1. いたずらっ子オディール
うららかな春の昼下がり、豪奢な屋敷の廊下では赤いじゅうたんが陽光に照らされ、辺りをほのかに赤く染めあげる。メイドの少女【ミラーナ】は、壁に掛けられた古い絵画や、精巧に彫られた家具を横目に、観葉植物のほこりを丁寧に払い落としていた。彼女の楽し気な鼻歌が静かな廊下に響き渡り、その穏やかな音色が屋敷に生命を吹き込んでいく。
「はい、綺麗になったわね」
ミラーナは幸せそうに微笑むと、観葉植物の植木鉢に手をかざし、目を閉じて土魔法の呪文をささやき始める。彼女の呪文が廊下に響き、観葉植物はぼぅっと黄金色の光に包まれていった……。
すると、光り輝くブロンドの髪を編み込んだ美少女が、いたずらっ子の笑みをたたえながら抜き足差し足、そっとミラーナに忍び寄る。
くふふふ……。
水色のワンピースに包まれたまだ発達途中のきゃしゃな体に、透き通るような白い肌、そして静寂な森の泉のような澄み通る碧眼。ここの公爵家の令嬢【オディール】だった。
オディールはミラーナのところまで行くと、そっと背中に手を当てて気を込める。
瞬く間に、ミラーナは神秘的な黄金色の輝きを放ち、廊下はまぶしいまでの輝きに覆われた。
キャァッ！
ミラーナは驚き、植木鉢はボン！ と、爆発を起こして、もうもうとした土煙が廊下を覆う。
オディールから注がれた膨大な魔力で土魔法が暴走してしまったのだ。
「もうっ！」
全身土だらけとなったミラーナは、抑えきれぬ怒りで体をブルブルと震わせる。
「ご、ごめん！ ちょっと驚かそうと……しただけなのよ」
少女は思わぬ結果に動揺し、冷や汗を流しながら弁解した。
鬼のような形相をして振り向いたミラーナの瞳には、恐ろしい光が宿っている。
「お嬢様……。いたずらは止めてくださいって何度もお願いしてますよね？」
「ご、ごめんなさーい！」
慌てて逃げるオディール。
しかし、廊下の向こうから、カッカッカと怒りのこもった足音が聞こえてくる。爆発音を聞いて慌てて飛び出してきた公爵だった。
「あわわわ、ヤベッ！」
逃げ場を失ったオディールは顔をしかめ、あたふたする。
「またお前か！ お前は王子と結婚してこの国の王妃となるんだぞ！ いつまでそんないたずらしとるのか！」
公爵はオディールを指さし、真っ赤になって怒鳴り散らした。彼の怒気が空気を震わせる。
後ろを振り向くオディールだったが、ミラーナが仁王立ちしていて逃げられない。
「せっかく婚約までこぎつけたんだぞ。お前がなすべきことは王子に気に入られ、子を産むことだ。他のことは一切するな！」
ものすごい剣幕でまくしたてる公爵に、オディールは窓の外をチラッと見てニヤッと笑う。
「やなこった！」
舌を出してあかんべーをしたオディールは、猫のようにすばやく窓枠に足をかけると、軽やかに跳ね上がる。
きゃははは！
オディールはまるで空を飛ぶかのように、トネリコの枝へと華麗に飛び移った。
「あ、危ない！」「な、何だと！」
あっけにとられる二人を見ながらオディールは、楽しそうに手を振って見せる。
「こっこまでおいでー！」
オディールはワンピースのすそをキュッと結び、するすると猿みたいに降りていく。
「お前！ 自分の立場を分かっとるのか！」
公爵は窓から身を乗り出して真っ赤になって怒るが、オディールは嬉しそうに、
「わかんなーい！ きゃははは！」
と、笑いながら走り去っていった。
「あ、あいつめ……」
公爵はギリッと歯を鳴らし、ガン！ と柱を拳で殴る。オディールを政略結婚の駒としか考えていない公爵の父娘関係はすっかり破綻していたのだ。
「も、申し訳ございません……」
ミラーナは土まみれのメイド服のまま、深々と頭を下げて謝る。この四年間、オディールの世話をし続けてきたミラーナだったが、オディールのお転婆っぷりには振り回されてばかりだった。
「婚約が破棄になったりしたらお前はクビだからな！」
公爵はミラーナを指さし、怒鳴りつける。いかつい体躯から繰り出される怒気にミラーナは圧倒され、青い顔でうつむくしかなかった。
◇
オディールは古びた物置の秘密の屋根裏に寝転がりながら、小さな窓から見える白い雲がゆったりと形を変えていくのをぼんやりと眺めていた。
「何が公爵令嬢だよ、ただの政略結婚要員じゃねーか。そもそもなんで女なんだよ！ はぁぁぁぁ……」
渋い表情でパン！ と太ももを叩き、長く重いため息を漏らす。
オディールは、東京の煌めく高層ビルの中で必死に働く若手サラリーマンだった。彼の日々は、終わりのない会議と厳しい営業目標に満ちていた。しかし、ある運命の夜、彼は突然の交通事故に遭遇し、息絶えて転生することとなる。
女神に転生の希望を聞かれ、「貴族でチートで」とお願いして、確かにその通りになった。しかし、女になるとは聞いていなかったし、こんな政略結婚をさせられる立場だというのも想定外である。
チートの方は、魔力無限大というとんでもない物をもらったものの、これもスキルをもらわないと活用はできない。スキルは明日、教会の【神託の儀】で受け取ることになっているが、どんなスキルかはまだ分からなかった。【大聖女】など大当たりであれば国を挙げて祝われるが、外れスキルだったら一生役立たず呼ばわりされてしまうだろう。
しかし、【大聖女】を引いたら幸せになれるのだろうか？ オディールは首を傾げ、眉間にしわを寄せた。確かにチヤホヤはされるかもしれないが、それが幸せにつながるかがオディールにはピンとこない。人々の羨望の眼差しの先にあると言われる幸せの本質に、オディールは確信を持てずにいた。
「あーあ……。異世界って言ったら、勇者になってハーレムで可愛い女の子たちとイチャイチャだろ常識的に考えて……」
うんざりした顔で肩をすくめ、首を振るオディール。
その時、ふと、背後に人の気配を感じた。
え……？
慌てて振り向くと、ミラーナが不思議そうな顔をして立っている。
「ハーレムでイチャイチャがどうしたんですか？」
「ミ、ミラーナ！ いたの！？」
「えぇ、お嬢様は嫌なことがあるといつもこちらですからね。……、王子様がハーレム作るのをご心配……されているんですか？」
心配そうにオディールの顔をのぞきこむミラーナの瞳には、うっすらと涙が宿っていた。彼女の声はかすかに震え、オディールへの深い想いがその言葉の一つ一つに溶け込んでいた。
オディールより二つ年上のミラーナは今年十七歳。メイド服を盛り上げる豊満な胸、すっぴんながら整った顔立ちには、すでに女性としての魅力が香り始めており、そのパッチリとした深いブラウンの瞳には、吸い込まれてしまいそうな魅力がたたえられている。
今は自分も少女ではあるが、心は二十代サラリーマン。無防備に近づかれるとどうにかなってしまいそうである。
「あ、あの女好きなら作るでしょ。王子様なら止めようもないし……」
勘違いしているミラーナに合わせながら、慌てて目をそらすオディール。
「あら、顔が赤いですね。熱かしら？」
オディールが自分にドキドキしているなんて考えもしないミラーナは、額をそっとくっつけてくる。
ええっ！？
目の前には美しくカールしたまつ毛に、澄み通ったブラウンの瞳。オディールは急速に高鳴る鼓動に、熱い感情が体中を駆け巡るような感覚に包まれた。
「うーん、少し高いかもしれませんね……。お部屋に戻りましょう」
ミラーナは優しく微笑みながら、オディールの手を取る。
う、うん……。
オディールはその手の温もりに心を満たされながら、恋に落ちたように静かにうなずいいた。
