いやりに満ち溢れた言葉が発せられるのか。

周囲の者も皆、固唾をのんで見守っていた。

誰一人、口を開くものはいなかった。

朝の大阪駅という場所で、その一角だけが静寂に包まれていた。

ただただ、高尚な精神を持つ彼女の一言を、決して聞き漏らしたくないという雰囲気があった。


「あの、大便が出ていますよ」

そう言って彼女はにっこりと微笑んだ。

とても重要なことを教えてあげたという満足感を漂わせている。

言われた男性も周囲の人間も、そしてもちろん私も一瞬、言葉の意味が理解できず当惑した。

なにか言外に含まれた意味があるのではないか?と思考に溺れる。

しかし、どう考えてもただの指摘以上の意味はないという結論に達し、呆然と見つめていると

「・・・あの・・・まあ・・・ええ」

という男性の答えを聞いて彼女は立ち上がり、颯爽と歩き去っていった。

駆けつけた駅員の、本日はイベントの影響による混雑で皆様にご迷惑をおかけしておりますという言葉を背中で聞きながら、用を足してその場所を去った。

電車に揺られながら、勝手に他人に期待しちゃったなぁとか、あれってサイコパスってやつなのかなぁとか考えているとなんだか笑えてきた。

笑っている私を見て、女子高生がひそひそと話していたが、色々ともうどうでもよかった。

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